白い現 一 前半部
終章 白い現
そして最後は
あなたに帰る
白い花びら白い雪
手を重ねたら約束の地に
私の愛しい風が吹く
一
夏期講習の後半日程も大半が消化されたころ、吹く風にもだいぶ涼しさが感じられるようになってきた。蝉の鳴く声も、少しずつだが控えめになっている気がする。
先程まで説明を受けていた、化学式の問題が解らねえ、と頭を悩ませていた畑中冬人に、声がかかった。
「おーい、畑中。良いもんやるよ」
呑気な剣護の声を、恨めし気に振り返る。
「何、お前のその優秀な頭脳とかなら、喜んで貰ってやるよ」
「おー、そりゃ残念。俺様の出来の良い頭は生来のものであって、お前にプレゼントしてやれる代物じゃあないんだなあ、これが」
腕を組んでしみじみと語る余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の態度を、憎らしい、と思いながらも畑中は訊き返す。
「んで、何をいただけますって?」
「これ」
そう言って、剣護が畑中の両手にバラバラッと落としたのは、数冊の単語帳と未使用の付箋だった。
「…何、これ」
「いや、見たまんまだろ。俺の使ってた単語帳。お前にやるよ。お前には、そんなに必要じゃないだろうけどな」
「何で」
単語帳は、英語が書き込まれた物に限らず、化学式や数学の方程式が書き込まれた物もある。成績優秀な人間は、大体にして、勉強の仕方のこつというものを心得ている。そこを押さえて試験で高得点を出す人間を、頭が良いと呼ぶのだと、畑中は常々考えていた。そしてそんな人間の用いる勉強道具もまた、それに見合って、要領良く学問を修得出来るように周到に整えられている。常に首席をキープする門倉剣護の単語帳が、他の生徒にとっていかに垂涎ものであるかは、推して知るべしである。
それを易々と自分に譲り渡そうとする、剣護の考えが畑中には理解出来なかった。
「ああ、俺、そろそろ受験に備えて本格的に、勉強の小道具を一新しようと思ってな。新しいやつを作りながらまた頭に叩き込んでくつもりだからさ。今までのはいらねえの。付箋はちょっと買い過ぎて余ってたぶん。おまけだよ」
スラスラと淀みなく発せられる言葉の、理屈は通っている。
だが、それでも畑中は剣護の態度に割り切れないものを感じた。
「…お前の勉強道具類、プレミア付きで売れるんだぜ?」
「知ってるよ。でも売るなよな」
「お、うーん」
「おいおい」
「解ってるよ」
「危ねえなあ」
念を押されるまでもなく、畑中にそんなつもりは毛頭無かった。
〝置き土産〟という言葉が畑中の頭をよぎる。
いつもと変わらない緑の目の悪友の笑顔が、なぜか畑中の胸をざわめかせた。
「お前、どっか遠出でもすんの?」
剣護がびっくりした表情に次いで顔を顰め、手を振る。
「まさか。この時期に。おっかなくて旅行にも行けねえよ」
「だよな、そうだよな」
剣護の返答は、大学入試を控えた受験生として、ごく妥当なものだ。
(そうだよな。…けど)
今、何か、未来の話をしなくてはならない。
畑中はなぜか強くそう思った。
「門倉、文化祭とか体育祭とかどうすんの」
剣護は首を傾げる。畑中の質問の意図が、良く把握出来ていない顔だ。
「どうって…。適当に遣り過ごすよ。去年の体育祭は、応援団長なんか引き受けちまったからな。今年はもう、あんな莫迦する余裕はねえよ、さすがに」
これも順当な答えだ。
畑中に単語帳と付箋を譲った以外、剣護は極めて普通の態度を示して見せる。
まるで畑中の疑念と質問を予め念頭に入れて、この場に臨んでいるように。
「――――真白ちゃんとこ、文化祭で何やるんだろな」
この台詞を言った時、緑の瞳から一瞬、仮面が外れたことを畑中は見逃さなかった。
「さあなあ。メイド喫茶とかやらんかな。俺、あいつのメイドさん姿、ちょっと見てみたいんだよな」
「男のロマンってか?ベタだな。でもそれは俺も見たいかも。まあ何やるにしてもさ、一回は真白ちゃんのクラスを覗きにいこうぜ、一緒に」
確約を、取り付けておこうと畑中は思った。
未来の確約を。何からかは解らないが、剣護を引き留めておく為に。
しかし。
「――――そうだな」
剣護の目は、必死になっている畑中の目から逸らされた。
(あ。こいつ。嘘、吐いた)
畑中は突き放された思いでそう感じた。
裏切られたような悔しさが胸を占め、急に周りの酸素が薄くなった気がした。
何かに、誰かに見守られているような、不思議と静かな印象のする一日だった。
のちに真白はこの日のことを振り返り、そう思う。
夏期講習を終えてから風見鶏の館を経由して、真白と共に帰宅する途中、剣護は怜行きつけのスーパーに立ち寄った。三人で鍋の材料を買い込んだスーパーだ。
「こんなところで何買うの、剣護?お腹空いたの」
「ん、いや、こういうとこに、意外にあるだろと思ってな」
そう言って、花が並ぶ売り場をキョロキョロ見回している。
「何が?」
