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散華 二 中

「…次郎兄。さっきの子、弟さん?」

 そっと尋ねた真白に、怜が頷いた。

「そう。莫迦な言葉聞かせてごめん、真白。あいつは、恒二は、わざと俺に反発したいだけなんだ」

「回り回ったブラコンか。面倒臭えな」

「剣護!」

 これだからガキは、と剣護は真白の横たわるベッドに寄りかかって、白い目をする。

 怜が苦笑した。それ以外の表情が、思い浮かばないという顔だった。

「……うちの親は結構、勉強の成績至上主義なんだ。だから俺と弟にも、過剰な期待をかけた。新設の、近隣でも評判が良くて難関って言われる高校を目指せと言われてね。俺はそういうのも、そこまで苦にするほうじゃなかったけど、弟は違った。どちらかと言うと勉強よりスポーツを好む性格なんだ。それでも、中学に入った時から見てて気の毒なくらい、親の期待に応える為に努力してたよ。………俺のことも尊敬して、慕ってくれてた。俺も結構、あいつが可愛くてさ。けど」

 親の期待をかけた高校に無事受かり、入学した直後、怜は前生を思い出してしまった。

 思い出し、そして囚われた―――――――。慕わしさに。

 その時のことを思い浮かべるように、微笑して前髪をかき上げながら怜は語った。

「真白たちの居場所を理の姫に教わり、俺が陶聖学園に編入して一人で暮らすと言い始めたことは、両親、特に母親にとっては青天(せいてん)霹靂(へきれき)だった。俺が前の高校に受かった時のはしゃぎようを考えれば、無理もない。それはもうね、大揉(おおも)めに揉めたよ。でも最終的には、おじいさんの後押しもあって、俺が()(まま)を通した。俺も譲れなかったんだ。…前にも少し話したよね」

〝親不孝者!〟

「…恒二は、自分が必死に掴もうとしたものを、あっさり手放した俺が許せないんだ。何せ理由さえ解らないだろう?あいつや家族より優先したい存在が出来たなんて、話すのも酷だ。それで今、少しグレてしまってる。今年中学三年で高校受験を控えてるんだけど、最近、このあたりの柄の悪いのと一緒にいるらしくて」

 放っておけなかったのだろう、と真白は思った。

 けれど怜の実家は、ここから随分と遠い筈だ。恒二が怜の住まうアパート近くをこれ見よがしにうろつくのは、やはり兄に構って欲しい思いがあるからではないだろうか。寂しくて、なのに近付いてもらえると今度は逆にどうすれば良いか解らず、つい噛みつくように反抗してしまう。

 怜に頬を打たれたあとのショックを受けた顔。自分を睨みつけた恒二の顔が浮かぶ。

(ごめんね。私たちが、あなたのお兄さんを取ってしまったんだね……)

 きっと彼も、自分と同じで怜のことが大好きなのだ。そして彼は男子であるぶん、自分よりずっとその意思表示がし辛いに違いない。

(…大好きだと、思うままに言えるのは、恵まれたことなんだ)

 薬の副作用と夏バテの身体で炎天下に歩いた疲れで、眠気がだんだんと意識をぼかしていくが、この場所であればそれも少しも不安なことでは無かった。タオルケットにモソモソと潜り込む。

(…これが次郎兄のお家の匂いか。ここで、一人でご飯食べたり、お風呂入ったりしてるのか)

 まだ十五歳なのに、とつい思ってしまう。

 秀麗な横顔は、いつも超然として見えるけれど。

(次郎兄…寂しくない、はず…ない…よ……ね…?)

