散華 一 中
真白の部屋は未だ優しい薄闇が保たれていた。
剣護のスマートフォンの着信が鳴り、彼が低い声で受け答えするのを脇で聴いていた真白は、誰が発見されたという報せであるか、すぐに察しがついた。通話を終えた兄に尋ねる。
「剣護。…え、荒太君から?相川さんが見つかったの?」
勘の良い妹だと剣護は半ば呆れる。
ベッドの中の真白を振り向き、説明の為に口を開く。
「ああ。………道端に倒れてたのを、要さんが保護したそうだ。…臥龍の断ち切った鎖は、単にあいつを縛る為だけのものじゃなかったのかもしれない。あれを切った途端、相川の創った空間は弾けた。相川自身もまた、弾き飛ばされたみたいだ。今は、風見鶏の館で眠ってる。――――要さんは救急車みたいな人だな」
剣護が苦く笑う。
「相川の奴…、俺には知らせるなと言ったらしい。思い出したってのに望みを叶えてやれもしねーで、愛想尽かされたのかもな。んで荒太が、要さんに呼ばれたんだと。あの二人がいることだし…、あそこならとりあえずは任せられる。あいつも久しぶりに、温かい寝床で眠れるだろう」
それは精神的な意味でだ。
真白が身を起こす。
「明日、行くの?風見鶏の館に」
「うん」
「私も一緒に行って良い?」
勢い込んで尋ねた真白に、剣護は目を細めて答えた。
「ダメだっつっても聞かないだろ、お前。良いよ。――――真白、こっちにおいで」
優しい声で誘われる。
その言葉を待っていたかのように、真白は躊躇いなくベッドから抜け出し、手招きする剣護の広い腕に収まった。
包まれることで、少し前まで自分の中にあった烈しい感情を鎮めたかった。
あんな凍えそうな烈しさは要らない。あれは怖い。安らぎが恋しい。
暑いというよりは、温かいと感じる腕の中。
(虫の音は、あのころと変わらない)
「…昔みたい」
剣護の緩やかな鼓動が聴こえて、安心する。目を閉じると溶けていく。
二匹の小さな獣のように、互いにくるまって眠った日々。
「ああ…。そうだな」
剣護の腕に包まれた安らぎに、真白は先程まで抱いていた悲壮なまでの危機感を遠ざけることが出来た。
きっとあれは夏の夜が見せた怖い夢、悪い夢なのだ。
自分を包むこの腕が、消える筈など無いのだから。
「剣護。荒太君には、まだ話してないんだね」
腕の中から囁くように問いかける。
何をかは、言うまでもなかった。簡単に口に出来ることでもない。
「相川のことは、明日、話すよ」
「――――ううん、私から話すよ。私だって、当事者ではあるもの」
剣護は既に、怜と真白に辛い告白をしている。これ以上は酷だと真白は思った。
話す度に彼は自分を責め、傷を抉る。
自分で自分を追い詰める悲しい緑の瞳を、真白はもう見たくなかった。
「お前は結構、俺を甘やかすよな。…妹の癖にさ」
剣護が吐息と共に言う。
「…剣護は、」
真白が真剣な声を出す。低い声は、少しかすれていた。
「剣護は、私が、すごく剣護のこと大好きだって解ってないんだよ」
緑の目が、腕の中にいる真白に向かう。
「―――マジで?」
「そうだよ」
「荒太より?」
「そこは譲れない」
ぷ、と剣護は軽く噴き出す。
「一途な奴…。うり坊みてぇ」
「そうだよ?私、あの人の為なら、何だって出来る。…荒太君、まだあんまり実感してないみたいだけど。でも、剣護が笑ってられるなら、辛い思いしないでいてくれるなら、その為だって何でも出来ると思うよ」
剣護は何も答えなかった。
自分を真っ直ぐに見上げて来る焦げ茶の目に、決意が鈍りそうで困るとは言えなかった。
真白は既に、少なからず何かに勘づいている。自分が感傷に流され、喋り過ぎたせいだ。
これ以上は気取られまいとする剣護の思惑は知らず、真白は兄の温もりに寛いでいた。
(……温かいなあ。剣護の中は)
時々、兄の腕の中は世界の中心ではないかと感じる時がある。
何からも守られて。目に映ると辛いような、醜いものからさえ遮断されて。
優しさと慈しみの雨が、全身に甘く降り注がれるように。
きっと剣護は自分がこのように感じているとは、思いも寄らないのだろう。
もし知ったら、あの緑の目が真ん丸になるに違いないと思うと、可笑しくなってしまう。
そんな真白の心に、もう一人の兄の面影が浮かぶ。
(次郎兄)
あの流された辺境の異世界で、妹を守ろうと孤軍奮闘した姿は記憶に新しい。彼は強かった。心も、力も。右も左も解らない土地で人を守るという難業を、果敢にこなして見せた。今生で共に過ごした日々はまだ少ないというのに、真白を守る為に怜が伸ばす手は、常に迷いが無く、優しい。
