白い現 二 後半部
煌煌と照り輝くその赤い花は、生きているかのようだった。
竜軌から受け取った種から芽生えたそれは、確かに荒太を鏡子の元へと導いた。
但し、育つまでに思った以上の時を要した。
やっと機が熟したと悟った荒太は、待ち侘びていた怜にこれを知らせ、彼を伴い鏡子と、彼女と共にいるであろう剣護のもとへと駆けつけたのだ。
真白が再び笑う為に。
剣護は驚いていたが、その驚きはどこかぼんやりとしたものだった。
来るかもしれない、という可能性を考慮していたことを、表情が物語っていた。
「あぁ。来ちまったか……」
苦く笑いながら、そう言う。
荒太も怜も息を弾ませていた。無理矢理に、花の呪力のみを頼りに剣護の結界に侵入したのだから、相応の負荷がかかって当然だった。
それでも二人の眼差しは、剣護に強く訴えていた。
行くなと。
嫌な目をしやがる、と剣護は思う。
(決心が揺らぐだろうがよ…)
先に息の整った怜が口を開く。秀麗な顔が、いつになく硬い。
「相川さん、やめてくれ。―――――俺が代わりに行くから」
今では怜も荒太も、鏡子の死がもたらすものに気付いていた。数日に渡り強力な緑の結界を創り上げた、剣護の意図にも。
(もっと早くに気付いていれば)
剣護一人に背負わせることもなかったのに、と怜は深く後悔していた。
自分はいつも一歩、大事なことに気付くのが遅い。
鏡子は怜を見て微かに首を横に振る。
「江藤君。門倉君の弟さんだと知って、あなたにも声をかけたけど、やっぱりあなたじゃダメなの」
「―――その人を、太郎兄を、連れて行かないでくれ。あの子が泣くんだ。真白が泣くんだ、きっと、ずっと。……心が、…壊れるかもしれない。太郎兄は俺たちの、命綱なんだよ」
怜はこれ以上ない程、必死だった。懸命に、鏡子に懇願していた。嘆願していた。
そんな彼に、鏡子は悲しく微笑む。
「私は悪い女だね、江藤君」
「そんな風には思わない。あなたの孤独が、少しだけど俺にも解らないでもないんだ。けど、それだけはやめてくれ」
後生だ、と怜は言った。
荒太も叫んだ。
「なら、俺が行ってやる!どちらにしろ誰か一人、結界を完全に閉ざす為に残らなくちゃならないんなら、俺が残る。俺のほうが専門家だ!」
「…嫌。あなた、女心が解ってないわ」
「お前は駄目だ、荒太。真白を一人にすんな」
眉を顰める鏡子に続いて、剣護も荒太を諌める。
「その言葉、そっくりそのまま返すわっっ!!」
すごい剣幕で、荒太が剣護を怒鳴りつけた。ぎらついた彼の眼は剣護を険しく睨み据えている。荒太の本気の怒りが、緑の空間をビリビリと震わせるようだった。
返す言葉が無く、剣護が頭をがしがし掻きながら、弟に目を向ける。
「次郎、真白を頼む」
「―――――出来ないよ、俺には太郎兄の代わりは無理だ」
剣護がふと笑う。
「代わりとかじゃねえ。お前、そのまんまで良い男だよ」
言葉を詰まらせた怜の声ではない、静かな声がその時響いた。
「どうして?」
白いワンピースを着た真白が、雪華を手にして立っていた。
神聖な空気を従えた少女はひっそりと降臨していた。
「しろ…」
剣護が痛いような表情で呼ぶ。
真白は表情の戻らない顔のままで、非難がましく言った。
「犬みたいに呼ばないで」
「―――――お前、年に一回くらい、それ言うよな…」
とりわけ神つ力に秀でた、雪華が真白をここまで導いたのは明らかだった。
主の嘆きに神器が動いた。
真白はゆっくり、視線を鏡子に据えた。
どこか神界にも似た平和な夢の中で、鏡子は確かに真白に告げた。
真白は思い出していた。
〝だって私は、あなたの子孫だから〟
鏡子が、怯んだ表情を見せる。
「……小雨?」
真白の呼びかけはこの上なく優しく、慈愛に満ちたものだった。
その場にいた誰もが、ハッとした。
「小雨なの?…私です、母ですよ」