「――――ね…次郎兄…」

 半分寝言のようなその言葉を最後に、真白はそのまま寝入ってしまった。

 一人暮らしの男性の部屋で女子が寝込むなど、本来であれば危険性を考慮して然るべきところだ。だが、眠る真白の傍に座るのは剣護であり、怜だった。長兄と次兄に守られたそこは、真白にとって、この世で最も安全な寝床だったのだ。

「…寝たか?」

「うん」

 真白の寝顔を見ながら返事をする怜の目は、慈しみに満ちている。加えて、妹を見守ることの出来る喜びがその目には浮かんでいた。

 ベッドにもたれたまま怜の横顔を見ながら、俺もこんなんなのかー、と剣護は思った。

「―――――最近、吸ってねえみたいだな」

 剣護が言う。煙草の匂いが全く部屋からしない。ベッドを覗き込んでいた怜が上半身を戻して答える。

「ああ…。気を付けてるんだ。今日みたいに突然、真白が来るかもしれないだろう。夏休みだし、そろそろかなって思ってたんだよ」

「………勘の良い奴だこと」

 そう言ってぐるりと室内を見渡す。

 六畳のダイニングキッチンと、同じく六畳の居間兼寝室。

 ささやかな室内にテレビやテーブル、ベッドなどが場所を取る。

 多少、手狭(てぜま)だがまあ良いか、と思う。

「よし、次郎。今晩、俺らをここに泊めろ!」

「はあ?」

 中々聴けない怜の()頓狂(とんきょう)な声を聴いた剣護は、してやったりと笑った。

 叶わなかった時間を少しでも、今ここで取り戻すのだ。


「昼は外で済ますとしても、夕飯は!風呂はどうするの!真白は女の子なんだよ?」

 年の割りには家事に器用な怜も、いきなり三人分の食事を準備する容量は無い。

 急な思いつきにも程がある、と剣護を諌めにかかる。

 このざっくばらんな長兄は、女子が特に念入りに「お泊り」の準備を必要とするということを、理解していないのだと世慣れた頭で思う。

「近くに銭湯あるだろ。前、一緒に行ったじゃねえか。…真白はさ、俺に対するのに劣らずお前のことが大好きだ。知ってるだろ?俺たちは大概にシスコンだが、あいつだって筋金入りのブラコンだ。お前の弟にだって負けねえ。ずっと離れてたお前を恋しがって、泣いたりすんだぜ?たまにはベッタリ甘えさせてやれって」

 そう言って、逆に静かな口調で剣護に語られた怜は、心を揺さぶられた表情で視線を落とした。自制心が強いとは言え、彼とて真白と過ごしたくない筈がないのだ。

 剣護には解っていた。

「夕飯は鍋とかで良いだろ」

「…この暑いのに?それに、真白は夏バテじゃないのか」

「うーん。俺は鍋を囲みたい気分なんだが。んじゃそこは、しろ次第ってことで」

 怜はついに嘆息した。妹の「お泊り」準備のフォローは、自分がするしかないなと思いながら。

「………今日は飲めないな」

 はは、と剣護が明るく笑う。

「たまには我慢しろ。その年でアル中になるぞ?〝アル中の次郎兄〟なんて見てみろ。真白が一発で嘆くぞ。嫌だろ?ん?」

 兄たちの笑い声で、真白は目を覚ました。ぼうっと(まぶた)を開ける。

 剣護がいる。怜がいる。

(兄様たちがいる…。そこに、笑って)

 ―――――…血が流れていない。血の匂いがしない。

 生きている。夢ではない。

 何度も何度も、数え切れない回数、生き残った若雪が見たような夢とは違う。

現実だ。

 ふと真白に目を遣った怜が、珍しくギョッとした表情になる。

「―――――真白。どうして泣いてるの」

「あー、次郎が泣かせた」

「違うだろう。真白?どうしたの?」

 戸惑う怜が優しい声で訊いて来る。

 今この瞬間、小さな子供に戻りたい、と真白は強く願った。

 屈託なく彼らに抱きついて、縋って泣きたい。思い切り、甘えたい。

 若雪のぶんも。

 嵐の前では、生涯、ついに一度も口にはしなかった。

 兄たちがいなくて寂しい、悲しいとは。

 だが嵐は知っていた。彼の素振りで、そうと知れた。

 夫婦となって気心を許しても、互いに知っていて知らない振りをしたことは、実は意外に多かった。それでも、それらをひっくるめて幸せだった。

(だって嵐どのは知らない振りをして、寂しい時の若雪には、すごく優しかった)

