散華 三
今回の話には、残酷な描写が含まれます。ご注意ください。
三
荒んだ風の吹く、そこは地の果て。天の果て。
この世の摂理を司る摂理の壁が、真新しくも聳え立つ断崖絶壁。
新たに壁を守る役目を負うた、老翁たちの慄きが聴こえる。
「赤色?莫迦な」
「摂理の壁が、なにゆえ今更、赤色を示す」
「吹雪を終えて、初のことでは」
「魍魎も、あらかた先が見えたところであろう」
「さればなにゆえに」
「よもや」
「まさか」
「いやまさか」
「…理の姫の、御身に何か?」
「―――――――有り得ぬ」
「左様、彼の方は、永遠なれば」
「したが既に、花守に落伍者が出たと言うではないか」
「いやしかし、姫は永久の花なれば」
「左様」
「永久の花なれば」
早朝の公園は朝日に照らされ、淡いレモン色に染まっている。
柔柔として平和な朝が、始まろうとしていた。
水臣の座るベンチのペンキは、まだ塗られてそう日が経っていないらしい。真新しい若草の色だ。その色が連想させる一人の花守を思い出し、水臣は緩く笑んだ。
花守の中でも、とりわけ理の姫を明けっ広げに慕う彼女は、これまでに何度手厳しい忠告を自分に重ねたことか。時には戦闘的な態度さえ見せて。
〝あなた、解ってらっしゃるかしら?自分が姫様を楯に安全を得ていることを〟
そう言われた時はさすがに、参ったな、とも、成る程な、とも思わせられた。
(木臣。お前は決して私を許すまい)
それでも陽の光を受けた水臣の顔は、ひどく穏やかだった。
足元の小花が目に入る。
名も知らない、黄色い小花を見ても、理の姫の顔が浮かぶのは我ながら不思議だった。
(あの方は気高き花。諸人の手の届かぬところに咲く、愛おしき我が花)
我が花。
〝あなたは自惚れが過ぎる〟
理の姫ゆえにと自らを縛り、言の葉にはそう上らせて。
(…姫様は嘘が下手であらせられる)
自惚れでも何でもない。理の姫は自分を想っている。
〝私はあなたの手にかかって死にたいと思う〟
何よりその言葉が、彼女の思いの丈を物語っているではないか。
苛烈な愛情の吐露は、水臣を歓喜に震わせた。
けれど、まだ足りなかった。
いつも考えていた。
理の姫が真実、自分のものになれば。
涙も笑顔も怒りも全て、この手に得られるのならば。
(私は、我というものを持って初めて、満たされることを知るだろう……)
木臣の朗らかさも、明臣の優しさも、金臣の凛々しさも、黒臣の愚直さも。
理の姫を彩る花びらたる彼らを、水臣は嫌いではなかった。
ただ、自分には不要な存在と思い、理の姫が心許す彼らが時に疎ましくもあった。
それが、ずっと変わらない自分の在り様だった―――――――。
「これはまた、元花守どのがこんな場所で何をしておいでかな?……おや、もしや私は、待ち伏せされたかな?」
コツ、コツ、コツ、と、ゆっくり近づいてくる足音は、水臣の座るベンチの近く、噴水脇で止まる。
朝の光を浴びても変わらないチャコールグレーの色を、水臣は皮肉に思う。
ギレンは口元に笑みを刷き、両ポケットに手を入れてゆったりと立っていた。
そのまま、水臣にごく軽く問う。
「一戦、交えるかね?」
煙草の火を貰えるか、とでも言うような、気安い口調だった。
水臣が立ち上がり、口の端を釣り上げる。
「無論――――――その為に来た」
そう不敵に言うと、空に手をかざした。
平原に腰を下ろし、神界の風に吹かれる理の姫の身を、稲妻が走るような衝撃が駆け抜けた。彼女が見たものは、あってはならない先の映像だった。
「姫様?いかがされました」
金臣が問いかける。身を屈めての問いの為に、黄金の長い髪は地を這っている。緑と金の色が、緩やかに交わる。
