散華 四 中
真白が泣いていた。
部屋の隅で淡い紫のクッションを抱いて、声も無く肩を震わせている。
(真白さん…)
部屋の戸を半ばまで開けた荒太は、入口に立ち尽くした。
理の姫、並びに明臣を除いた花守散る、の報をもたらされた荒太は、剣護より真白の傍にいてやってくれとの要請も受け、門倉家に来た。二人の祖母は家を空けている。
今でもまだ信じられない思いだった。
彼ら神々は、永遠だと思い込んでいたのだ。例え明臣のように人に似た懊悩を抱えようと、輝かしく存在し続ける不変の存在なのだと。何せ嵐だった時から、戦国の世から知っていた相手だ。
ことの顛末は、明臣から真白の陣営に属する者全員に知らされた。いつも陽気で朗らかな赤い髪の花守が、今回ばかりは沈鬱な面持ちで、何か罰を受けている者であるかのように、語って聞かせた。最後には、助力を受けながらこのような事態になって申し訳ない、だが主である理の姫を許してやって欲しいと、謝罪に嘆願を重ねた。どこまでも神妙な態度だった。
話を聴いて荒太が一番に思ったのは、水臣のどうしようもない愚かさだった。
なぜ、好きな女を死なせるような真似をするのか、と。
どんなに生かしたくても、生かせない命もあるのだ。
前生より好かない相手ではあったが、まさかこれ程の莫迦を仕出かすとは思わなかった。
そこには嘗ての自分を見るような思いも、あったかもしれない。
(解ってる――――。あいつは俺に似てた。だから怒りも、ここまで募る)
理の姫も無責任だ、と思った。
真白をこの戦いに巻き込んだのは、そもそもは彼女なのだ。その戦いの行方も見届けずに自死するなど、真白の存在を何だと思っているのだ。
〝大丈夫だよ、光。私もいるから〟
真白がどんな思いでそう言ったのか、理の姫には解っていなかったというのか。
(真白さんが可哀そうだ…)
何が姉だ、何が妹だ。
真白は結局、捨てられたのだ。
理の姫は、真白が差し伸べた手を踏みにじる行為をしたのだ。
(許せない)
荒太は拳を強く握ると、室内に足を踏み入れ戸を閉めた。
「真白さん」
呼びかけると、真白の肩が大きく揺れて、白い面が荒太に向いた。幾粒もの雫が伝う、白い面が。クッションが手からポロ、と落ちる。
荒太はそれを見ると堪らなくなり、大股で真白に近付くと細い肩を抱いた。
真白の腕が、荒太の首に縋りつく。
「――――荒太君。荒太君」
「泣くなよ。―――――あんな奴らの為になんか」
すると真白が勢い良く顔を上げ、ふるふると横に振った。
「光は、私を捨てたんじゃない。怒らないであげて」
荒太の頭に、カッと血が上った。
「捨てたじゃないかっ!現に真白さんは泣いてる!理の姫は、恩知らずだ。…俺は許さない。こんなことになるんだったら、真白さんに相談された時、何が何でも反対すれば良かった。だって真白さんは、参戦を決めてからたくさん泣いた。何度も何度も、泣いたじゃないか!!苦しんで。自分を責めて、追い詰めて。俺はそんなの、見たくなかったんだっ」
ただひたすら真白の意思だからと思い、尊重した。
(―――――しなければ良かった。無理矢理にでも守りの中に閉じ込めて。懇願してでも、真白さんをずっと放さずに、引き留めてしまえば良かった)
真白をこれ以上追い詰めたくないと思うのに、荒太の口は止まらなかった。
それでも真白は、違うと首を横に振る。動きに合わせて、涙が散って光った。
「私は後悔してない!光は、光は、水臣のことが好きだったの。だけど理の姫だから、自分の想いをずっと堪えてた。私、解ってた…。荒太君、知ってる?神様ってね、祈ることが出来ないの。祈る対象を、最初から奪われてるから。それって、すごく辛いんだよ。世界で独りっきりの気持ちになるの。―――――――光はずっとそこに佇んで、ただ水臣を想うしかなかった。…目の前で散る水臣を追った彼女を責めたくても、私にはその言葉が見つからない」
