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散華 一 後

今回の話は、残酷な描写を含みます。ご注意ください。

 目の前に座る少女を、アオハは不思議なものを見る目で見ていた。

 アオハにとって、この世は不思議なものばかりだ。

 蝸牛(かたつむり)の殻。(かえる)の濡れた背中。雨上がりの虹。流れる血液。

 目に映る世界はどこもかしこも鮮やかに美しく、まるで全てアオハの為に用意された、玩具箱(おもちゃばこ)のようだった。それを用意してくれた誰かに向けて、思わず感謝の微笑みを向けたくなる。

 それらの様子をじっと眺めるのは面白い。

 中でも人格を持った生命体はひどく興味深い。

 この上なく尊いものと思えるのに、失われる時はあっと言う間だ。

 本来であれば自分はそのように、一瞬にして多くを奪い、失わせる筈だったのだ。

 今、自分がどうしてここにいるのか、アオハにはやはり解らない。

 けれど、ここにアオハを遣わした存在から、アオハはきっと確かに愛されている。アオハはそう思う。

 どこか空の遠く、高い、高いところにいる存在から――――――――――。

「ねえキョウコ。どうして逃げたの?どうして戻って来たの?」

 澄んだ薄茶色の瞳の問いかけに、ソファに腰かけた少女は口を閉ざして応じない。強い意思のもとにそうしているのではなく、失意の余りの深さ、大きさが、彼女から能動的に何かを成そうとする意思を奪ってしまったのだ。

 何度絶望すれば、自分は死ねるのだろう。ぼんやりと鏡子は思っていた。

 自分に死を与えてくれると(たの)んだ剣護は、それを叶えてはくれなかった。

(どうして逃げたの?あなたしかいないのに)

 それでも自分の為に、悲痛に顔を歪めた剣護を見た鏡子の胸には、痛ましさと(くら)い喜びが芽生えた。彼は、他でもない自分の為に傷ついてくれたのだ。

〝思い出した…〟

 あの強くて美しい緑の瞳が、哀しく沈む。

〝お前…、それしか言えねえの…?〟

 常に朗らかな毅然(きぜん)とした声が、震える。

 それらの全てが、自分の為に。

 辛い――――――嬉しい。ごめんなさい。

身体を虚ろに投げ出した人形にも似た鏡子を見て、それでもこの子は綺麗、とアオハは思う。愛おしさと共に。

 アオハは不意に向かいのソファから身を乗り出すと、鏡子の細い身体を抱き締めた。

 母のように。

「太郎清隆に、殺して欲しいのね。可哀そうに」

 鏡子の黒髪を撫でつけながら、アオハもまた悲しそうな顔をする。

「でもね、キョウコ。あなたが死ねば、私たちもまた生きてはいられなくなる。…私は死にたくないし、ギレンやホムラや、他の兄弟たちにも死んで欲しくないの」

「―――――そこまでにしておけ」

 アオハの優しい抱擁は、冷たい声によって止められた。

 最もベランダ側に近い一人掛け用の椅子に座るギレンは、それでも耐えたほうだった。

 ツカツカと音高く鏡子に歩み寄ると、手を振り上げようとした。

 だが、鏡子との間に身を置いたアオハによって阻まれる。

「乱暴しないで、ギレン。ね?」

 ギレンは忌々しげな表情を浮かべると、再び椅子に戻った。

「門倉剣護も、莫迦な男だ。敵の首魁に哀れみをかけ、殺すことも出来ないとは。挙句、たかだか鎖を断ち切ったことで自己満足に浸っている。―――――何も知らずに。鎖が断ち切られたままでは、我々も力の供給を受けられないが、透主自身もまた生命力を得ることが出来ないというのに。我らの間にある需要と供給のメカニズムを解することなく、薄っぺらい慈悲めいた行為に走る。ああいう中途半端な輩が、最も性質が悪い。反吐(へど)が出る。賢明な仮面を被った真の愚者(ぐしゃ)だ。あなたも悪い男に引っかかったものですね、透主様」

 鏡子の表情はギレンが長々と剣護を罵倒(ばとう)する内容を語る間も、少しも変わることはない。

 だがギレンが口を閉じると、その色の悪い唇を微かに動かした。

「………くんを」

「何ですか?」

「門倉君を、悪く言わないで」

 細い声には、辛うじて残された意思の響きがあった。

(けが)さないで――――――私の太陽)

