散華 二 前
二
「え、次郎の家に?」
風見鶏の館を出て、道をゆっくりと歩きながら真白がした提案に、剣護が瞬きした。
「何で」
「心配。かけたでしょう?剣護。もう、謝ってはあるんだろうけど、お世話になったお礼の代わりに、ここまで立ち直った剣護の顔、次郎兄にも見せてあげないと」
言葉を丁寧に区切りながら真白にしたり顔で言われると、返す言葉に詰まる。
「それにね……私もね、次郎兄に会いたいの。お部屋行くの、初めてだし」
いつもそつなく、眉目秀麗な兄がどんなところで生活しているのか、実は少し楽しみでもあるのだ。
横を歩いていた荒太が、真白をちらりと見る。
荒太には、相川鏡子のことを真白が語って聞かせた。話を聴く荒太の表情は複雑そうで、物言いたげな視線を一度だけ傍に立つ剣護に向けた。剣護は、何を言われる覚悟も出来ている表情で荒太を見返した。だが荒太は彼に対して何かを言うことはせず、窓の外の空を眺めて、「誰が悪い訳でもないな」と言った。それから今後の〝透主〟に対する在り様について、考えを巡らせる風だった。
「荒太君も、一緒に行かない?」
真白は、次兄と荒太の仲が良好なものになることを日頃より願っていた。
荒太が答えようとして口を開いた時、先に剣護が言った。
「待て、真白。荒太――――すまんが今回は遠慮してくれ」
真白が非難の声を上げる。
「どうして、剣護…」
それでは荒太が傷つく。
振り仰いだ兄の目は、弟妹の存在だけを今は望んでいた。そして、そんな自分の身勝手さを十分に恥じる色があった。
衝撃を受けた当初より立ち直りを見せているとは言え、今も尚、剣護の傷口からは血が流れているのだ。
それを悟り、真白が俯く。
「せっかくやけど、今日はやめとくわ」
雰囲気を読んだ荒太がそう言ってくれるのが、真白は申し訳なかった。
「――――荒太君」
アスファルトを歩む足を止めて、呼びかける。道の端、民家のコンクリートの外壁の隙間から生え出た、たくましい露草の青に目を遣りながら言葉を続けた。真白は荒太の目を正視出来る時と、出来ない時がある。今は後者だった。
「夏休み、まだあるから」
「うん?」
顔は見えないものの、荒太が首を傾げる気配を感じて、彼は自分の見た目の良さをどのくらい自覚して計算しているのだろう、と真白は一抹の疑いと共に考える。しかし今現在に限って、真白の疑惑は惚れた欲目を伴った穿ち過ぎというもので、この時の荒太には何の計算も無かった。
「デ、ート、またしようね。………して、くれる?」
勇気を奮って不器用に誘った真白に、荒太の顔が輝く。言葉を口にしながらそっと彼の顔を窺い見た真白は、その表情に小さく安堵の息を吐く。好意を持たれているとは思うものの、まだ強気に誘える程の自信は持てていないのが実情なのだ。
「ほんま?」
「…ほんま」
荒太がにっこりと微笑んだ。荒太は偽物の笑いも持ち合わせる性分だ。それだけに、彼が本当の笑顔を見せてくれた時、真白の胸は喜びに溢れる。
「おおきに」
それまで黙っていた剣護が口を出す。
「…おい、デートの前に決戦だからな?魍魎たちとの決戦だからな?恋愛に現を抜かすような真似、お兄ちゃんはどうかと思うぞ。大体お前たち、せいぜい手を繋ぐとか交換日記が限度だって解ってるだろうな。ハグすりゃそれがもう最上級だ、打ち止めだ。それ以上の不純異性交遊は、この俺が厳しく取り締まるぞ!」
けれど説教がましく並べられる、剣護の古めかしい価値観による語りが半分も終わらない内に、荒太はさっさと真白に手を振り電車の駅の方面へと歩いて行った。
偽物でないにこやかな笑顔を残して。
風見鶏の館から、怜のアパートまでは大して距離が無い。真白と剣護の二人は連れ立ってにこにこコーポまで歩いていた。
昼前、夏の日差しが強くなる時間帯だ。
「大丈夫か、真白」
剣護は自分の身体の影に真白が入るよう、立つ方向を前後右左に調節しながら歩いた。
狭い家の中では邪険にされることも多い大きな図体も、こんな時には役に立つ。
「うん――――」
それでも答える真白の顔色が余り良くないことに、剣護は気付いていた。
それは、公民館が見えてくるあたりでの路上でのことだった。
