表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/102

散華 一 前

第九章 散華(さんげ)


蕾が一つ

ほわりと開き

芳香漂わせ

やがて

散りました


     一


 闇に何度も火花が散る。

 白や黄色、(だいだい)の光が瞬く間、明るく輝いては再び暗く沈む。

 二つの影が近付いては離れ、また近付き、(やいば)を打ち合う。

 それは見る者があれば、まるで舞台上の演出のごとく見応えのあるものだったに違いない。

 そして演じる役者たちは疲弊知(ひへいし)らずであるかのように、その光景はもう三十分近くの間、延々と繰り返されていた。

 互いに距離を取った頃合いを見計らって、兵庫が口を開く。彼の着ているシャツは汗を吸って本来よりも重みを増し、それに足りず新しい汗も顎先(あごさき)から伝い落ちている。

「このへんにしときましょう、荒太様」

 息を切らしながら言い、両手にあった二丁鎌を消して茶髪をかき上げる。

 打ち合いを終えると言う、問答無用の意思表示だった。

 今にも飛空を()ごうとしていた荒太の動きが止まる。寸前で止めるにも技術が要ることを、兵庫は知っていた。そして主君の力量も。荒太が兵庫を睨みつける。

「スマートじゃないですよ、こんなの」

 熱血に気合の入った汗だくの鍛錬など、性に合わない。一人でこっそりとするのであればともかくだ。

 しかし荒太は聴かなかった。険しい双眼で、兵庫の進言を退ける。

「誰が刃をしまえと言った」

「…何をそんなに熱くなってるんですか。俺、明日締切の仕事があるんですって。悔しいのは解りますけど、八つ当たりは正直迷惑ですよ」

「――――――何が解るだと?」

 いつものように遠慮の無い言葉を言い放ってから、返って来た主の言葉に、兵庫は勘気(かんき)を感じ取りハッとした。底冷えのするような光が一瞬、荒太の目をよぎる。

「ああ、お前の言う通りだ。俺は悔しくて、苛立ってるよ。相手させられるお前は、さぞ良い迷惑だろうな。……けど、仕方ないだろ。好きな女に剣を持たせたいなんて、どこの男が思うかよ…。なのに俺は、守りたい真白さんよりも、―――――強くはないんだ」

 極限まで譲った物言いだった。

 弱い、と言う言葉は荒太の矜持(きょうじ)が死んでも許さない。相手が真白相手であれば、尚のことだ。保守的、愚かな(こだわ)りだと言われようと、大事な女を守りたいと、男が思うのはごく自然で当然な思いではないか。誰に強いられるものでもなく。自分にそう思わせるだけの存在があることを、荒太は幸いだとも感じている。だが、その為に生まれる苦悩もある。

「だから透主とも()り合えない。俺がこの手でぶっ潰して、一番に真白さんを守ってやりたいのに。彼女を、争いや危険から遠ざけて、この手の内に守り置きたいと思いながら、実際はこのざまだ」

 語る声には自嘲と憤りが強く感じられる。

 守りたい対象である真白の力が自分よりも上回ることに関して、同じ苦悩を(かつ)小野次郎清晴(おののじろうきよはる)が抱いたことを荒太は知らない。

 荒太は、真白が当然のように魍魎の(おさ)と戦う役割を負うことになる状況を、腹立たしく思っていた。何より、彼女に代わることの出来ない自分が不甲斐無(ふがいな)くて許せなかった。

 あの白くて優しい手は、自分の手と結ばれる為にだけあって欲しいのに。

 自分が差し出した手に、真白が重ねた手を包む。身体の一部が繋がっている喜びを感じる、得難い瞬間。

 彼女の剣舞は美しい。美しいが、哀しい。

 語調が少し弱くなる。

「向いてないんだよ、真白さんは。戦闘に。お前だって解ってるだろ。彼女が戦うのは、ただ守りたいからで。…情けないことに、その守りたい中には多分、俺も入ってる。………けど、ことは命懸けの戦いだぜ。幾ら真白さんが神の眷属で強くても、――――――万一のことがないなんて、誰に言い切れる?兵庫。俺は、今度こそ真白さんを亡くしたくない。もしも今、目の前で再び……、死なれでもしたら気が狂う。―――――――気が狂う。…浮ついた夢みたいな例え話をしてるんじゃない。現実の話として、本当に、俺には彼女しかいないんだ」

