散華 二 後
剣護も一緒だと告げると、祖母からの外泊許可はスムーズに下りた。兄のようにずっと真白を見守って来た、頼もしい孫である剣護に対する祖母たちの信頼は相当なものだ。但し剣護が受験生であることも忘れないように、と釘も刺された。親に連絡を入れた剣護も、同様だったようだ。昼食を外でとったあと、アパートでしばらくテレビを観たりして休憩してから、真白たちは夕飯の材料を調達しに、近所のスーパーへと向かった。
買い物カートをガラガラ押しながら、何鍋にするか一頻り三人はてんでに声を上げたが、結局は〝何でもあり鍋〟ということになった。この時点で既に夕飯が、闇鍋に近い物になる気配が濃厚になっていた。
成り行きで材料費の出資者となった怜に申し訳なく、真白は自分も費用を受け持つ旨を申し出たのだが、その申し出を聞いた怜は真白の前髪をくしゃりとかき上げると、優しげな微笑でそれを流した。代わりと言っては何だが、その直後には怜から剣護に対する物言いたげな視線が向かった。
「わーっかってるよ、半分、出す!出します、あとで!!」
怜の視線に音を上げた剣護が敗北宣言した。
「良かった。真白、食べたい具材は他に無い?食後のデザートとか、買う?女の子って、そういうの好きでしょ」
余りに怜が甲斐甲斐しく気を遣ってくれるので、真白は何だか照れてしまう。剣護も普段から気遣ってくれるが、その気遣いはどちらかと言うと母親的なもので、異性に対するそれとはまた趣が違ったのだ。
「次郎兄、甘やかし過ぎだよ」
「そーだぞ、次郎。あんま、こいつを甘やかすな。可愛かったら旅させるんだ」
ぼそぼそと言う真白の言葉に、剣護も大きく首を縦に振る。
「太郎兄が言うことじゃないな。良いじゃないか、甘やかせてよ。俺だって、妹のいる兄貴らしい気分に浸りたいんだよ。兄馬鹿、させてよ」
それを聞いた真白は、ふと胸を突く表情を見せたが、やがて微笑むと頷いた。
「じゃあ、チョコレートとおせんべいが食べたいな」
怜がそれを嬉しそうに聞く。
「甘辛だなあ」
スーパーから出た真白と怜は、にこにこコーポから反対の方向に歩こうとし、剣護はその逆に足を踏み出していた。二人と一人が、怪訝な顔を見合わせあう。
「あれ?お前ら、どこ行くんだよ。今から帰って銭湯だろ?」
「え、だって、その前に、……コンビニに」
行かなくちゃ、と顔を薄く赤らめて口籠る真白を代弁して、怜が剣護に言う。
「だからね。真白は女の子なんだから、…新しい下着とか必要でしょ。俺の貸す訳に行かないんだし。服は、俺のしか貸してあげられないけど。携帯用のシャンプーやリンスなんかも、あったほうが良いだろう。――――ああ、化粧水はどうする?」
それにしても、と真白は次兄の気配りの細かさに感心してしまう。
普通、同年代の男子ではこうはいかない。
(荒太君なら有り得るけど、でも……)
ここまで周到だと、有り難さと同時に、要らない疑惑まで生じてしまう。
〝…次郎兄、彼女がいたことってある?〟
〝――――あるよ〟
この綺麗な顔立ちをした次兄は、ひょっとすると自分が考える以上に大人の男性なのではないか。
そう思うと、真白の顔は我知らず赤くなった。
怜が、急に見知らぬ男性になった気がする。
じりじり、と自分から数歩距離を取った真白を、怜が不思議な目で見る。
「…真白?」
ところがそんな真白の複雑な乙女心の機微を、吹き飛ばす発言をする輩がいた。
剣護がポン、と掌を拳で打つ。
「お、成る程な。しろって下着のサイズ、何?」
「え、エ―――――――」
「答える必要無いからね、真白」
勢いに乗せられ、はずみで答えそうになる真白に、すかさず怜がストップをかける。
「………太郎兄、セクハラにも程があるよ」
呆れ果てる次兄を視野の外に置いて、剣護は一人考察を始めた。
「〝エ〟、か。それじゃ絞り込めねえな。Fはねーだろうから、AカップかSかMか?ふんふん、まあこれからだよな、真白。市枝ちゃんや舞香さんとまではいかなくても、何とかなるって!ちなみに俺はダイナマイト・バディ大好きだけど、小さくても可愛いと思う!」