〝俺がここにおるやろ〟

 短気できつい気性でもあった嵐が、驚く程の優しさで若雪を包んだ。

 ただ時折、心を冷たい風が駆けた。それはもう、どうしようもないことだった。

 その冷たさを満たすものが、今はここにある。信じられないような奇跡だ。

(―――――駄目だ。涙が)

 (こら)え切れずに溢れる。指の間から落ちて行く、透明な雫が真白の目に映る。

 せめても、怜の肩に頭を載せる。見られないように。

 秀麗な顔立ちであろうと、少女では有り得ない固い筋肉のついた肩だった。

 温かい肩だった。

「次郎兄。次郎兄。…兄様」

 涙が怜の肩を濡らす。

「うん、真白。何?何か悲しい?」

 いつも冷静な兄が、今は自分の為に必死になっている。狼狽(ろうばい)しそうになる自分を律しようとする気配が、皮膚を通して伝わる。

「一緒にいられなくて、ごめんなさい、独りぼっちにして、ごめんなさい」

 泣きながら(しぼ)り出された真白の言葉に、怜も剣護も不意を突かれたように真顔になった。

 室内の空気が、真白の泣き声を除き、急に静寂に満ちたものとなる。

 それだったか、と怜は思う。

 時折、焦げ茶の瞳に浮かんでいた罪悪感の由来。申し訳なさそうに伏せられる(まつげ)

「――――――ねえ、真白。どうにもならないことっていうのは、世の中にあるんだ。今言ったそれもそうでね、真白が謝ることじゃないんだよ…」

「一緒にいたかったの。次郎兄も、一緒に。…お月様」

〝太郎兄はお日様で、次郎兄はお月様みたい〟

「うん、解ってる。…………解ってるよ」

 いつもであれば遠慮しそうな怜が、この時は子供にするように真白の肩をギュッと抱え込んだ。

 大らかな太郎清隆に比べ、次郎清晴には鋭いような厳しさがあった。

 けれど繊細さに比例する、甘さも同時に持ち合わせていた。時に次郎は度が過ぎる程の甘さを若雪や三郎に対して示し、太郎に呆れられることもあった。

 その名残りのようにしばらくの間、怜が思う存分真白をあやして抱き締めたあと、頃合いを見計らって剣護が告げた。

「しろ、今日はな、三人でお泊りだぞ」

「お泊り?」

 焦げ茶の瞳が子供のように輝く。

 怜はその顔を見て微笑みながら、三人分の空のコップを流しに持って行った。

 泣いたあとの目元を、相変わらずこすろうとする真白の手を掴みながら剣護が頷く。

「そ。鍋パだ、鍋パ」

「お鍋?剣護と、次郎兄と?」

 言う端から、真白が嬉しそうに笑み崩れる。

 戻って来た怜がその顔を見て、ああ決まりかな、と思う。

「そうだ。嬉しいか?」

「――――うん」

 花が開くような愛らしい笑顔に、兄たちの頬が和み、夕飯の献立が決定した。


ゴ―――――――ッと電車の音が聴こえる橋脚(きょうきゃく)のたもと、暗い影に恒二は数人の男と紫煙を吹かせていた。人に見られては好ましくない行為をしていると、雰囲気が物語っている。

 コツ、コツ、と場違いに品良く響くヒールの音に、男たちの視線が集中する。

 品の良いベージュのスカートに、サーモンピンクのシャツを着た艶麗(えんれい)な顔立ちの女性は、男たちの下卑(げび)た無遠慮な視線に(おく)すことなく、恒二の前まで来ると歩みを止めた。

 背中を覆うくらいの、長いワンレングスの髪が揺れる。

 にっこりと微笑んだ彼女は、見惚(みと)れる恒二に向けて口を開いた。

「こんなところで遊んで、いけない子ね。お兄さんが心配してるわ?早く、お帰りなさい。―――――――もう、脱法ハーブなんかを玩具(おもちゃ)にしちゃダメ」

「誰が何だって?おい、知ったようなこと言ってんなよてめ…」

 そうドスを利かせた声で柄シャツを着た男が、彼女の肩を掴もうとした手はあっさりと細腕に絡め取られ、上半身を押さえ込まれた。男の横幅は、女性の優に二倍はある。それが軽やかに触れられているだけにも見える女の手により、万力(まんりき)で固定されたかのように動けない。

