白い現 一 後半部
怜は掌の上の緑色のガラス片を見ていた。
角が丸くなっているところを見ると、海岸ででも拾ったのかもしれない。
それは剣護が姿を消す前、怜に残した物だった。
真白と三人で寝泊まりした日から数日後、ふらりと剣護がにこにこコーポを訪れた。
日暮れが近かった。鈍い金色が、町の向こうに沈もうとしていた。
情報屋の大将から手に入れたという秘蔵の焼酎を掲げ、今日は二人で飲み明かそうぜ、と珍しく本腰を入れて飲酒に臨む気構えを見せた。剣護は、未成年ということはこの際忘れろ、ここに今いるのは元服を終えた太郎清隆と次郎清晴だ、という威勢の良い、しかしかなり無茶苦茶な理屈をぶって、焼酎の栓を開けた。
彼の勢いに釣られ、怜も久しぶりに酔いが回る程、飲んだ。
それでもアパートに泊まった翌朝、剣護は酔いが残る気配をほとんど見せなかった。確かな足取りで階下まで降りてアパートの駐車場まで歩くと、ドアにもたれて二階から何となく見送っていた怜の名を呼んだ。
〝次郎!〟
声と同時に、太陽の光を反射しながら飛来した物を片手で受け止めると、それは見覚えのある緑色のガラス片だった。剣護の部屋の、電気の紐の先に結びつけられていた物だ。どこかで拾ったと剣護からは聴かされていた。
〝お前にやるよ〟
そう言って笑った剣護の顔を見て、そのガラス片はきっと過去、真白から剣護の手に渡ったのだろうと見当がついた。
自分に遠慮して真実を隠していた兄の思い遣りを感じると同時に、なぜ今、これを自分に譲るのかという疑問が、黒いものと共に湧いた。
嫌な予感は当たった。
ガラス片を握り締めた怜は、部屋に座り込んだ真白を見た。
隣には市枝と、タイミングを計ったようにやって来た嵐下七忍の山尾が寄り添っている。
なぜか小テーブルの上の花瓶に活けられてある竜胆の花は、部屋の主であるかのような存在感だ。
真白の好きな花だったな、と怜は青紫の華やぎを目にして思った。けれど切り花では長くは保たない花だ、とも。―――――残り少ない命だ。姿形の美しいことは認めるものの、妹がこの花を好む事実は、怜にとって昔から、心密かに余り歓迎出来ないことだった。花言葉も真白に似つかわしくないと思う。
剣護が消えて三日の間、市枝は真白の家に泊まり込み、真白に付きっきりになっていた。
一切の食べ物を受けつけようとしなくなってしまった真白に、水分だけでも摂らせようと必死になっている。
市枝の奮闘とは別に、怜は怜で動いていた。
剣護の両親に頼んで入らせてもらった彼の部屋は、年相応に乱雑だった以前の印象を拭い去るように綺麗に整頓され、怜は、今回の一件が剣護の覚悟の失踪であることの確信を強めた。青ざめた顔の剣護の両親も、同様の確信を抱いているようだった。
〝あの子、莫迦だから。ほんとに、莫迦なとこがあるから……。莫迦なこと、考えてなきゃ良いんだけど〟
母親は茫然とした瞳で、学年首席を保持していた息子に対して、莫迦という単語を繰り返した。
〝だけど。…だけどまさか、私たちだけじゃなく、しろちゃんまで置いてくなんて〟
思わなかった、と震える声で続けると、その後、夫の胸に縋り泣き崩れた。
剣護がいなくなったという報せを受けた真白は、泣きも笑いもしなかった。そう、とそれだけ呟いたと聞いた時、怜は、彼女が何らかの予感を抱いていたと察した。
〝次郎兄、ごめんね…〟
駆けつけた怜に真白はそう言って謝った。その時はもう、真白の顔に表情は無かった。
剣護を止められなかった自分を責めてのものと思われる謝罪に、怜は胸が痛んだ。
だから彼女の自責の念を打ち消すように、強い声で断言した。
〝真白は何も悪くない〟
けれど怜の言葉は、既に真白の耳に届いていないようだった。
剣護の身も案じられるが、このままでは真白の身体が衰弱する一方だ。
二人の祖母が、イギリスにいる真白の両親と連絡を取りつつ、明日にも真白を病院に連れて行く仕度を整えている。
今、ぼんやりと山尾の毛並を撫でている彼女の目は虚ろだった。
怜は思いつく限りの場所を懸命に捜し回ったが、ついに剣護を見つけ出せなかった。
(――――成瀬。何をしている)
嵐下七忍の情報網も欲しいが、荒太の存在そのものが、今の真白には必要だ。
剣護が消えてから、怜は何度か荒太と連絡を取ろうと試みたが、一度も通話は叶わなかった。七忍の一員である山尾に、荒太を呼んでもらえないか尋ねたところ、主からは時が来れば連絡するとの伝言を預かっている、とのみ、グレーの猫は金色の目を光らせて答えた。怜はこの大柄な猫が、真白の為に、荒太の差し金で遣されたのではないかと疑っていた。時とはいつのことだ、と更に問い詰めたが、自分もそれは知らされていない、の一点張りだった。真白の持っている名刺から、同じく七忍の一人で、連絡先の解る兵庫に同じ要請と問いをぶつけても、返って来る反応は同様にすげないものだった。ただ時を待て、と繰り返された。
荒太は何かを待っている。
七忍たちの言動から怜も悟った。
しかし一体、何を―――――――――?