 ギレンの片眉が持ち上がる。

 今度こそ、彼の手が鏡子を打擲(ちょうちゃく)した。椅子から立ち上がって一瞬の素早い動きに、アオハが止めに入る間も無かった。

 上質なカーペットの敷かれた床に、鏡子の身体が転がる。

「―――――愚かな女だ。確かにあの道化(どうけ)には相応しいだろうよ」

 眉間に(しわ)を寄せ、ギレンは吐き捨てた。

 鏡子は半身を起こしただけでじっとしている。しかし彼女の右手がカーペットに強く爪を立てていることに、アオハは気付いていた。

「…鎖の長さの範囲は、また調節させていただきますよ、透主様。もうお部屋にお戻りになられて結構です」

 言外に、自分の目に触れるところから消えろとギレンは命じた。


 高いような低いような、くぐもった耳障りな笑い声に、ギレンが神経質に反応する。

 腐臭を放つビジネス・スーツの男がそこにいた。だらしなく、カーペットに直に座り込んだ彼の目はどろりと濁り、唇は引きつって歪んでいる。

こいつもそろそろ人外になりつつあるな、と思いながらギレンは尋ねてみる。

「何か可笑しいかね、山田正邦?」

「可笑しいとも。人でない化け物共が、揃って並みに感情がある猿芝居を打ちよる。滑稽(こっけい)なことこの上ないわ」

 ふむ、とギレンはケロイド状になった彼の顔半分を眺める。ホムラを呼んで全身を業火(ごうか)で焼き尽くしてやろうか、という物騒な考えがギレンの頭に浮かんでいた。しかし途中で気が変わる。そんなことをしても不味(まず)そうな肉が転がるだけだ。魍魎と言えど食べる対象は選ぶのだ。

 アオハが不快そうな顔で正邦を見ている。彼女は最初から、彼のことを嫌っていた。

 生理的に受け付けないようだ。

 アオハは心身どちらと言わず、美しいものを好む。醜悪に歪みきった存在である正邦を受け容れられないのは道理だろう。

「ねえ、ギレン。殺しちゃダメ?」

 ねだるように尋ねるアオハに、ギレンは優しく微笑む。

「我慢おし。まだ、彼にも利用価値があるかもしれないからね」

 二人の会話も耳に入らない表情で、正邦は口の端から(よだれ)を垂らしながら笑い続けていた。


 その日も、律儀な太陽が夏を装い地を照らしつけていた。

 剣護と真白が風見鶏の館に着いた時、既に鏡子の姿は館内のどこにも無かった。

 彼女が寝ていた部屋に、荒太が唇を噛んで正座し、舞香と要は困惑する風で立っている。

 真白は剣護が荒太に殴りかかったりしないよう、彼の手を強く握っていた。

 だがその手を見る荒太の目は、何か違うことを考えるようだった。

「…真白、手を放しな。何もしないから」

 存外落ち着いた剣護の声に、細く安堵の息を洩らしながら真白が手を解く。

「どういう状況だったのか、詳しく聴いても」

「真白さんから離れろ!」

 剣護が言いかけた言葉に、立ち上がった荒太の叫びが重なった。

 荒太以外の全員が虚を突かれた顔をする。

「荒、太君…?」

 真白の呼びかけに、荒太が我に返った顔になる。

「あ……」

 ばつの悪さが面に浮かび上がった。

「何言ってんだ、お前?…あ、そーか、そーか、焼き餅かあ。俺としろがあーんまり仲良しなんで、焼き餅焼いてんだなこいつぅー。あー無理もない、無理もない。俺らの麗しーい兄妹愛は、さながら宝石のごとくこの朝日に燦然(さんぜん)と輝いているからなあ。うん」

 機転を利かしたのかどうか判らない、剣護のひどく茶化した言葉に、荒太は冷静さを取り戻したようだ。

 自己嫌悪に浸る面持ちは、普段の彼の顔だった。

「……いつも通りの先輩でおおきに」

「今、いつも通りの阿呆で、って言わなかったか?」

「思うただけです。言うてません」

「はは。可愛くねーなあ。荒太」

 丁々発止(ちょうちょうはっし)の遣り取りが、今日も蝉が威勢良く鳴く中、繰り広げられる。

 広くない室内で、他三名の傍観者たちは少しの間それを放っておいたが、やがて真白が動いた。荒太は何かに怯えている。真白はそう感じた。不安がって、自分に縋るような思いを向けている。

 宥めて、慰め、安心して欲しかった。彼の抱く恐れなど、何程のものではないのだと。

(荒太君)

 その思いのまま自分の隣から離れて行く真白を、剣護は無表情に見送る。

 白い少女が離れる、風を感じながら。

 荒太の傍らに歩み寄ると、真白はその手を握った。

 ビクリ、と荒太の身体が揺れる。剣護に対して尚も何か言おうとしていた口が、言葉を発さない内に固まった。

(――――何が怖いの)

「…何も怖くないよ」

 恐れるのは自分のほうだ。

 荒太の一挙手一投足に見入り、有頂天になったかと思えば、どこまでも落ち込んでいる。

 心が操られているようで悔しいのに、所詮は幸せでしかない。

(あなたはもう、私を持って行ってしまってるんだよ?)

 風のようにかっさらった自覚が無いのだろうか。

(…返してって言っても、返してくれない癖に)

 一人で怖がるなんて、自分勝手だ。

 ()ねるような気持ちで、そう思ってしまう。

 真白は手を握ったまま、荒太の瞳を覗き込んだ。何より雄弁な想いを秘めた表情で。

 荒太が、緩やかに静まった。焦り、苛立つような空気が、綺麗に消え去る。

 俺の妹は猛獣使いか、と思いながら剣護は複雑な心境でその光景を眺めた。

「いるよ、ここに」

 何の力みも無く、ただ当然のことのように真白が口にした言葉は少なかった。だが荒太は彼女の声に、子供のようにコクンと素直に頷いた。

 その和らいだ表情を、黄緑と緑の二対の目が黙って見届けていた。

 


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