再び真白が尋ねた時、剣護が目当てのものを見つけたらしく、歓声を上げた。
「お、あった、あった!」
それは大きな容器にみっしりと入った、竜胆の花の束だった。
濃い青紫が、豪勢な彩りを見せている。
好きな花を目の前に、真白の口元が思わずほころぶ。
「竜胆?竜胆を探してたの?」
「うん」
剣護も嬉しそうに頷く。
「どうして?」
「お前にやろうと思って」
そう言ってにっと笑う。
「…どうして?」
「真白、この花が好きじゃないか。たまにはね、俺も女に花を贈る練習の一つもしとかないとなーと思ってさ」
わざわざ花屋に入るのではなく、スーパーで調達するあたりがいかにも剣護だ。
「私は練習台?」
「そうそう」
悪びれず再び頷くと、剣護はレジ行って来る、と竜胆の花を一束、水から掴み上げた。ポタポタポタ、とたくさんの水滴が勢い良く容器の水に落ち、水面を乱した。
新聞紙にくるまれた竜胆の花を抱えて、真白は剣護と共に家までの道のりを歩いていた。
包みが新聞紙だろうと、美しい発色の花は真白の白い頬を際立たせ、見映えのする少女を通行人が振り返る。
「剣護らしくないことするね」
呟く真白の表情は、硬かった。胸の底から、いつかの夜と同じ不安が込み上げていたからだ。ざわざわと、街路樹が風に揺れる音が、自分の胸の音と重なる。
「だからさ、たまにはだって。良いじゃん、お前、ただで好きな花貰えんだから」
「…練習台だもの」
「―――――解ったよ。俺、あんまり似合わねえんだけど」
観念したように言った剣護は、立ち止まると真白の手から竜胆をひょいと奪い去る。
「剣護?」
剣護は歩道の上で、真白から数歩距離を置いて腰を落とし、長い身体を折り畳んだ。それからうやうやしい手つきで花束を掲げ持つと、真白に向けて差し出した。おどけて、求婚する男性を気取るように。真白は怖いものを見る目でそんな彼を見つめた。怖かったのだ。剣護の行動と、背後に透けて見える彼の意思が。
「真白にあげるよ」
簡潔な一言は、透明だった。
真白はその透明さの奥に、剣護のあらゆる感情を見た。
(――――剣護――――)
〝転んだのかっ。莫迦だなぁ。どれ、見せてみ〟
〝雪だ、雪!早く来いって。あ、厚着して来いよ!?〟
〝クッキーはあ、真白が三枚で、俺が五枚な?俺のがお兄ちゃんだから〟
〝泣くなよ、しろ。おい。泣くなってば…泣き虫〟
まだ子供だった剣護の姿が浮かんでくる。
白い歯を見せて笑う、緑の目の悪戯っ子。
あのころから彼は、たった一つの同じ言葉を、真白に向けて繰り返し叫んでいたように思う。
真白は多分、知っていた。余りに当然のこととして、それを享受して来てしまった。
だから罰が当たったのだろうか。
〝泣くなよ、しろ〟
声が出ない。
「真白にあげる」
念を押すように、剣護は繰り返して言った。
彼は微笑んでいた。
受け取ってはいけない。
真白はそう思った。
受け取ってはいけない。
「…剣護……」
けれど震えながら花束に伸びる自分の両腕を、真白の目は見ていた。
指先と指先が触れる。真白を守って来た大きな手の先端が、真白に触れる。
剣護の笑みは変わらない。永遠にそのままのように。
今のこの顔を、この笑みを覚えていろと言わんばかりに。
青紫の束を胸に抱えた時、真白は何かの儀式が終わったと感じた。
剣護は満足そうな表情を浮かべている。
「…剣護は、私のことが嫌いなの?」
「はあ?どうしてそうなる」
至極不本意そうな声が返る。
「じゃあ、どうして私を置いて行こうとするの?」
剣護の表情が微かに強張った。
「花束、返す」
「おい」
「だから、置いて行かないで、剣護、お花は、いらない、剣護なら、貰う。私から、勝手に、剣護を取り上げないで………剣護、貰うから…」
剣護が目を見張る。
真白は自分が何を口走っているのか、解っていなかった。
胸が苦しくて、涙を落としていることにも気付いていない。
剣護の顔が辛そうに歪む。
静かな住宅街の中で、少年と少女は、互いに掛け替えない存在を想って立っていた。
与えようとする少年と、失うまいとする少女と。
(この時間は、きっと切り取ったように私の中に残される)
何かを諦めたような悲しさで真白はそう思った。
今この時にも空は透き通ったように青くて、その青さが悲しい。
「―――――俺はお前が大事だよ、真白」
噛み締めるように剣護が言う。
「知ってるよ?生まれた時から知ってる」
「だったら…、置いて行く訳ないだろう」
言いながらも目は僅かに揺れる。実の中に虚が見え隠れする。
「本当に?」
「…ああ」
優しく細まる緑の瞳。
そこに溢れる優しさそのものに、決して嘘偽りは無かった。
薄闇で抱いた確信を思い出す。
剣護が遠くなる。
ぐんぐんと、すごい勢いで遠ざかり、見えなくなってしまう。
間近にいるのに、彼はもうここにはいない。
(そんな目をしても、あなたは、私を)
真白が瞬きする。新しい涙が一粒こぼれ落ちる。
私を、きっと置いて行く――――――――――。
嘘吐き。
その二日後、剣護は姿を消した。