表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/102

白い現 一 前半部

終章 白い現


そして最後は

あなたに帰る

白い花びら白い雪

手を重ねたら約束の地に

私の愛しい風が吹く


     一


 夏期講習の後半日程も大半が消化されたころ、吹く風にもだいぶ涼しさが感じられるようになってきた。蝉の鳴く声も、少しずつだが控えめになっている気がする。

 先程まで説明を受けていた、化学式の問題が解らねえ、と頭を悩ませていた畑中冬人に、声がかかった。

「おーい、畑中。良いもんやるよ」

 呑気な剣護の声を、恨めし気に振り返る。

「何、お前のその優秀な頭脳とかなら、喜んで貰ってやるよ」

「おー、そりゃ残念。俺様の出来の良い頭は生来のものであって、お前にプレゼントしてやれる代物(しろもの)じゃあないんだなあ、これが」

 腕を組んでしみじみと語る余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の態度を、憎らしい、と思いながらも畑中は訊き返す。

「んで、何をいただけますって?」

「これ」

 そう言って、剣護が畑中の両手にバラバラッと落としたのは、数冊の単語帳と未使用の付箋(ふせん)だった。

「…何、これ」

「いや、見たまんまだろ。俺の使ってた単語帳。お前にやるよ。お前には、そんなに必要じゃないだろうけどな」

「何で」

 単語帳は、英語が書き込まれた物に限らず、化学式や数学の方程式が書き込まれた物もある。成績優秀な人間は、大体にして、勉強の仕方のこつというものを心得ている。そこを押さえて試験で高得点を出す人間を、頭が良いと呼ぶのだと、畑中は常々考えていた。そしてそんな人間の用いる勉強道具もまた、それに見合って、要領良く学問を修得出来るように周到に整えられている。常に首席をキープする門倉剣護の単語帳が、他の生徒にとっていかに垂涎(すいぜん)ものであるかは、()して知るべしである。

 それを易々と自分に譲り渡そうとする、剣護の考えが畑中には理解出来なかった。

「ああ、俺、そろそろ受験に備えて本格的に、勉強の小道具を一新しようと思ってな。新しいやつを作りながらまた頭に叩き込んでくつもりだからさ。今までのはいらねえの。付箋はちょっと買い過ぎて余ってたぶん。おまけだよ」

 スラスラと淀みなく発せられる言葉の、理屈は通っている。

 だが、それでも畑中は剣護の態度に割り切れないものを感じた。

「…お前の勉強道具類、プレミア付きで売れるんだぜ?」

「知ってるよ。でも売るなよな」

「お、うーん」

「おいおい」

「解ってるよ」

「危ねえなあ」

 念を押されるまでもなく、畑中にそんなつもりは毛頭無かった。

 〝置き土産〟という言葉が畑中の頭をよぎる。

 いつもと変わらない緑の目の悪友の笑顔が、なぜか畑中の胸をざわめかせた。

「お前、どっか遠出でもすんの?」

 剣護がびっくりした表情に次いで顔を(しか)め、手を振る。

「まさか。この時期に。おっかなくて旅行にも行けねえよ」

「だよな、そうだよな」

 剣護の返答は、大学入試を控えた受験生として、ごく妥当なものだ。

(そうだよな。…けど)

 今、何か、未来の話をしなくてはならない。

 畑中はなぜか強くそう思った。

「門倉、文化祭とか体育祭とかどうすんの」

 剣護は首を傾げる。畑中の質問の意図が、良く把握出来ていない顔だ。

「どうって…。適当に遣り過ごすよ。去年の体育祭は、応援団長なんか引き受けちまったからな。今年はもう、あんな莫迦する余裕はねえよ、さすがに」

 これも順当な答えだ。

 畑中に単語帳と付箋を譲った以外、剣護は極めて普通の態度を示して見せる。

 まるで畑中の疑念と質問を予め念頭に入れて、この場に臨んでいるように。

「――――真白ちゃんとこ、文化祭で何やるんだろな」

 この台詞を言った時、緑の瞳から一瞬、仮面が外れたことを畑中は見逃さなかった。

「さあなあ。メイド喫茶とかやらんかな。俺、あいつのメイドさん姿、ちょっと見てみたいんだよな」

「男のロマンってか?ベタだな。でもそれは俺も見たいかも。まあ何やるにしてもさ、一回は真白ちゃんのクラスを覗きにいこうぜ、一緒に」

 確約を、取り付けておこうと畑中は思った。

 未来の確約を。何からかは解らないが、剣護を引き留めておく為に。

 しかし。

「――――そうだな」

 剣護の目は、必死になっている畑中の目から逸らされた。

(あ。こいつ。嘘、吐いた)

