接触 四 後半部
唇に笑みを浮かべていた舞香は、ギイ、バタンという音を聴いて、アルバムから顔を上げた。パラリ、とカールした金髪の一房が背に落ちる。今まで、真白たちと海に行った時に撮った写真を眺めていたのだ。場所はもちろん、美術書や作品群に侵略されていないキッチンである。アトリエと化したリビングで、そうした行為は望むべくも無い。
また、真白にステンドグラスを教える時など以外の目的で、リビングのテーブル上を片付けるのも億劫でならなかった。
「要ー?遅かったわね。末原先生も人使いが荒いこと。晩ご飯どうしたの?一応、あんたのぶんも作って置いてあるけど」
家事全般、そつなくこなせる。気立てもスタイルも良い。
全く、自分はいつでも嫁に行けると舞香は自負してしまう。その割に、相応しい相手に中々巡り会わないのが謎だ。
そんなことを考えながら、リビングに入って来た弟を首を伸ばして見遣る。
「………またあんたは、何を拾って来たのよ」
困惑顔の要が、赤いワンピースの少女を抱えて立っていた。
舞香と要は、以前、怜が使っていた部屋を再び整えて、少女の寝床を作った。介抱も手慣れたものでそつがない。日の匂いのする新しいシーツをベッドにかけると、要がそっと少女の華奢な身体を横たえた。その間も彼女はひどく具合が悪そうで、蒼白な顔色をしていた。
眠る少女の鼻梁は細く尖っている。息はか細く、どうかするとこのまま儚くなってしまうのではないか、という妄想さえ見る者に抱かせる。
彼女の傍らに立ち、妄想をはねのけながら舞香が弟にトーンを落とした声で尋ねる。
「道に倒れてたの?手ぶらで?」
「うん…。息も絶え絶えな様子で。救急車は呼ぶな言うから――――――」
呼ばなかったのか。
舞香は眉根を寄せる。
病人の人権を過剰に擁護するのも、問題と言えば問題だ。人の良い弟の性分を十分に理解はしているつもりだが―――――――――。
全く、いつの間にか家は訳有りの俄か傷病人引き受け所になっている、と思う。そのこと自体を迷惑には感じないのが舞香だが、自分たちの手に負いかねる患者に限っては頭を悩ませるしかない。
また、この部屋には冷房がついていない。立て付けの悪い窓を開けて少しでも風を取り入れようとするが、どうやら今夜は爽やかな夜風は期待出来ないようだ。
明らかに弱っている様子の少女を、舞香は少しでも快適な心地にしてやりたかった。
「それにしてもこの子は、栄養不足だわ。真白よりも細いんじゃないの。顔色も悪いし…」
とかく拾いものに事欠かない姉弟は、少女に食事をさせる必要性を感じた。
しかし少女は、舞香が要の為に取って置いた夕飯のおかずを、口にするだけで戻してしまった。仕方なく水だけを摂らせて、再び寝かしつける。脱水症状には用心しなければならない。
「……家出とかやろか」
柔らかな黄緑の瞳に憂う表情を浮かべ可能性を挙げた要に、舞香が小さく頷く。
「この格好で倒れてたんなら、十分有り得るわね。とにかく、熱中症じゃなさそうで良かったわ。それにしても、家出なら家出で、手荷物の一つくらい持っていても良さそうなものだけど。右足に嵌まってる、赤い足枷みたいなのも気になるし。本人が話せるようになるのを待ちましょ。本当にあんたと来たら、可愛い子ばかり拾うんだから」
「――――選んでへんよ」
「解ってるわよ」
眉を下げて困ったように言う弟に、舞香は軽く笑ってやった。
「剣護。今日は私と眠ろう」
真白が幼稚園の先生のように言った時、剣護は笑いを浮かべた。予想しないでもなかった、という笑いだった。
「何?心配してんの?……一丁前にさ」
「うん。一丁前に、心配してる。こんな日に、一人でいちゃ駄目だよ。寂しいと、人ってどんどん物事を悪いほうに考えちゃうんだから」
「お前、今までにそんな時があったのか」
眉を顰めた剣護に、真白は首を横に振る。
「ううん、一般論。私には無かったよ。剣護がいてくれたから」
辛い時にはいつも傍にいてくれる兄を、今は自分が気遣う番だと真白は思っていた。
敵わないな、と思いながらも剣護は口を開く。
「―――――俺も良い年した男なんだけどな。ばあちゃんたちがそろそろうるさいんじゃないか?」
従兄弟とは言え、男子の剣護を真白の部屋に泊めることに、祖母たちが難色を示してもおかしくはないころだろう。だが真白は再び首を横に振った。
「おばあちゃんたちも、剣護のこと心配してたもの。解ってくれるよ」
「しかしな…」
「お願い」
逆の立場であれば、真白はここまで必死にならない。
大丈夫だと言い張って、それこそ一人で耐えようとするだろうに、と剣護は真白の顔を眺め遣る。
「解ったよ。傍にいてくれ、真白」
「うん」