その色合いの妙も何も、今は映すことのない理の姫の薄青い目は大きく見開かれ、柳眉は険しく顰められている。顔色は白を通り越して蒼白だ。
何事、と金臣は思う。つい先程まで、ゆったりと落ち着いていたというのに。
真白たちの協力のもと、魍魎の討滅もようやく終息を迎えそうだと、二人で語らっていたところだった。穏やかな時が戻るのだと、笑みながら。真白には、何か恩を返さなければならないと話していた。水臣が去って以来、ずっと塞いでいた理の姫の久しぶりに寛いだ表情に、金臣も安堵し喜んでいた。
だが安堵も喜びも、理の姫の一言の前に儚く沈む。
「水臣…」
淡い色の唇から、その名前がこぼれ落ちる。
痛ましい思いで、金臣はそれを聞く。やはり、どうあっても忘れられるものではないのだ。忌まわしくも慕わしき、金臣の同胞。
水臣。
その名前こそが、金臣の主、理の姫の全て。
人であれば、誰に憚ることなく命とも言えたものだろう。
(お労しい…)
突如、ガシッと理の姫に両肩を掴まれ驚く。
「姫様?」
「金臣、どうすれば良い…。水臣が、戦っている」
「…魍魎とでございますか?」
それが、理の姫が我を失くす程のことだろうか。
肩を掴む細い指が震えていることに、金臣はますます異様の感を覚える。
「姫様、どうかこの金臣にも解るよう、教えてくださいませ。何を…予見あそばされたのですか?」
しかし理の姫は、金臣を見ようともしない。
今は両手で頭を挟み、全身を震わせている。
「水臣。水臣が。どうしよう、金臣。水臣が――――――」
「姫様!」
理の姫の顔からは、表情が抜け落ちていた。
「――――――散るつもりだ」
水臣の清らな剣は、数度の打ち合いの間、ギレンの剣を幾度も激しく刃毀れさせた。
対してギレンもまた、水臣の剣に数回に及んでひびを生じさせていた。
しかしギレンの剣は刃毀れの度に土が欠けたところを覆い、水臣の剣はひびが生じるたびに水がこぼれ出て、互いの剣は修復を繰り返し変わらない姿を保っていた。
上段から振り下ろされた透明なる水の剣は、土の剣に正面から受け止められる。
ギレンが水の刃を弾き飛ばし、水臣が後方に退いて構えた。
「無様だな、魍魎」
水臣の揶揄する言葉に、ギレンはふん、と息を吐いた。
彼の左腕は根元から綺麗に切り落とされていた。
滴り落ちる、夥しい赤を見て、水臣が首を傾げる。
「ほう…まるで徒人のような色を出す。いっぱしに」
水臣の剣により隻腕となったギレンは、戦い半ばから、水臣の攻撃を右手一本で凌いでいたのだ。水臣もまた、無傷ではなかった。腕を失ったギレン程ではないにせよ、常には水のように透明で清らかな印象を与える外観が、無数の傷により荒んだ赤に染まっている。一つに結ばれていた長い髪も今は解け、黒にも近い深い青が風に幅広く靡いていた。
その様が、無残にも美しくギレンの目に映る。
ギレンが堪え切れなくなったように哄笑した。
「あっはっはっは。良いねえ。君のような者が、神の端くれというのだからな。私はむしろ嬉しくなってしまうよ。……つくづく、こちら側に来てもらえなかったのが残念だ」
荒い息の中から、それでもどこか楽しげにギレンは声を絞り出す。
ふと、その愉快そうな笑顔が真顔になる。
「―――…それにしても、君。これはどうしたことだろうね?私の力を圧して余りある君だが、どうにも私は、君が私に手加減しているように思えてならないのだよ。そんな可愛げなどあるまいに」
水臣はそれには答えず薄く笑うと、素早くギレンとの間合いを詰めた。
キィンッと再び刃の打ち合う音が響く。