 畑中は突き放された思いでそう感じた。

 裏切られたような悔しさが胸を占め、急に周りの酸素が薄くなった気がした。


 何かに、誰かに見守られているような、不思議と静かな印象のする一日だった。

 のちに真白はこの日のことを振り返り、そう思う。

 夏期講習を終えてから風見鶏の館を経由して、真白と共に帰宅する途中、剣護は怜行きつけのスーパーに立ち寄った。三人で鍋の材料を買い込んだスーパーだ。

「こんなところで何買うの、剣護?お腹空いたの」

「ん、いや、こういうとこに、意外にあるだろと思ってな」

 そう言って、花が並ぶ売り場をキョロキョロ見回している。

「何が?」

 再び真白が尋ねた時、剣護が目当てのものを見つけたらしく、歓声を上げた。

「お、あった、あった!」

 それは大きな容器にみっしりと入った、竜胆の花の束だった。

 濃い青紫が、豪勢な彩りを見せている。

 好きな花を目の前に、真白の口元が思わずほころぶ。

「竜胆?竜胆を探してたの?」

「うん」

 剣護も嬉しそうに頷く。

「どうして?」

「お前にやろうと思って」

 そう言ってにっと笑う。

「…どうして?」

「真白、この花が好きじゃないか。たまにはね、俺も女に花を贈る練習の一つもしとかないとなーと思ってさ」

 わざわざ花屋に入るのではなく、スーパーで調達するあたりがいかにも剣護だ。

「私は練習台?」

「そうそう」

 悪びれず再び頷くと、剣護はレジ行って来る、と竜胆の花を一束、水から掴み上げた。ポタポタポタ、とたくさんの水滴が勢い良く容器の水に落ち、水面を乱した。

 

 新聞紙にくるまれた竜胆の花を抱えて、真白は剣護と共に家までの道のりを歩いていた。

 包みが新聞紙だろうと、美しい発色の花は真白の白い頬を際立たせ、見映えのする少女を通行人が振り返る。

「剣護らしくないことするね」

 呟く真白の表情は、硬かった。胸の底から、いつかの夜と同じ不安が込み上げていたからだ。ざわざわと、街路樹が風に揺れる音が、自分の胸の音と重なる。

「だからさ、たまにはだって。良いじゃん、お前、ただで好きな花貰えんだから」

「…練習台だもの」

「―――――解ったよ。俺、あんまり似合わねえんだけど」

 観念したように言った剣護は、立ち止まると真白の手から竜胆をひょいと奪い去る。

「剣護?」

 剣護は歩道の上で、真白から数歩距離を置いて腰を落とし、長い身体を折り畳んだ。それからうやうやしい手つきで花束を掲げ持つと、真白に向けて差し出した。おどけて、求婚する男性を気取るように。真白は怖いものを見る目でそんな彼を見つめた。怖かったのだ。剣護の行動と、背後に透けて見える彼の意思が。

「真白にあげるよ」

 簡潔な一言は、透明だった。

 真白はその透明さの奥に、剣護のあらゆる感情を見た。

(――――剣護――――)


〝転んだのかっ。莫迦だなぁ。どれ、見せてみ〟

〝雪だ、雪!早く来いって。あ、厚着して来いよ!?〟

〝クッキーはあ、真白が三枚で、俺が五枚な?俺のがお兄ちゃんだから〟

〝泣くなよ、しろ。おい。泣くなってば…泣き虫〟


 まだ子供だった剣護の姿が浮かんでくる。

 白い歯を見せて笑う、緑の目の悪戯(いたずら)っ子。

  あのころから彼は、たった一つの同じ言葉を、真白に向けて繰り返し叫んでいたように思う。

 真白は多分、知っていた。余りに当然のこととして、それを享受して来てしまった。

 だから罰が当たったのだろうか。

〝泣くなよ、しろ〟

 声が出ない。

「真白にあげる」

 念を押すように、剣護は繰り返して言った。

 彼は微笑んでいた。

 受け取ってはいけない。

 真白はそう思った。

 受け取ってはいけない。

「…剣護……」

 けれど震えながら花束に伸びる自分の両腕を、真白の目は見ていた。

 指先と指先が触れる。真白を守って来た大きな手の先端が、真白に触れる。

 剣護の笑みは変わらない。永遠にそのままのように。

 今のこの顔を、この笑みを覚えていろと言わんばかりに。

 青紫の束を胸に抱えた時、真白は何かの儀式が終わったと感じた。

 剣護は満足そうな表情を浮かべている。

「…剣護は、私のことが嫌いなの?」

「はあ?どうしてそうなる」

 至極不本意そうな声が返る。

「じゃあ、どうして私を置いて行こうとするの?」

 剣護の表情が微かに強張った。

「花束、返す」

「おい」

「だから、置いて行かないで、剣護、お花は、いらない、剣護なら、貰う。私から、勝手に、剣護を取り上げないで………剣護、貰うから…」

 剣護が目を見張る。

 真白は自分が何を口走っているのか、解っていなかった。

 胸が苦しくて、涙を落としていることにも気付いていない。

 剣護の顔が辛そうに歪む。

 静かな住宅街の中で、少年と少女は、互いに掛け替えない存在(もの)を想って立っていた。

 与えようとする少年と、失うまいとする少女と。

(この時間は、きっと切り取ったように私の中に残される)

 何かを諦めたような悲しさで真白はそう思った。

 今この時にも空は透き通ったように青くて、その青さが悲しい。

「―――――俺はお前が大事だよ、真白」

 噛み締めるように剣護が言う。

「知ってるよ?生まれた時から知ってる」

「だったら…、置いて行く訳ないだろう」

 言いながらも目は僅かに揺れる。実の中に虚が見え隠れする。

「本当に?」

「…ああ」

 優しく細まる緑の瞳。

 そこに溢れる優しさそのものに、決して嘘偽りは無かった。

 薄闇で抱いた確信を思い出す。

 剣護が遠くなる。

 ぐんぐんと、すごい勢いで遠ざかり、見えなくなってしまう。

 間近にいるのに、彼はもうここにはいない。

(そんな目をしても、あなたは、私を)

 真白が瞬きする。新しい涙が一粒こぼれ落ちる。

 私を、きっと置いて行く――――――――――。

 

 嘘吐き。


 その二日後、剣護は姿を消した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