それでも今の自分には、荒太を呼ぶくらいしか、真白にしてやれることは無い。自らの無力が歯痒くて、怜はきつく唇を噛んだ。
「…うん、こんなもんじゃね?」
剣護は、周囲をぐるっと見回してから満足げに言った。
その言葉を聴く者は誰もいない。
どこまでも、灰色がかった緑色に広がる空間。
そこは、剣護が創り上げた結界だった。
真白や家族のもとを去ってからずっと、剣護の身は創生中の結界内にあった。
怜がどれだけ駆けずり回っても、見つかる筈はなかったのだ。
(ちっとタイムロスが大きかったな)
弟の苦労も知らず、頬を掻きながら思う。
何せこれまでに自分の結界を創った経験に乏しく、しかしこれからここで行う目的の為にはどこまでも頑丈なものを創る必要があった為、だいぶ時間がかかってしまった。
(…真白)
泣いているだろうかと思うと、覚悟していたものの、罪悪感に胸が軋むようだ。
生意気な面影が浮かぶ。
(――――――頼むぜ、荒太)
妹が惚れた相手が、自分の目に叶う男で良かったと剣護は思っている。
(お前はあいつを置いて行かないだろ?)
そして置いて行こうとする自分を、本気で怒るだろう。
きっと許せないと言って激昂する。
真白の為に。
そんな荒太だから託せる。
ふう、と息を吐いてへたり込む。
「あー、だりぃ…」
ずっと結界の創造に集中していたので、さすがに疲労が溜まっている。結界を張る、というファンタジックな響きのする作業においても、やはり肩は凝るらしい。結界内と外では多少時間の流れが異なるとは言え、いつまでも空腹を感じない筈はないだろうと、予め持ち込んでおいた非常食の空き袋や空の箱、ペットボトルなどが足元に散乱している。
その有り様を見た剣護はちょっと考えて立ち上がると、同じく漂うように転がっていたスーパー袋に、それらをまとめて入れた。親の躾というものが、こんな時にまで発揮されてしまうのだから何だか可笑しい。
「……………」
思えば好き勝手に生きさせてもらって来た。
親孝行という言葉とは、およそ縁の無い息子で終わるのが心苦しくはある。
結局、一磨の忠告を聞き容れることは出来なかった。
剣護は心の中で、両親に詫びた。
それから意識を切り替える。
成すべきことを、成す為に。
やっとここまで来たが、仕上げはこれからだ。
哀れな少女を、この空間に迎え入れなければならない。
そして――――――――。
剣護は気力を振り絞り、瞳に強い色を湛えた。
強い、強い、緑の色で呼び寄せる。
「俺も色々心残りがあってさ。待たせて悪かったな」
言霊が鳴る。
「来い、相川」
鏡子の見張り兼相手役として呼ばれた春樹は、自分の役割に飽いていた。
室内に置かれた脚の長い丸椅子に軽く胡坐をかくようにして座り、退屈だと叫ぶ表情を隠すこともなく晒している。
見張る対象が美少女なのは結構なことだが、この少女と来たら陰気で、自分が何を話しかけてもうんともすんとも言わないのだ。つまらないことこの上なかった。
「ねえ、鏡子ちゃんさあー、もーちょっと俺の相手もしてくれたって良いんじゃないのー?俺、あんたの為に呼ばれてんだよー?」
セットした髪が乱れない程度に、頭を掻く。
それでも鏡子は無反応を通した。
その時。
天蓋つきのベッドの上で、鏡子はビクン、と身体を揺らした。
まさかそんな。
そんなことが。
震える両手で、口を覆う。
(彼が呼んでる――――――)
門倉剣護の声がする。
――――――来い、相川――――――
信じられない思いで、鏡子はゆっくりと振り向いた。
その瞬間、鏡子の身体はベッドの上から消え失せた。
あとには鎖のついた、赤い足枷が空しく転がっている。
春樹は目を丸くしていた。
「ありゃ。…消えちゃった」
これじゃギレンに怒られちゃうな、と思い、慌てた春樹は頭を悩ませた。