表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/102

白い現 二 前半部

        二


 そこは、それまでにいた荒んだ空間とは比べものにならないくらい、鏡子にとって心和む、穏やかな世界だった。

 この世で最も愛する色。剣護の瞳の色が、身を包んでいる。

 それだけでも幸せで泣けてしまいそうな鏡子の前に。

「…よお、相川。お前、また痩せたんじゃねえの?」

 優しく笑う剣護が、佇んでいる。自分を見ている。

 Tシャツに裾の擦り切れたジーンズという、あくまで飾り気の無い格好に加えて素足だ。

 彼自身も最後に会った時より、少しやつれたように見えた。

「門倉君」

「うん。俺な、今からお前の望み、叶えてやる。けどその前に、答えてくれないか」

「――――何?」

 何にでも答える、と鏡子は思う。

今、剣護が口にしたことへの喜びと引き換えになら。

「どうしてお前は若雪に似てる?…ただの偶然にしちゃ、出来過ぎだ」

 鏡子の顔が、固まる。

 剣護がその問いを口にするのは、詰まる所、真白の為だ。

 真白の為に、彼女が嘆く可能性を排除しておこうとしている。

 いつでも、剣護の行動の指針になるのは真白の存在なのだ。

 自分と二人でいて、自分の望みを叶えてくれようとする、こんな時でさえ。

 悔しくて寂しくて、妬ましかった。けれど鏡子は答えよう、と思った。

 現在、こうして剣護が傍にいるのは自分だからだ。

 自分の傍にいて、望みを叶えると約束してくれたからだ。

 彼は決して約束を破らない。

「…門倉さんの前生は若雪。門倉君、あなたの妹さんだよね。彼女とその夫である嵐の間に、子供がいたことは知ってる?」

「ああ。小雨(こさめ)、だろ?」

「そう。私は、彼女の子孫。若雪と嵐を中興の祖に持つ、望月家の末裔。相川は、母方の姓なの。世が世なら、私が次の望月家当主となる筈だった」

 剣護の胸に衝撃が走った。

〝透主〟

〝当主〟

 …透主は〝とうしゅ〟だからだ。

 竜軌の言葉の謎が解けた。

 真白や、荒太ですら、(やいば)を向けることは難しいだろうと語った理由。

(そうか。そういう、ことか。…確かに)

 知れば真白は、恐らく娘を彼女に重ねるだろう。

 若雪が死ぬ前に、嵐に宝として託した、大切な娘の面影を。

 知ってしまえば荒太も、きっと同様に。冷徹な彼の飛空であっても、鈍らずにはいられまい。若雪亡きあと男手一つで育て上げ、送り出した娘である小雨の花嫁姿を、最も感慨深く記憶しているであろう荒太だ。

〝まさか俺たちに姪っ子がいたとはね〟

〝しかしそうなると、この現代に、若雪の子孫がいるかもしれないって話になるよな〟

 真白が禊の時を終えて覚醒した晩、怜と交わした会話を思い出す。

 こんな形で、当事者と相対する日が来るとは、夢にも思わなかった遠い日。

 いや、正確にはあの会話をするずっと以前に、剣護は若雪の子孫である鏡子と出逢っている。剣護たちがそうと気付かない内に、とっくに、ここに至る物語は始まっていたのだ。

 鏡子は剣護の反応を窺うような目で見ている。保健室で彼女が(しき)りと見せた、懐かしい目だ。繊細な小動物にも似た目。

「ギレンが面白がって、二重の意味をかけて私を透主と呼んだのが始まり。…彼に言わせれば、私は先祖返りなのだそう。そもそも神の眷属である若雪の子孫には、代々、神つ力が命脈と共に細々と受け継がれていた。それも今では随分と弱まったけれど。私は(まれ)に、力が濃かったらしいの。魍魎が、私を喰らい切れなかったのはそのせい。でも、門倉君たちみたいに、喰らわれても忘れられない程ではなかった。すごく、中途半端だった。結局、そうした半端な力の素地が、私を神でも魍魎でもない化け物に変えた。魍魎を生かす代わりに、私もまた彼らから、力を貰わなければ生きられない身体になってしまった。あの、赤い鎖と足枷は、私を縛ってもいたけれど、私と彼らの生命線でもあったの。……もうすっかり全部、置いて来ちゃったけど」

 最後の言葉は、どこか清々しく語られた。

 剣護は鏡子の右足に目を遣る。そこには今、鎖も足枷も見出せない。赤いワンピースの裾からは、痛々しい程に細い足首が見えるだけだ。

 ―――――これはどういうことだろう。

 剣護には良く解らなくなった。

 目の前の少女が真実を語れば語る程、何が悲劇の根幹であるのか、解らなくなる。

 若雪が子を産まなければ良かったのか。

 若雪と嵐が出会わなければ良かったのか。

 自分たち三兄弟が、吹雪を呼ばなければ良かったのか。

 理の姫たちが、摂理の壁の崩壊を望まなければ良かったのか。

 それとも、もっと単純に、鏡子の両親の仲が円満であれば良かったのか。

 そうは言っても、人の心もまた恐ろしく難物だ。

 時に神々さえ手を焼く程に。

 考えてもきりが無い。自分が答えの出ない疑問に囚われていることに、剣護は気付いた。

 悲劇の根幹を探っても、過去を辿っても目前の現状は変わらない。それだけの時間も猶予も、自分たちには残されていない。

 向き合える対象は今だけだ。人の手には所詮、今しか持たされていない。自他の未来を想うのも、今があってこそ出来る行為だ。

 だから剣護は、もう一つの問いを口にした。

「相川。お前は、知ってたのか?」

 鏡子が不思議そうな顔をする。

「何を?」

 剣護が口を歪めて笑んだ。

「自分が死ねば汚濁が飛散し、俺らの住む町の一つくらい軽く覆うだろう、ってことをさ。伊吹法でも追いつかない。神つ力も持たない普通の人間は、ひとたまりもない。…だろう?」