(――――姫様。あなたは、私との関わりに、どのような先をお望みですか。…お解りでございましょう。今を保つことは、最早不可能。ゆえに私は、動くしかなかったのです)
数度、水の剣がギレンの髪をかすって散らす。銀縁の眼鏡は戦いの初めに、既にどこかに飛ばされていた。細めた双眼で、ギレンが水臣を睨めつける。自他を嘲笑うように口元を歪めた。
「なぶるか、花守」
「いや?待っているだけだ」
何を、とギレンが問い返すまでもなく、それはそこに来ていた。
「水臣―――――――!!」
ああ、私の光が来た。この世で最も美しい光が。
私を想って泣く為に。
私を想って泣く為に。
水臣は笑った。勝利者の笑みで。
それから、間近にあったギレンの持つ鉄剣を素手で掴むと、自らの胸に突き立てた。
一瞬が、まるで永遠のように過ぎた。
ギレンは信じ難い表情で剣を引き抜いた。
ズル…、という鈍い音がする。
常軌を逸したとしか思えない水臣の行動にギレンは目を大きく見開き、眉間には深い皺を刻んでいる。
そして彼は悟った。
初めから、水臣の狙いはこれにあったのだと。
単独による魍魎狩りも、全てはここに行き着く為に。
(狂気の沙汰だ――――――)
「…恋情ゆえに私を利用したか!」
哀れみとも侮蔑ともつかない表情をギレンが浮かべる。
顔を険しく強張らせた金臣の琥珀色の刃が、空を切る音を響かせる。
それを自らへの威嚇と察したギレンは退却の構えを見せ、金臣の薄青い瞳と睨み合うこと数秒、身を引き摺るようにしてその場を去った。激しい赤で地面を染め上げながら。
金臣にそれを追う余裕は無かった。
残されたのは、横たわった水臣。
それから茫然と立つ理の姫、金臣の二人だった。
早朝の公園には、この世ならぬ空気が満ちていた。
そこだけが結界により、他より切り取られていたせいでもある。
水臣が待ち望んだ涙が、理の姫の双眸より溢れ、流れ落ちた。
水臣が待ち望んだ嘆きが、理の姫の口から、悲鳴となって迸っていた。
「いや、いや、いや、水臣、水臣、水臣」
名を呼ばれる度、水臣の胸がこれまでにない至福に満ちてゆく。
自分の名だけを理の姫の唇が紡ぐ、快感と悦楽。――――――喜び。
「姫様」
万感の思いを込めて、呼びかける。
「水臣、答えなさい、水臣!なぜ、なぜこんな、莫迦なことをっなぜ!!」
「…はぐれた花守が、魍魎と戦い敗れました。御老翁たちへの建前としては、十分かと」
理の姫の薄青い瞳から、大粒の涙がバラバラと幾粒も落ち、水臣の顔を打つ。
〝姫様は、麗しき花の容〟
歌うように、自分のことのように自慢げに木臣が口にしていた言葉。
(全く……その通りだな)
涙を落とす、嘆きの表情さえその美しさを損なわず、彩る。
(私の花、私の光)
その全てが最初から、自分のものであったなら。
「そのようなことは訊いていない!なぜっ………………、」
それが限界だった。理の姫の身体から、力が抜ける。
理の姫は水臣の身に縋りついて泣いた。
「――――――水臣…、水臣…、…私を、独りにしないで…独りにしないで…頼む」
至高の存在の哀願に、水臣は酔いしれる。
今、理の姫が希う相手は、自分ただ一人。他の誰でもない。
がふり、と咳をして、水臣は理の姫の濡れた頬に触れた。
白皙の頬に赤が移る。
手に入れた、と思った。同時に、身体の傷とは別に、胸に鋭い痛みが走った。予期せぬ痛みに、理の姫と同じ薄青い瞳を見開く。
莫迦な、と。
(莫迦な…。この、私が。今更)
理の姫の嘆きが辛いだなどと。
この結末により、理の姫は永劫、自分を忘れず、笑顔を忘れ、嘆き続ける。
それこそが永遠。理の姫の存在そのものが、自分のものになる。
これで全てを手に入れたと思ったのに。
(こんな落とし穴に、この、私が?)