二人の少年が言い争う声が聴こえて来た。
「――――待て、恒二!」
「うぜえって、放せよ。…家族捨てたあんたに、今更関係ねえだろ!?」
その叫び声は、真白の耳を痛々しく打った。攻撃的に言い放つ人間が、傷ついていることが伝わって来たからだ。
相手を呼び止めようとしているのは怜だった。
殊更に大きくはすまいと努める声が、住宅街の中ではそれでも大きく響いてしまっている。加えて言い返すほうの声量は、怜のような気遣いを全く感じさせないものだった。
近くの家の玄関の扉から、少しだけ隙間を開けてこちらを覗き見ている主婦らしき姿があるのも、無理はなかった。
言い争いの相手は、怜程には上背の無い、まだまだ幼さの残る顔つきの男子だった。怜の秀麗な顔を、少し荒っぽくしたような面立ちをしている。一見して、血の繋がりが感じられた。突っ張って不良を気取ったような服装が、怜に似た面立ちを置いてけぼりにして余り似合っていない。
怜がこちらに気付いた。冷静な顔が一瞬、恥じる表情を見せる。
「太郎兄、真白―――――」
「はあ?何だ、そのタロウアニとかマシロって。格ゲーのキャラ?」
怜に似た少年がジロジロと不躾な視線を剣護と真白に送る。
但し、無礼者に返した剣護の一睨みには、すぐに首を竦めていた。
次に彼は与しやすそうな真白に目をつけた。
柔らかで優しげな白い面の少女に、剣護とは異なる意味で怯む気配を見せながらも、意地になったように罵倒する言葉をひねり出す。
「あんた、兄貴の彼女?ふーん。…貧相な女。そんなんであいつのお相手が務まんの?」
ここまで無遠慮に物を言われた経験が無い真白は、頬を染め、ただ口を開けたり閉めたりした。品の無い悪口に免疫が無いのだ。
後ろに立つ剣護は緑の目を剣呑に光らせて、さてこの小僧をどうしてやろうかと考える。
しかし剣護が制裁を下す前に、パシッという鋭い音が響いた。
怜が少年の頬を平手で打ったのだ。それ程力が籠った音には聴こえなかったが、頬を打たれた少年は、ひどくショックを受けた顔で怜を見上げていた。
甘いんじゃないか、と剣護などは考えている。
「口が過ぎるよ、恒二」
静かな怜の声に、彼は震わせていた唇をくっと噛み締めると、真白を激しく睨んでから足早に立ち去った。真白がその後ろ姿と怜の顔を交互に見たが、怜はもうその少年を引き留めようとはしなかった。
初めて足を踏み入れた怜の部屋は、真白が予想したよりもずっと片付いていた。
荒太が以前、整理整頓したという話は聞いたが、それでも、一人の暮らしにおいても、怜が身の回りのことを疎かにしない性分だということが判る。
麦茶を出してもらいながら、剣護も真白も、怜のプライベートに著しく踏み込んだ気がしてならなかった。まさかいきなり、あんな場面に出くわすとは考えていなかったのだ。毎回そうと言う訳ではないのだが、身内の気安さで今日は前もって連絡せずに来たことを、今では後悔していた。二人共、気まずい思いで先程からチラチラと怜の顔色を窺っていた。
怜本人は、今は気にした様子もなく、冷蔵庫を開け閉めしている。
「そうか…。相川さんは、どうして風見鶏の館を出たんだろうな」
鏡子が消えた一件を聴くと、怜はそう感想を洩らした。
「うん。だって、あの場所だよ?敵地だとも、思わないでしょう。舞香さんは、彼女が息も絶え絶えな状態だったって言ってた。―――――どうして、そんな無茶をしたんだろう」
真白の顔には純粋な疑問と、鏡子の身を案じる思いがあった。
じっと黙っていた剣護が口を開く。
「ひょっとしたら、相川自身、ギレンたちから離れると生命の危機に晒されるような仕組みが、あるのかもしれない。相川が奴らに力を分け与えるのと同様に」
思慮深い目で怜が疑問を呈する。
「……彼女は、太郎兄に殺してもらいたがってるんだよね?つまり、死にたいんでしょう。ギレンたちから離れることでそれが成し得るのなら、どうしてそうしないんだろう」
「何か理由があるのか…」
言いかけて、真白が長兄の顔を見る。
彫りが深めに整った目鼻立ち。やや癖のある焦げ茶の髪と、強い意思を宿す緑の瞳。本人は無頓着だが、長い手足と長身に恵まれた剣護は、全身から厚みのある陽のオーラを発散させて、周囲の人間を魅了する。