二カッと良い笑顔を見せた彼に、果たして悪気があったかどうかは判らない。
しかし結果として真白の華奢な拳は剣護の腹部にめり込み、体格の良い長身がよろめいた。目を白黒させているところを見ると、完全に素の発言だったらしく、それはそれで性質が悪かった。
真白の中で、ごく僅かに芽生えていた怜への警戒心が消え失せる。
「―――――次郎兄、今日は次郎兄と二人でお泊りする。剣護は軒先に吊るそう」
「そうだね。夜風が良い案配に涼しいだろう」
「待て、真白!俺が悪かった。許せっ!安心しろ、多少サイズが小さかろうが健気に生きてる淑女が世間にはたくさん…、」
「剣護の莫迦っっ!女の敵!!ブラジャーに埋もれて死んじゃえっ」
「良く解らんが、最後のはさすがに嫌だ!」
泣きついて来る妹の頭をよしよしと撫でながら、怜はまだ呻いている剣護を置き去りに、コンビニへと向かった。
一旦帰宅して準備を整えてから出向いた銭湯から帰り、怜の服を着て体操座りする真白の姿は、ひどく見る者の庇護欲を誘った。
怜はそれ程大柄なほうではないが、それでも彼の服を真白が着ると、小さな子供が背伸びしている印象になる。サイズの大きさのせいで真白の胸元が見えてしまうのを防ぐ目的もあって、怜は浅いボートネックのシャツを貸したのだが、それはそれで、今度は白い肩がはみ出してしまいそうなのが考え物だった。下は、ここまで穿いて来た麻のズボンを続けて穿いている。麻の素材はサラリとして、夏に長時間着用しても、そこまで汗臭さの不快感を感じさせないので重宝だ。
その格好に怜のパーカーを羽織った風呂上りの真白を、二人の兄が両脇に立ってしっかりガードして家に帰り着いたのだ。
三人で鍋をつつき始めるころには、夏の長い日も沈み、外の藍色が窓ガラスを透けて見えた。換気扇が回る音と鍋の具がグツグツ煮える音、そして虫の音が耳に聴こえる。湯気の上がる鍋周辺はさすがに暑かった。六畳間同士の間の戸は換気の為に開け放たれ、冷房がパワフルに設定された。キッチンに置かれた小奇麗な食器棚のガラス戸まで、湯気の為にうっすら曇っている。
遠く、微かに電車の走行音も伝わって来る中で、三膳の箸が鍋の中に思い思いに伸びる。
「お、これうめえ!海老天、入れたの誰だ?」
「私。あー、次郎兄に食べて欲しかったのに…」
真白の残念がる声に、剣護が「小憎らしい!」と言って彼女の洗い立ての髪をわしゃわしゃとかき回す。すると今度は真白が、カタン、と箸を落とし、鍋から遠ざかった。怜がそんな妹を驚きと心配の目で見る。
「どうしたの、真白?何か変な物でも入ってた?」
「か、蛙が泳いでる……っ、お鍋の中、」
「蛙?」
そんな莫迦な、と思い鍋の中に目を遣ると、確かに、それらしき形をした苔のような緑色が浮かんでいる。お玉で掬い上げてみるとそれは、練り物の類のようだった。
こんなものを投入するのは一人しかいない。
果たして緑の目の容疑者は、にやにやと満足げな笑いを浮かべていた。
「一体どこに売ってたんだよ、こんなの…」
「売ってねーよ、作ったの」
まるで大きな悪戯っ子のように、剣護が胸を張って答える。
「―――――作った?」
「こう、この家にあった小麦粉とか水とか、ほうれん草とか色々使って」
道理で帰って来てから何やらゴソゴソと、ダイニングキッチンを徘徊していた訳だ。
剣護は成績優秀だが美術と音楽だけは苦手だ。小学生のころ、真白の似顔絵を描いて泣かれてしまったこともある。しかしこの蛙もどきは、やたらと上手く拵えていた。料理の腕で芸術音痴を補ったというところか。
怜がはああ、と深い溜息を落とし、上目遣いに兄を睨み上げる。
「……無駄なスキル!」
「どういたしまして~」
褒め言葉を貰ったように、ニマ―――ッと剣護は笑った。
「でもさー蛙は昔っから、日本では貴重な栄養源だったんだぞー?」