 鏡子が顔をひくつかせた。

 それが答えだった。

 剣護は鏡子の非をあげつらうでもなく、静かな瞳で彼女を見た。

「…だよな。お前、透主だもんな」

 剣護は鏡子を透主と知り、彼女のことを思い出してから、そのことに気付いていた。

〝町が沈む――――――――〟

 鏡子の体内に潜む汚濁の営みは、彼女の命が尽きると同時に世に溢れ出る。

 真白の祖母も剣護の両親も、市枝や荒太の家族、舞香、友人も含め皆、亡くなるだろう。

 正確な規模までは剣護にも解らないが、少なくとも鏡子の亡骸を中心とした地域一帯は、ほぼ壊滅状態となる。犬猫や鳥など、人以外の動物に至るまで死を免れない。草木にもその影響は及ぶ。

 そして、変わり果てた廃墟の中で真白は泣く。

 きっと絶望の内に果てた鏡子をも想いながら。

(…あいつは泣き虫だからな)

 一遍に失わせるのは、可哀そうだ。

 最終的に、剣護に決意を促したのはその思いだった。

(頼むよ、神様。その為だったら)

 その為であれば自分の全部を投げ出しても良い。剣護はそう思っていた。

 ―――――鏡子は自分の死が招くものを解っていた。

 追い詰められ、狂気に(さいな)まれ、なりふり構っている余裕が彼女にはほんの僅かも無かったのだ。

 ただ、同じように人々を巻き込むのであれば、剣護の手にかかりたいと願った。

 剣護は鏡子を責めなかった。

 両腕を広げて朗らかに笑った。

「ここなら大丈夫だ、相川。俺が、すっげー丈夫にこの結界、作っといたからさ。な?お前さ、あいつらから力貰わなけりゃ死ぬんだろ?臥龍を使うまでもねえよ。お前が逝くまで、俺が抱いててやる。音痴で良けりゃ、子守唄でも歌ってやるよ」

 鏡子の頬を、涙が幾筋も伝い落ちる。

(――――――私の太陽)

 最後の最後で、私を救う。

「来いよ」

 剣護が手を差し伸べる。大きくて、声と同じく大らかな手だった。

 そろそろと、まだ信じられない心地で鏡子は剣護に近付く。剣護はその様子を見て、全く小動物だな、と思い笑った。そしてやっと、赤い少女に手が届いた。

 彼女の細い腕を掴んだ剣護は、その身体をしっかり抱き寄せた。

 早くもひんやりと冷えかけている鏡子の体温が、悲しかった。

 眉根を寄せ可哀そうに、と思う。

(ずっと独りだったな――――――お前)

 唯一残った家族の母親にも死なれ、自分を望まず、既に再婚した父親のもとに戻ったところで、その実家に鏡子の居場所がどれ程あっただろう。魍魎に喰われてからは一層、孤独の境涯となった。せめて最期くらいは、誰かに寄り添われて良いだろう。

「よっしゃ。…捕まえた。よしよし。辛かっただろ。ごめんな?もう、大丈夫だからな。もう大丈夫だ。俺も一緒に、行ってやるから」

 大丈夫だ、と剣護は繰り返した。

 鏡子が泣きながら目を閉じる。

 太陽に抱かれて、少女は幸福に泣いた。

(門倉さん。お願い。門倉君を、剣護君を、私にちょうだい…。お願いします)

 これっきり。たった一つ、これだけを私にください。

 少しでも、あなたが私を哀れんでくれるなら。

 これまでに直接顔を合わせたことのない少女。恐らく剣護が彼女を想うのと同様に、剣護を大切に想っているだろう少女。そして自分の先祖である尊い女性の、生まれ変わりでもある少女に、鏡子は切に願った。

 真白だけではない。

 誰からも愛される剣護。陽光を思わせる少年。

(私は太陽を略奪する女)

 彼さえいてくれるものならば、そう呼ばれ、後ろ指を指されても構わない。

 (そし)りも死も何も、怖くはない。

「……ん?何だこりゃ」

 そこで剣護が場違いに、(いぶか)しそうな声を上げた。

「えーと。相川、お前…。――――――肩に花、が…咲いてんだけど…」

 困惑した剣護の声に、鏡子も違和感を感じる左肩に目を遣ると、そこには確かに、花があった。宿主すら気付かぬ内に、それは見事に開花していた。

 (つや)やかな花弁を持った、赤い花。

 大輪が、華麗に花開いていた。

「ちょっと羽っぽくて、天使みてーだけど…一体、これはどういう」

「剣護先輩!!」

 突如、耳に飛び込んで来た馴染んだ響きに、剣護が驚いて顔を動かす。

 緑色の空間に、片手に鏡子の肩に咲く花と同じ、赤い花を(たずさ)えた荒太が、怜と共に降って湧いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