嘗ての娘の面影のある鏡子を見た真白の中で、若雪の記憶が混同されている。
「こんなところで…、迷ったのですか?また、嵐どのと、お父様と喧嘩したの?嵐どのが、心配なさいますよ。小雨。憶えてる?あの、春の日。菫の花を髪に飾ったあなたは、春の精のようだった…。私はきっと、嵐どのが、あなたのお父様、あの意地っ張りな方が、あなたのお嫁入りには必ず泣かれるだろうと、そう思ったものです」
荒太が、顔を背けた。
鏡子は大きな目を広げて、真白の言葉に聴き入っている。
「―――――私を、母を恨んでいますか。まだ幼いあなたを残して、死んでしまった。あなたの花嫁姿を見ることも、叶いませんでした。だからですか?だから、私から、兄様を、太郎兄を取って行こうとして、困らせるの?小雨……」
真白は剣護に抱かれた鏡子に歩み寄ると、雪華を置き、剣護ごと、鏡子を抱き締めた。
肩に咲く花ごと、赤い少女の身体を抱き締めた。
「……お、かあ、さん」
か細い声で、鏡子が呟く。
「お母さん…」
天を仰いで、もう一度鏡子が呼んだ。真白も、鏡子も泣いていた。白い少女と赤い少女は、真実の母娘のように抱き合っている。
それを見守る緑の瞳からも、雫は滑り落ちていた。
「安心しな、真白。こいつは俺が救ってやるから」
「剣護」
「幸せになれよ」
「剣護」
「ありがとう。…さよなら」
「――――――剣護!」
トンッと柔らかく突き飛ばされた真白の身体は、怜の腕に収まった。
「相川も、もう余り長くない。手遅れになる前に、結界を密閉する。次郎、荒太、真白を連れて行くんだ。頼んだぞ」
怜の腕の中で、真白がしゃにむにもがいた。細くて白い腕が力の限り、あちこちに振り回される。
「――…っ…、叔母さんにはっ、ピーターには何て言うの、剣護。いやっ。嫌だ、剣護、剣護!!放して、次郎兄!いやだあっ!!剣護がいなくなるなんて、そんなのいやああっ!くれるって言った!!私に、くれるって言ったじゃない、剣護っ!?剣護お!!」
激しい真白の叫び声を聴きながら、怜はまだ目の前の現実を受け容れられずにいた。
三人で過ごしたあの夜。真白が子供のように屈託なく自分にじゃれつき、剣護が喚いていた、奇跡のような時間。現在の家族を傷つけてでも、手に入れたかった幸福に浸った。ずっと寒風が吹くようだった心が、確かに満たされたと感じた。荒野を抜けてやっとここに辿り着けたのだと。
(あれが、俺たちの最後になるのか)
まさかこうなることを見越して、せめてあの時間を、自分たちに残そうとしたのか。
奥歯を噛み締める。
真白はまだ泣き叫んでいる。普段は物静かな彼女が、髪を振り乱して涙を散らしている。
(それで良いのか、太郎兄。この子を、こんなにも泣かせて)
口の中まで噛んでいたのか、鉄の錆びたような味を舌に感じる。
どうでも良い、と怜は思った。自分の血の味など。どうでも良い。
「太郎兄っ!」
――――――――それで良いのか。
剣護は鏡子を抱いたまま、泣き叫ぶ妹の姿を目に焼き付けるようにして見ていた。
穏やかに自らも涙を流しながら唇にはごく淡い、笑みを浮かべて。
とても静かな表情だった。
(これが、お前が泣く最後になるように)
俺をあげるよ。
〝真白。お前に、いつか返すよ〟
〝何を?〟
〝そうだなぁ。心臓とか、魂とか?〟
〝…要らない〟
遠いあの日から、悪夢より救われた自分の命は、とうに真白のものだった。
いつか返すつもりで、ずっと生きて来た。
緑が閉ざされていく。
剣護は結界を重々しく閉ざしながら、尚も真白の顔を見つめ続けた。
最後の最後まで、惹き込まれたように見つめている。
真白。
俺の妹。俺の陽だまり。
――――最愛の命。
怜の腕に包まれた真白の意識は、次第に遠のいて行った。
薄れゆく意識の中、絶望と共に一つの確信を彼女は抱いた。
私はこの日を一生忘れない―――――――――。
私の世界から太陽が消えた日。