理の姫が涙を流しながら水臣に口づける。深く、長く。
水臣は目を閉じてそれを受けた。互いに、互いの唇を貪るように味わう。
(姫様…。―――姫様――――)
涙と血が混ざり合う。
唇を離した理の姫は、涙と血に濡れた顔のままただ一言、水臣に請うた。
「共に逝かせて」
金臣が血相を変えた。
「なりません、姫様っ」
理の姫が金臣を見る。金臣は、それだけで全てを封じられた。
神力ではなく、嘆く瞳が金臣の言葉も動きも奪った。
「落日の、」
花の唇が動く。
「………落日の扉は、今ここに開かれよ。我は其をおとなう客なり」
歌を詠むような玲瓏たる声に、どこか遠くで、重い闇が開く。
雅な闇。漆黒の中の漆黒が守り抱く尊い宝が、姫の声に招かれる。
理の姫のたおやかな手に現れる、金色の剣。
柄に埋め込まれた五色の宝玉は花守を表わす。
金臣は何も出来ずに、その光景を、唇を震わせて見ていた。
今から、彼女にとって最も敬愛すべき主の命が失われようというのに、腕の一本も動かすことが出来ない。
(お待ちください、姫様)
〝残照剣〟または〝照る日〟とも呼ばれる神殺しの宝剣は、美しかった。
(我らを置いて逝かれるのですか。我ら花守の皆を)
木臣を。黒臣を。明臣を。自分を。
水臣ただ一人を追ってゆく、その為だけに。
〝次郎兄を助けてくれて、ありがとう〟
柔らかく優しい声で、白い少女は自分にそう礼を言った。
あの時、理の姫が真白を姉と慕う気持ちが、解った気がしたのだ。
その真白をも置いて。
(姉君様とて、雪の御方様とて嘆かれまする、必ずや)
美しい残照剣の柄を両手で掴み、理の姫は再び、水臣に請う。
微笑みながら。
涙と血に彩られた凄絶な微笑みは、それでもこの上なく清浄に美しかった。
「―――――――共に」
金臣が、首を激しく横に振る。何度も何度も。
「姫様――――――――っ!!」
(それは余りにむごうございます)
水臣の視界に、金臣の悲嘆する様は入っていなかった。
水臣は残り少ない時間の全て、理の姫の何ものをも見逃すまいと、凝視する為に費やそうとしていた。
これで双方が死ねば、恐らく摂理の壁の定めのもと、二人は人の世に転生することになる。
真実、触れ合うことが可能な身となるのだ。
それは水臣にとって恐ろしいような僥倖だった。
(事態はいつも…私の思わぬ方向に動く。これが神というのだから、笑えてしまう。だが。だが……)
地に落ちた種はやがて芽吹き、緑なす大地と広がるだろう。その大地に咲く花はやがて、一筋の細い水の流れと出逢うだろう。
(出逢うだろう――――――きっと)
「姫様。次にお会いする時は、私のものになってくださいますか?この、哀れな魂に、永遠をお与えくださいますか」
理の姫は澄んだ瞳で最も愛した男を見た。
「次も何もない。私は、初めからあなたのものだ」
残照剣が光を弾いて、まるで誇らしげに輝く。
金臣が悲鳴を上げる。
いつでも凛として立つ金臣の悲鳴は、空気を裂くようだった。
どこからかふわりと風が吹く。長閑に、和やかに。
水を追い、永久の花が散った。