どうして、と真白は悲しく思う。理不尽だと。
(あなたと一緒に育って来たかった。剣護の守りを私だけが独占してしまった。……あの優しい兄様だけが、どうして独りにされてしまったのだろう)
「――――――真白?おい、泣いてんのか?」
剣護が驚いて腕の中の妹を見る。
「だって―――…次郎兄が可哀そうだよ」
真白には剣護が、剣護には真白がいて、怜には誰もいなかった。過去の悪夢にも覚醒の苦しみにも、独りきりで耐えるしかなかったのだ。
深い孤独の闇にぽつねんと立つ、少年の姿が浮かび上がる。
整った面立ちが際立たせる寂しい影。
どれ程辛かっただろう。
秀麗な、優等生然とした顔で。何の苦労も無かったような顔をして。
〝俺と太郎兄は、そんな未来を守る為に戦う〟
苦しみを独りで越え、それでも彼は妹の幸福を願い剣を取る道を選んだ。
「次郎兄が、可哀そう………。あんなに、繊細な人なのに」
そう言って泣く真白の頭を、剣護は大きな手で抱え込む。
弟を不憫と思う気持ちは、剣護の中にも強く、負い目と共にあった。
けれど怜の誇り高さを軽んじることだけはすまいとも思っていた。
だから泣く真白に、一言だけ言った。譲らない声で。
「あいつは強い奴だ」
真白が無言で頷く。
そのまま、密やかに泣く真白の髪を、優しい手つきで剣護は撫で続けた。
柔らかな花に触れるように。けれどその花びらを散らしてしまわないように。ひどく慎重な、用心深い優しさで。
何にもこの子が傷ついてなど欲しくないのに、と思いながら。
(…頼むよ、神様。その為だったら)
その為だったら――――――――――。
荒太は浅い眠りの中にいた。
少し先には、小袖を着た真白がいた。それだけのことで微笑んでしまう。
簡単な男だと自分でも呆れる。
水色の地に浮き出る小袖の柄は、若雪も真白も好きな竜胆。
真白が嵌めている指輪のタンザナイトと同じ、濃い青紫色の花。
夢を見ている自覚はあった。
(うん。品のええ小袖や…。よう似合うとるし。当然か。俺の夢や)
真白の周りに花びらが舞う。
桜。桜の花びら。
桜吹雪だ。
光に舞う。
どこかで見た光景だと思った。
懐かしくも泣きたくなる、吹雪。
目を細めて、より一層、真白に見入る。
(真白さん。真白さん。真白さん)
他の誰でもなく、俺を選んで。
持ってる物、残らずあげるから。
そして今生こそは、一分でも、一秒でも長く共に―――――――――。
その為だったら何でもする。
いつの間にか真白は、小袖から純白の打掛姿に変わっていた。
(ああ、ほんま綺麗や。これは、あれか。やっぱり俺のお嫁さんいう落ちかな。それしか無いしな)
真白がこちらに気付き、満面の笑顔になる。
満面の笑みで駆けて来る。
(うん、やっぱりそうや。うっわー、かいらしい。てか綺麗やわ)
裾がもつれて彼女が転ばないかと不安になり、荒太が差し出した両腕の、その横を真白は通り過ぎて行った。
(―――――は?)
荒太がバッと振り返った先には、侍烏帽子に縹色の直垂も凛々しい門倉剣護が、緑の目を細めて待ち構えていた。
花嫁姿の真白は、剣護の伸べた手に、嬉しそうに自分の手を重ねようとした。
(んな阿呆な。有り得へん――――――――!)
朝の金色の光が塗装の剥げかかった床にまで差し込み、明るい模様を形作っていた。
久々に聴いたような、雀の鳴き声が頭に響く。
寝相の良さを自負する荒太は、魍魎の少女が眠るベッドの傍らで胡坐をかいて一夜を過ごした。無論、見張りの為であるが、舞香を説き伏せるのは非常に骨が折れた。窮屈な環境下で寝たせいか、これ以上無いという程、寝覚めの悪い夢を見てしまった。まだ動悸が激しい。よりにもよって真白を、剣護に嫁に取られる夢など。兄妹ではないか。同時に従兄妹でもあるが。その複雑で曖昧な二人の間のボーダーラインが、荒太を不安に陥れる最たるものと言っても過言ではなかった。
どうせ夢なのだから、憂さ晴らしにこの際剣護を一、二発、殴っておけば良かったと後悔する。それくらいしなければ、満面の笑みを湛えた花嫁姿の真白が自分を素通りした、というショックが癒されない。
「…あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく」
頭痛がしそうな気分を取り直し、額を押さえてとりあえずは陰陽師らしく、夢違誦文歌を詠んでおく。悪夢を吉夢に転じるのだ。
たかが夢と莫迦にしたものでないことは、前生において嫌と言う程学んだ。
そして一息吐いた荒太は、やっとのことで目前にあるベッドが、もぬけの殻であることに気付いた。