 飛空を強く握ったまま、荒太は眉根を寄せて呟くように言った。怒りよりも、今は悲哀が勝る面持ちだった。

「荒太様って…、そんなキャラでしたっけ」

 ふざけるような物言いをしながらも兵庫は、痛ましい者を見る思いだった。

 自分が前生で死んだあと、嵐と若雪、二人の主君がどういう人生を歩んだのかは知っている。

 若雪が三十三歳までしか生きられなかったことも、彼女の死後、嵐が独りで若雪の忘れ形見である娘を育てたことも――――――――。

 飛空という腰刀の銘は、若雪が名付けたとも聞いている。

〝飛空〟

 空を飛ぶ。自由に――――――。

 若雪は嵐を、鷹のごとき気性だと評していたと聞く。

〝嵐どのが空を舞う妨げにならないのであれば〟

 あの尊い女性はそう言った。何より嵐が飛翔し続けることを願い。

 兵庫の眉が僅かに切なく(ひそ)められ、唇には苦いような微笑が浮かぶ。

 刀につけた銘一つにも、彼女が嵐に寄せていた愛情の深さが良く表れているではないか。

 その若雪が目の前で動きを、息を永遠に止める。自分に向けられていた笑みの完全なる喪失。

 雪が、溶けて消えるのだ。

 恐ろしかっただろう、と兵庫は荒太に同情した。

 笑みを形作ったままの唇から、溜め息を落とす。

「真白様をお信じなさい、荒太様。あの方は、あなたに苦痛を三度(みたび)、味あわせない為なら、きっと何だってなさいます。荒太様の為と言うより、御自身の為にね。知ってますか?真白様はね、荒太様のことをそれはお好きですよ。あなたは自分だけが真白様の為に命を懸けられると思ってるかもしれませんが、真白様だって同じです」

 普段は余り男の心情に踏み込んだお節介を好まない兵庫が、珍しく饒舌(じょうぜつ)だった。彼の心持ちがそうさせた。

 真白が竜軌に襲われた日の晩。

 神つ力を失くした無防備な彼女が心配で、会いに行った。

 今生での顔を見たかったというのもある。

〝元気そうな顔が見られて、良かった〟

 ところが他ならぬ彼女に、ホッとしたような笑みを浮かべ、そう言われてしまった。

 前生での負い目があったにしても、自分があんな目に遭ったあとだというのに。

 優しい子なのだ。―――――――変わらない。

 柔らかく、儚く色づいた笑みを見て、これが今生の主君なのだと満ち足りた思いだった。

 本能寺での横死(おうし)を悔いる思いは、少しも無かった。

「荒太様みたいなこーんなガキのどこが良いんだか、俺にはさっぱり解りませんがね。心底惚れた女にそこまでしてもらえるんです。…あんた、男冥利に尽きますよ」

 兵庫が荒太に言うには珍しい、風が穏やかに吹くような声音だった。

 藍色めいた闇に、束の間沈黙が降りる。個々が張る結界は、時によりその色を微妙に変えるが、荒太の結界の基本色は深い藍色だ。主君の巡らせた色の中で、常より多くを語った兵庫は、今は静かな眼差(まなざ)しで(たたず)んでいた。

 荒太は意表を突かれた様子だったが、やがて目を伏せ、徐々に和やかなものを表情に浮かべると、黙って飛空を闇に帰した。


 要の報せを受けて、荒太が風見鶏の館に駆け付けたのはそれから一時間程のちのことだった。

闇の中を、彼は軽やかに駆けた。兵庫とのがむしゃらな打ち合いが僅かに影響を及ぼしはしたものの、荒太の疾走(しっそう)は風のようだった。

 街灯や、ぽつぽつとまばらにともる家の明かりを残し、既に多くの人家が眠りに沈んだ夜。それらを横目にしながら、夜の涼しさを感じさせない空気を不満に思いつつ、足を止めることはなかった。

 ただ、月が出ていない、そんなことを思っていた。

 