剣護はきょとんと真白を見返す。
「ん?」
「…よっぽど、…剣護の手にかかって死ぬことに拘りがあるのか」
口にすると、胸に寂しい風が吹くような思いと、悲しみが生まれる。
透主となってからも鏡子はずっと太郎清隆、剣護を呼び続けていた。
きっと彼女はこれ以上無いくらい、剣護のことが好きなのだ。
真白には良く解る。
今の真白は荒太と共に、出来得る限り長く生きることを願っている。
けれどもし鏡子と同じ状況、同じ立場であれば、真白なら荒太の刃を望む。その点で女子として、鏡子に痛い程共感出来るものがあった。
真白の唇に仄かな微笑が浮かぶ。
(…それでもきっと、荒太君は願いをきいてはくれないんだろうな)
死なせてと言えば問答無用で、真白の身を強く抱き締めてしまうだろう。
そういう人だ。
真白は剣護の側近くにいる存在としては意外に、あまり妬みなどによる苛めを受けたことは無かった。それは真白自身、他より優れた資質の持ち主であった為でもあり、剣護の従兄妹という立場があった為でもある。
けれど、全く何も無かった訳では無い。真白は凛としても見られるが、大人しくも見られやすい。その日行われた授業のノートが数ページ、切り裂かれるという陰湿な嫌がらせを受けたこともあれば、聞えよがしの嫌味を言われたことも何度かくらいはある。剣護は自分自身の評価を妙な謙遜で曇らせるようなことはしないが、それでも彼自身が思う以上に、多くの女子が彼に恋愛感情を抱き、また、憧れの対象として見ている。
相川鏡子もその一人だったが、今や彼女には普通に恋をすることは許されなくなってしまった。麦茶の入ったコップを持つ手が、滴に濡れるのを感じながら考える。
(相川さんだったら、私に意地悪しただろうか……)
きっとしなかっただろうという気がする。剣護があそこまで鏡子の面倒を見たことが、鏡子の人間性を保証している。そうであれば猶更に、彼女が痛ましいと真白には思えた。
フローリングの床の上に直に座る足は、ヒンヤリとしている。
暑い中を歩いて汗をかいた身体に、その冷たさは心地好かった。
三人はしばらく、麦茶を飲んだりしながらそれぞれの思考を落ち着けていた。
「真白、大丈夫?」
先程から暑気あたりの気配を見せる真白に、怜が声をかけた。
気の回る怜は、真白を居間兼寝室に迎え入れてすぐ、ベランダ側の引き戸やダイニングキッチンとの境を仕切る戸を閉め、冷房をつけていた。
剣護も心配の表情を浮かべている。
「アイスでも食べる?」
「うん……」
「ハーゲンダッツがあるけど、バニラとラムレーズンとどっちが良い?」
「ラムレーズン」
「ちょっと待てっっ」
剣護がすわ、と立ち上がって大声で待ったをかけた。
「――――――昨日は無かったハーゲンダッツが、何で今日は湧いて出る?」
「たまには高級志向も良いかな、と思って、買って来たんだよ。タイムリーだったね」
納得いかねえ、納得いかねえ、とお経のようにブツブツ言う剣護の横で、真白にアイスのカップとスプーンが手渡される。真白が小さな子を相手にするように、銀のスプーンを持って剣護に声をかけた。
「剣護。私と半分こ、しようよ」
「真白おおおお。お兄ちゃんは、お前のような可愛い妹がいて本当に良かったと思う」
「……ちゃんと全員分の数あるよ」
怜の呆れた声を聴き、剣護はこのあと、真白のいないところで自分だけアイス料金を請求されないだろうか、と内心ドキドキした。夏祭りの時のヘアピン代は、結局どさくさに紛れて荒太に押し付けたのだ。彼は首をひねりながらも、不満は無い様子で支払っていた。
ちら、と真白の様子を見る。
アイスを食べ終わった妹は、何かを堪えるような顔をしていた。
途端に剣護は兄、もしくは母の顔になる。
「――――しろ。きついならちゃんと言いなさい」
真白は体調不良の時、唇を噛み締めて懸命に我慢しようとすることがある。
剣護の言葉に怜が真白を見て慌てた。
「真白、横になる?ええ、と、俺のベッドで大丈夫?汚れたりはしてないけど、」
熱さましを飲んで、ひとまず真白は怜のベッドで横になった。
天井のクリーム色が目に迫る。これが、いつも怜が眠る時、目覚めた時、見ているものなのだ。