荒太は、言い募る腕の中の真白が、どうにも腹立たしくて、愛しかった。
何に対して、というものでもなく、無性に悔しくもあった。
「―――――どうして許せるんだ?」
傷ついていない筈などないのに。
「それはね、荒太君」
荒太の問いに、真白が涙を抑えながら笑顔らしきものを作ろうとする。成功しているとはとても言い難い。だが、瞳に宿る色はどこまでも真っ直ぐだ。
許せる理由は、簡潔だった。
「光が私と同じだから。きっとあなたを失えば、私も同じ道をゆく。…誰を嘆かせても」
真白には出来ない。
荒太は一瞬でそう判断した。
彼女には捨てられないものが多過ぎる。それは剣護であり、怜であり、市枝であり、家族だったりする。親しい者の誰一人、欠かすことが出来ない。誰かが泣けば、その泣き声に振り向かずにはいられない。それは真白の情の濃さであり深さだった。比較して理の姫の天秤は、余りに水臣に傾き過ぎていた。他の花守の存在も、姉である真白の存在も、彼女が死を選ぶ抑止力にはならなかった。
しかし真白の本心から出た言葉は、思わず言葉を失うくらいに嬉しかった。
本来であればここで彼女を咎め、諌めるべきだと解っていても、どうしようもなく、後ろめたい喜びに心が躍った。真白の耳に、確かに響くように問いかける。
「……俺がとても、とても大事?真白さん」
「当たり前のこと、訊かないで。荒太君、いつもそう。あなたがいなくなることに耐えられないって、あんなにはっきり言ったのに。私、言ったのに。荒太君、ちっとも聴いてくれてない!ひどいよ…。光の話を聞いて、荒太君に、水臣みたいに死なれたらどうしようって、私がどんなに怖がったか少しも知らないでっ」
また真白を泣かせてしまった。
後悔した荒太は、全面降伏した。
「ごめん。ごめんなさい。…俺が悪かったです。ごめん」
〝真白様はね、荒太様のことをそれはお好きですよ〟
兵庫の言葉を、慰め混じりのものと聞いていたのだが。
(真白さん、俺のこと、ものすごく好きだ。何だ。何だ。―――――俺、幸せだ)
若雪が、嵐の求婚を受け容れてくれた時の幸福感を思い出す。
絶対に、真白に理の姫と同じ道は歩ませまいと心に誓う。
(俺は水臣みたいな望み方はしない。真白さんが隣にいてくれるだけで、それで良いんだ)
荒太の腕の中で、まだしゃくり上げながら、それでも真白は少しずつ落ち着きを取り戻していった。荒太はそれを見守り、ずっと真白の背中を緩くさすっていた。
しばらく時が経ち、真白は、今では細い首を俯かせ、荒太の胸に大人しく身を預けている。信頼されていることへの充足を感じる。
「……真白さん。何か俺に、出来ることはない?して欲しいこと、ない?」
何でも良いから、彼女の慰めになることをしてやりたいと思った。
真白は顔を上げ、涙の残る、子供のように澄んだ瞳で少し考える風だった。
「…何でも良いの?」
「良いよ」
荒太は笑って答える。自分でも優しげな笑みだと解る。作ったような、安っぽい笑いではなく。
「―――――あの、歌を」
「歌?」
「うん、お願い。あの歌を、」
歌って、と突然に請われ、訊き返してから思い当たった。若雪が、出雲で母から歌ってもらっていたという子守唄だ。前生で、彼女が歌うのを聴いたことがある。
確か、輪廻転生を歌った―――――――。
そこまで思ってから、荒太は胸が詰まった。
呆気なく置いて逝かれて。それでも真白は、光を妹として好いていたのだ。
呼吸を落ち着かせ唇を湿して、息を吸いながらゆっくりと口を開く。
最愛の少女の為に、彼は極めて穏やかな旋律を紡いだ。
回れば廻る
廻れば逢える
回る輪の内出でぬなら
輪の内回ってまた逢える
雪と光は姉妹
金銀砂子の見守りて
廻りを待てとや歌いけり
廻りを待てとや笑いけり
歌を聴きながら再び静かに涙を流す真白を、荒太は包むように抱いていた。
真白の温もりに浸りながら、身体が二つあることの煩雑さを思う。
いっそ二人で一つきりなら面倒が無いのにと。