ベッドに横たわる少女を見た荒太の顔が、一気に険しくなったのを見て取った時、要は自分の嫌な予感が当たったことを知った。

 少女の目は今は開き、荒太の顔を怯えるように睨んでいる。毛を逆立てた小動物のような彼女の反応に要は戸惑いつつも、一応は荒太から庇える位置に立つ。狭い室内は今や緊迫した空気に満ちていた。

 そんな要を見て荒太は呆れたような顔をする。

「…お前はいつもいつも、問題人物を庇おうとするな」

「――――どういう意味や?寝言で剣護君の名前を呼んでたさかい、連絡しようとしたら目え覚まして、それは止めてくれ言うんや。弱ってしもて。……そんで、お前に電話したんやけど」

 それはもっとまずかったかもしれない、と要は今更ながらに思っていた。

 荒太が少女を見据える目は厳しく、容赦なかった。

 真白と異なり、敵と見なした相手には一切の温情をかけない荒太の気性を、要は良く知っている。

「魍魎だ、そいつは。…なぜか若雪どのや真白さんの面影があるが。そういう、見る者を惑わせるタイプの奴なのかもしれない。但し、ただの魍魎にしては少し気配がおかしい。とにかくこの家には置いておけない」

 荒太の意図を要は察する。彼は少女を追い出す気だ。いや。それだけではなく、きっと滅してしまうつもりでいる。これ程までに衰弱した女の子を。

(うち)は誰かて置いとける」

 少女の前で要は両手を大きく広げた。

 荒太が、それを始末に悪いもののように見る。現状、荒太は十五歳、要は二十二歳だ。リーチにおいて、荒太はまだ要に敵うものではない。

 ちくしょう、ハーフめ、と荒太は(ねた)み半分に思う。

「顔に(だま)されるな。それは真白さんでも、若雪どのでもない」

「そんなんとちゃう。こない弱っとる女の子を、お前どうするつもりなんや!」

 糾弾(きゅうだん)する要の物言いに、荒太の顔が苦くなる。

「――――――俺が誤解されるような言い方をするなよ。…ここで妙な情けをかけてその魍魎を野放しにしたとして。もしそいつがこの先、真白さんを傷つけて見ろ。要。お前でも、俺は許さないぞ」

 ぐっ、と要が息を呑んだが、動こうとはしなかった。

「そこを退()け、要」

「嫌や」

「なら(いかずち)を使え。俺でもイチコロだぜ?」

「―――――」

 要の顔が苦しげに歪む。余程の場合を除き、彼は人に向けて力を行使出来ない。

 それが要と言う人間だ。荒太は解っていて言った。

 柔らかな黄緑の瞳と荒太の瞳が、真っ向からぶつかり合う。

 両者一歩も譲ろうとしない。

 空気は緊迫に険悪が加わったものへと変化していた。

 柔軟だが非情に頑固な一面も持ち合わせる要はこんな時、言い出したら聞かない。荒太が少しでも少女に危害を加える素振りを見せたら、全力でそれを止めようとするだろう。

そしてそれ以前に、この家には絶対的な権限の持ち主がいた。

「こら!」

「いって!」

 荒太の頭が、丸めた新聞紙で叩かれる。バコンッと大きな音が小気味良く響いた。

 それは相当に厚く、硬く丸められた新聞紙で、また、振るわれた力もかなり容赦なかった。

 仁王立ちして素早く少女の前に立ちふさがる舞香がそこにいた。長身である要の身体より更に手前に立ち、弟をも擁護(ようご)する姿勢だ。琥珀色の目が、荒太を睨んでいる。

「舞香さん…」

「荒太。あんたって子は。少しは見どころがあると思ってたら、ここまで弱り切ってる子をこれ以上追い詰めてどうしようっての。真白に言いつけるわよ?良い?今日はもう、この子の眠りを邪魔しないこと。この家での乱暴狼藉は、私が許さないわ。――――――さあ。私がついてるから、大丈夫よ。安心して眠りなさい」

 振り向いた舞香に優しく髪を撫でられて、少女はむしろ困惑に目を見張る。決して許されまいと思っていた失態を許された子供のような顔をして、おどおどと舞香の顔を見上げた。