「まだ言ってる…。だからって皆食べてた訳じゃなかっただろ」
「若雪は食ってたじゃないか」
「真白は現代の女の子だよ?」
「ねえそれより、次は冬に牡蠣鍋しようよ!」
「牡蠣い?豪勢だなあ、しろ」
三人で川の字になって寝転んだ中、剣護と怜の言い合う声に、真白も加わる。
ベッドの中は空だ。
ベッドで眠ることを勧める兄たちに、真白が、三人で並んで寝たいと言い張ったせいだ。
一枚しかない敷布団は真白の為に供され、その両隣に、剣護と怜が並んだ。タオルケットも同様に真白に譲られ、怜と剣護はそれぞれバスタオルで代用した。暑い中ではそれも苦ではなかった。
「…狭いな」
剣護が呻くように言う。長い手足が窮屈そうだ。彼は部屋の端に置かれたテレビと、真白の寝る敷布団との間で身を小さくしていた。怜も、剣護程ではないものの、同じく長い手足を、真白と右手にあるベッドの間の狭いスペースに、何とか落ち着かせている状況だ。少しでもスペースを確保する為、折り畳まれたテーブルは、ダイニングキッチンのほうに置いてある。密集することによる暑苦しさを和らげるべく、空調はまだ緩く働いていた。
「ごめんね。私が、兄様たちと両手に星、したかったの」
謝る真白の言い方が面白くて、怜が笑う。
「まあなー。こんな良い男二人を捕まえてんだからなー。お前は果報者だぞ、真白」
「自分で言ってれば世話ないね、太郎兄。―――――俺は可愛い妹の隣に寝るってことで、実は結構、ドキドキしてるよ。太郎兄は子供時分に慣れてるんだろうけど」
真白が右隣にいる怜に顔を向ける。はずみで左にふわりと舞い上がった髪から、シャンプーの香りが空気中に漂った。いつもの自室には無い甘い香りが、怜の鼻腔をくすぐる。
「本当?」
「うん」
「…可愛い?妹?」
「うん」
真白の顔がくしゃっと子供のような笑顔になる。夜が深まるにつれて、真白には子供帰りしていく傾向が見られた。一人で眠るのが通常の夜を、二人の兄と共に過ごしているという非日常的な環境における喜びが、彼女を常になくはしゃがせていた。
えへへ、と笑うとゴロリン、と芋虫のように右側に一回転して、怜との間を詰めて彼に飛びつく。怜の切れ長の瞳が丸くなる。更に、仔猫のように首筋に焦げ茶色の頭を摺り寄せられ、身体が固まった。真白は子供そのものの、満面の笑顔だ。そこにいるのは女子高生ではなく、幼稚園児だった。
「次郎兄、大好き」
「あ、うん、俺も―――――いや、だからドキドキしてるって言う俺の話を」
言いながら、真白の肩からずり下がりそうなボートネックの襟を引っ張り上げる。
わざとらしい咳払いが二回程、大きく響く。真白が寝ていた敷布団の、左側からだ。
「くっつくのはダメだ、うん、そおゆうのは良くないと、お兄ちゃんは思うな!節度を守るってのは、人として大事だよなあ!」
真白が心底解らない、という声を上げる。
「どうして?兄妹だよ。剣護だって、昨日も一緒にくっついて寝たじゃない」
途端にすぐ傍にあった怜の身体から冷気が立ち上り、真白は驚く。
剣護はすぐさま、やべえ、と思った。
「……そう、そうなんだ。へえ。太郎兄。節度を守れる人だと、信用してたんだけどな。真白、もっとこっちにおいで」
「うん」
「待て待て待て、理屈の筋が通ってねえっ!しろ、こっちに来い!」
「やだ」
きいい、とヒステリックな叫びを剣護が上げる。バフッと八つ当たりを受けたバスタオルが宙に舞い上がる。
「昨日はあんなに可愛らしく俺にくっついてきた癖にっ。お前は一体、俺と次郎のどっちが好きなの!!」
「次郎兄」
「魔性の妹めえええ」
お墨付きを貰った、とばかりに真白を抱き込んだ怜は、あはは、と声を上げて笑った。
剣護が真白と自分を泊めろ、と言い張った思惑が今なら解った。
妹がいる。
兄がいる。
自然に、自分の口から上がる笑い声が信じられない。
幸福で息が苦しい。このまま時間が止まれば良いのに。