真白は部屋を出ると祖母たちと隣家に剣護の宿泊することを伝え、タオルケットと枕を抱えて戻って来た。剣護の様子がおかしいことは両親である叔母たちも気付いていたようで、泊まることに反対はされなかった。叔母は心配そうな顔で「悪いわね、しろちゃん」とだけ言った。誰より精神的に揺らぐことのない息子の気性を、母親である叔母もまた知っている。そしてそんな彼が、なぜか滅入っていることを察して気を揉んでいるのだ。昔、まだ剣護が小学生のころにノイローゼと不眠症に陥った時期があったことも、叔母の心配に拍車をかけているのかもしれない。当時もまた叔母は、幼い真白に申し訳ないと言いながら、剣護に寄り添って眠ることを請うたのだ。あのころの剣護に、唯一眠りをもたらせたのが真白だけだったからだ。
「勉強道具は、要らなかった?」
タオルケットと枕を室内に置いて、戸を閉めながら真白が尋ねる。
「ああ…。さすがに、そんなルームサービスが欲しい気分じゃないな」
そう言ってゴロンと床に転がった剣護の脇に、真白はちょこんと座った。いつの間にかパジャマに着替えている妹を見て、剣護は少し可笑しくなる。普段はどちらかと言うと受動的なのに、人が辛苦を抱えている時には、昔から積極的に動くようになるのが真白だった。若雪も真白も、自分にとっては何も変わらない。
部屋には豆球の明かりだけがともり、温かな薄暗さがある。
転がったままの状態で無造作に真白に手を伸ばし、癖の無い、真っ直ぐな焦げ茶の髪に触れる。
(俺は割と癖っ毛なのにな。性格が出んのかな)
だいぶ非科学的なことを考えてみる。
触れるだけでも艶やかと判る髪を、しばらく無言のまま指で梳く。
薄闇の中に虫の音が響く。
真白は黙って、剣護の気が済むようにさせていた。
「伸ばすの?」
剣護に訊かれて、真白は小首を傾げる。
「解らない。考えてる」
「荒太次第?」
「……かな」
薄暗い中でも頬を染めているだろうと解る妹を見て、不意に怜の問いかけが蘇った。
〝相川さんのことを好きだった?〟
焦げ茶の髪を梳いていた指が止まる。
あいつはたまに、人を見透かすような目をするからいかん、と思う。
怜本人に自覚はあるのだろうか。
「真白…」
「何?」
(こいつはまたこいつで、人を甘やかす目をしやがる―――――ごく時たま、狙ったみてーに)
いつものように息を吸って吐く。いつものように。
「お前にさ」
「うん」
「お前に、俺のことあげるって言ったらどうする?」
焦げ茶の瞳が微かに大きくなる。
「……どういう意味?」
「そのまんま」
「そんな大事そうなことを、弱ってる時に言うのは良くないよ」
窘める妹の言葉に微笑む。
「―――――だな」
そう言って、剣護は真白の髪に触れていた手を下ろした。
髪から離れる剣護の手が、ひどくゆっくりした動きに真白の目に映る。
余計なことをしたかもしれないと思っていた。
今の剣護は、彼の心を理解出来ない人間が傍にいても、より孤独を感じるのではないか。自分が寄り添おうと考えたのも、結局は自己満足に終わっている気がする。剣護が真白の申し出を受け容れたのも、詰まるところ真白の為であろうと考えられた。
「しろ。お前さ、幸せになれよ」
その考えに追い打ちをかけるような優しい声に、真白の胸がつかえた。僅かに震える声で問いかける。
「どうして今、それを言うの」
ひどく唐突な優しさに、感謝などよりむしろ抗議の声を上げる。
剣護が、真白の顔を見上げてちらりと歯を見せる。宥めるような緑の瞳。
「気分だよ、気分。……お前に良いことを言ってやりたい気分なんだよ。兄貴として」
嘘だ、と思う。剣護は嘘を言っている。
真白は彼の言い分に納得出来なかった。
剣護の言葉に、かえって泣きたいような思いが込み上げるからだ。
剣護は今、何か大切なことを決めた。
この温かな優しい薄闇の中で。
そして真白の知る限り、彼という人間は一度決めたことを翻さない。
こんなことが昔もあった。どこか自分から遠い思考が、そう囁く。
(嵐どの)
独りで決めてしまった。
自分の命と運命を、若雪の為に差し出すことを。
嘗て嵐だった荒太はそれを過ちと悟っている。今生は、傍にいてくれる。
次は兄を失わなければならないのか。
(違う、そんな筈ない。どうして――――。こんなに近くにいるのに。剣護)
剣護が遠い。
このまま剣護が、自分の手の届かない遠くまで行ってしまう気がして、成す術も無く真白の思考は切羽詰まっていた。
縋るような気持ちで誰かに、何かに祈ろうとして、急に醒めた頭で思う。
―――――――神の眷属である自分が、一体、誰に祈れるというのか。
〝雪の御方様〟
こんなにも無力なのに、兄の手一つ掴み続けていることも困難だというのに、祈ることすら許されないのが自分という歪な存在なのだ。
神という称号の為だけに、取り上げられたものの大きさ。
(ひどい…)
打ちのめされる真白を、気遣わしげに見る剣護の瞳の温もりさえ、今は辛く悲しかった。
優しい緑。どれほど大切に想われているか、言葉にされなくても解ってしまう目をして。それでも。いや、だからこそ。
(そんな目をしても、あなたは、私を)
きっと―――――――――――。
辛いような愛おしさと悲しみと裏表のように共存して、胸を強く占める凍るような思いは、自分を神たらしめたものへの憎悪だと真白は気付いた。