 一階のキッチンで、要はカモミールティーを淹れた。

 荒太の神経が少しでも落ち着くようにと思ったのだが、荒太の表情は既に静かだった。その顔のままで要に報告する。

「剣護先輩には連絡した。心当たりがあるらしいな。かなり驚いてた。…危害を加えるなと、釘を刺された。すぐに来たそうだったけど、彼女がもう眠ったと伝えたら、明日の朝には来るって言ってたよ」

 もう夜も遅いのに、剣護の背後にある真白の気配を、荒太は感じた。その時、荒太は唇を知らずに噛んでいた。従兄妹同士、兄妹同士なのだからそういう時もあるだろうと、無理矢理に自分を納得させてみたが、どうしようもなく今も胸は()けていた。彼ら兄妹の強い繋がりに、時に荒太の心はひどくかき乱され、息が苦しいような思いを抱く。

 どうか奪わないでくれ、と胸中で懇願する。

 真白だけは駄目だ。

 強く、大らかに、人を包み込む度量を持つ剣護を荒太は尊敬していた。人間的に、自分には無いものばかりを持っていると、そのようにも思う。

 同時に恐れてもいた。

 真白を見守る、緑の瞳の優しさを。

「ああ、剣護君に任せたら、大丈夫や。きっと何とかしてくれる。真白さんが、あれだけ頼っとる相手なんやから」

 頷く要も今では落ち着いている。元々、怒りを長く持続出来ない温厚な気性だ。彼の言葉に、荒太が俯いた。

「…どないしてん、荒太」

「―――――――お前は、妬けないのか」

 黄緑の瞳が、不思議そうに瞬く。

「何をや?」

「真白さんと剣護先輩は、今は従兄妹だぜ」

 要の顔が固まる。

 それを見て、テーブルに片肘(かたひじ)をついていた荒太は、溜め息を吐いた。

 ここまで簡単に表情で暴露(ばくろ)されると、いっそ気抜けがしてしまう。

 チン、チン、チン、とティーカップの金色の縁を爪で弾く。

「…そんなあからさまに、何でばれたんだって顔すんなよ、莫迦」

 色白の要の肌が紅潮し、黄緑の色は迷子のように頼りなく動く。

「荒太。………僕は、やっぱり解りやすいんかな?」

「モロばれ。真白さんと良い勝負だよ」

 要ががくりとテーブルに両肩を落とした。

「誤魔化し方もなっちゃいない、腹芸(はらげい)が出来ないのは相変わらずだ」

 遠慮の無い荒太のダメ出しに、要は赤面して項垂(うなだ)れる一方だ。

「なあ。何で、真白さんなんだ―――――――?」

 要の視線が宙の一点に定まる。動かなければ読まれまいと言うかのように。

「…兵庫は、良く解らんが多分、若雪どのの面影を想ってる。信長公には所詮、濃姫がいる。真白さんのことを、本気で、心底恋愛対象に見てるのは、お前だけだろう―――――俺以外には。なぜだ?俺は、お前になら、他のものを譲れた。他のものなら、お前がどうしても望むんなら、何だって譲ってやったんだ!」

 俯いて、言葉を(はげ)しく発する荒太の顔には、苦悩と苛立ちがあった。

(俺はお前に借りがある)

 紅葉の中に佇む墨染の衣。

 荒太が抱く要への負い目と友情が、彼に強い声を出させた。

 顔を下に向けたまま、もう一度尋ねる。今度は少し抑えた声音で。

「どうして真白さんだった」

 静かな夜の空気に、近くを通り過ぎる車の走行音が響く。

 要が、その音と共に何かを振り切ったかのような顔で、俯く荒太を真っ直ぐに見た。

「ならお前は、――――…何で真白さんやったんや、荒太」

 鏡のように返された静かな要の声に、荒太は顔を上げる。

「前生が若雪どのやったからか?ちゃうやろ?……どうしょうもなく、最初っから、惹かれてもうたんやろ?よう解るわ。…僕かて同じやから…。お前に言われんかて、譲ってもらおなんて思ってへん。これっぱかしも」