「いでええぇ」

 そのまま辛うじて目に見えるという素早さで、彼女が手刀(しゅとう)を男の首筋に叩き込むと、巨体がどう、と倒れた。男は白目を剥いている。女性の無感動な眼差しがそれを見届ける。

 呆気に取られた恒二が周囲を見回すと、数人いた他の男たちが一斉(いっせい)に崩れ落ちた。

 ドサドサドサッと雪崩(なだれ)を打つように、彼らの身体が地を打つ音が響く。

「わーお。斑鳩(いかるが)さん、鮮やかなお手並みだなー!変わってないねえ」

 突然背後から現れた少年が歓声を上げたので、恒二はひどく驚いた。

 美女が苦笑を浮かべる。

「あなたもね、遥。針の腕前は、相変わらず。…後遺症は、残らないでしょうね?」

「もちろんだよー。僕、善良な忍びだからさ。それにしたって僕らも人の好い忍び集団だよねえ。お達しが無くても、こうして真白様の兄上様の身内が、非行に走るのを防ごうと自主的に動くんだから。こういうのって警察は表彰してくんないのかな。全く、忍びが非人道的な生き物だなんて眉唾(まゆつば)だよ。そう思わない?まあ斑鳩さんは、婦警さんっていう立場上もあるのかもしれないけど!」

 ペラペラと、良く口の回る少年だった。

「そうね」

美女は慣れた様子で微笑みながら相槌(あいづち)を打つ。

 そこで二人は呆気に取られている恒二を振り向いた。

「な…んなんだ、あんたら?何なんだっ?」

 精一杯、虚勢を張った恒二だったが、居並ぶ二人の(かも)し出す迫力と、感じ取れる年季を我が身に比較すると、差があり過ぎた。それは自分と同年代に見える少年と比しても同じだ。呑気そうに構えているのに、こんな底知れない目をした少年など見たことがない。

(兄貴)

 そう言えば怜の目も、時折こんな風だったと恒二は思い出していた。

 怜は恒二の知る誰よりもずば抜けて優秀だった。勉強も、スポーツも、腕力さえ。

 常に人の先頭に立ち、颯爽(さっそう)と風を切って歩く端整な姿。自慢だった。

〝お前の兄ちゃんって、ちょっとおっかねえよな。…人間離れしてるよ〟

 同級生のそんな言葉さえ嬉しくて、誇らしい思いで聞いた。

 憧れ、父親よりも尊敬し、母親が彼に過剰にかける期待も当然だと思った。

 突然、通っていた進学校から遠く離れた他校へ編入すると聞かされた時は、裏切られた気分だった。それまでの態度を、手の平を返すようにして。いきなり突き放し、置いて行くのかと恨んだ。

〝口が過ぎるよ、恒二〟

 ――――――兄が自分に手を上げるなど、初めてだった。

 転入する怜を勝手だと、どんなに(ののし)った時も、彼は黙ってそれを聞いていただけだったのに。焦げ茶色の、澄んだ目の少女を少しからかっただけで。

(あの女。あの女かよ―――――――兄貴)

 違う、と恒二は思う。違う。そんな感情は認めない。自分はショックなど受けていない。

 悲しんでなどいない。

 自分は怜を卑下(ひげ)している。逃げ出した弱虫、臆病者と(わら)っている筈だ。

「違う…。畜生。兄貴。……あいつは、ただの腰抜けだ。……戻って来て欲しいなんて、誰が思うかよ。思ってねえ。思ってねえ。俺は、絶対、許さねえ!…畜生…畜生…畜生…」

(うな)るように言葉を吐き出す恒二を眺めていた美女が、カーマインレッドの唇を動かす。

「―――――――ねえ、あなた。遊びはいつか終わるもの。踏み外しも度を過ぎれば、笑い事ではなくあなたを滅ぼすことになる。周りの人を、悲しませてはいけないわ。…ね?」

 彼女の口振りは優しげでいて、どこまでもクールだった。

 そしてそれだけ告げると、美女は中学生らしき少年を伴い、恒二を置いてあっさり去って行った。



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