 静かだが凛とした、黄緑色の輝きが荒太を見据えていた。

 どうしようもなく最初から。

 陳腐(ちんぷ)な言葉だと荒太は思う。知ってはいたが要は相当のロマンチストだ。

だが笑ってしまうことに、事実は、それ以外の何でも無かった。

 確かに(みそぎ)の時を終えてから初めて真白に出会う前、予備知識の為に期待も憧れもあった。

 ただ、もしかしたら当てが外れるかもしれない。その時は気持ちを切り替えよう。

 そういう考えも、実はあった。思考回路の逃げ道を、こっそり確保しておいた。前生での(きずな)が確実に再現されると、信じ込む程に夢見がちな性格ではなかったのだ。それでも消せない期待の為に、リハビリにだけは励んだ。

 しかし。

〝成瀬荒太君?〟

 焦げ茶色のショートカット。白い肌。淡く色づいた唇が、自分の名前の形に動く。

 青紫のワンピースを着た少女に問いかけられた時、思ったことは「逢えた」という一事だった。

 逢えた。見つけた。放したくない。

思いは軽々とその三段階を順に飛び、他の理屈は無かった。

 呼ばれた名に光が注いだと感じた。天啓(てんけい)のように。

絆への疑念は、荒太の中から風に吹かれる紙のように消え失せた。束縛を嫌い、何より自由を好む自分が、捕らわれて安堵する囚人になった気分でそれが妙に可笑(おか)しかった。

(始まりが既にゴールだ。ある意味、終わってる…)

 けれど荒太はその事実を歓迎した。

真白が〝また逢えて嬉しい〟と言ってくれた時、その言葉が(しび)れる程に嬉しかった。

たったそれだけの言葉で、いとも簡単に、尻尾を振る犬のように喜んでしまう自分が情けなくて、自分はもっとプライドの高い男だった筈だと(いぶか)しんだ。それでも、同じ想いを抱かれることの幸せは、荒太が後生大事にしていたプライドさえあっさりと押し流してしまった。

〝抱き締めてもええ?〟

〝若雪を?真白を?〟

〝真白さんをや〟

 嘘は無かった。若雪でも他の誰でもなく、真白に触れたいと思った。

 請うて許され、彼女を抱き締めた時、「戻って来た」と思った。

 ああ、ここだ、と。若雪ではない。真白に、「戻って来た」。

 自分のそんな感情の全てが他愛なくて滑稽(こっけい)で、莫迦みたいだった。

(莫迦みたいだ――――――俺は彼女を放せない)

 何よりも焦がれる、白い花。優しい微笑を形作るその魂。

不覚にも涙が出た。

 ―――――それが全てだった。

 

黙り込んだ荒太を、要は見つめていた。

 嵐が、荒太が自分に対して負い目を感じていたことには薄々気付いていた。けれど、譲る、譲らないというところまで思い詰めて考えていたとは知らなかった。それもまた、彼の抱く自分への友情の一つの形だと思うと、何とはなしに泣けてくるような思いが、要の胸を温かく占めた。当たりの良い外面(そとづら)を被りながら、本性は悪童(あくどう)と言っても差し支えない荒太が、自分のことをそこまで気遣っていたのだ。

(…僕も阿呆やな)

 叶う見込みの無い恋を再びするなど、我ながら不器用だとも、救いが無いとも思う。

 しかし。

 紛れ込んで真白と出会ったあの暗闇で。

〝要さん。助けて――――、助けてください〟

 泣きながら叫ぶ彼女は、自分の保身を求めているのではなかった。ただ荒太と竜軌の命を失うまいとしていたのだ。なかんずく、荒太の命を。

 失いたくないと泣いていた。

 必死の形相(ぎょうそう)で真白に請われた時、自分に彼女の願いに応じられるだけの力があったことに感謝した。喜んで、手を差し伸べた。

 同じ瞳で求められたら、何回でも、何十回でもきっと自分は応えてしまうのだろう。

 どこか彼女に通じるような、カモミールティーの優しい香りにゆっくりと両目を閉じる。

 不毛な恋をする自分に呆れながらも、要の唇には満足げな笑みが浮かんでいた。

(阿呆やなあ……)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