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接触 四 前半部

       四

 

午後もだいぶ過ぎたころ、買い物から帰って来た怜は、にこにこコーポ203号室の前に立つ剣護を見た。

「…よお」

「――――何て顔してるんだよ、太郎兄」

 エコバッグを持つ左手とは逆の右手でポケットの鍵を取り出し、カチャカチャと音を立ててドアを開ける。鍵につけられた、愛らしい小さなテディベアのキーホルダーは、真白から貰った物だ。そのままでは寂しいよ、と妹がくれたややかさばるそのキーホルダーを、怜は大事に扱っている。

「入りなよ」

 静かな目で、剣護を促した。


「あんまり驚かないんだな」

「太郎兄が来たこと?」

 テーブルの前に胡坐(あぐら)をかいて座り込んだ剣護に訊き返しながら、冷蔵庫に買って来た物を手早く入れていく。片手間で子供に返事する主婦のようだ、と剣護は感想を抱く。

 もちろん口に出すような恐ろしい真似はしない。

「ああ」

「真白から電話があったからね。――――――太郎兄の様子が変だって言って、ひどく心配してた。…今にも泣きそうな声で。あの子の前で醜態晒(しゅうたいさら)して、事情も話さずに立ち去るなんて。らしくないよ」

 怜の口調からは抑えた腹立ちが感じられた。

「…お前には、怒られるって思ったよ」

 非難を大人しく受け容れる剣護の態度に、怜が一つ、息を落として冷蔵庫のドアをパタンと閉めた。それから兄に少しだけ和らいだ視線を投げる。

「アイスでも食べる?」

「ハーゲンダッツなら」

「ああ…帰れ」

「すみませんでした!」

 冷凍庫から取り出されたコーヒーアイスの一本が、頭を下げた剣護に投げられた。

 宙でキャッチし、袋から出したアイスにかぶりつきながら、何となしに部屋を見渡す。

 居間兼寝室の六畳は、前に訪れた時より片付いているように見える。もう小一時間もすれば夕方と言って良い時間帯になるのに、夏の日はまだ高く昼間のような錯覚をもたらす。

 律儀に壁にかけられたカレンダーを見て、夏休みの残り日数も、もう多くは残されていないことに気付く。カレンダーの柄は山地に咲く花の写真だ。白い花につい目が行く。

 アメリカ人ながら日本酒を愛する父は毎年、年末になると懇意にしている酒屋からカレンダーを貰っているが、それはもっと味気(あじけ)ないもので、良く母が不満を口にしている。不満は言うものの使わないのは勿体無いと見え、結局そのカレンダーが一年中、キッチンに居座ることになるのだ。

(そう言えば荒太が部屋を片付けてやったとか(わめ)いてたな)

 そんなことを思い出す。

 尤もその代償に、冷蔵庫を空にされては(たま)らない。

「あの冷凍室、氷作るだけじゃないんだな」

 晩酌(ばんしゃく)を密かな楽しみとする弟が、なぜ冷凍室付きの冷蔵庫を購入したのか、剣護は知っている。

「視野は広く、だよ。ある物は色々活用しないとね。…それで、何があったの?」

 怜が落ち着いた声で剣護に尋ねた。


 相川鏡子の話を聴き終えた怜は、しばらく何も言わなかった。

 蝉がいつまで鳴き続けるものか、と思いながらも、自分が思考することから逃げたがっていることを自覚する。―――――剣護が苦悩するのも無理はない話だ。怜はそもそも相川鏡子と面識が無いが、嘗て自分が深く関わった相手の存在が記憶から全て消え失せていたと知れば、混乱に次いでショックを受けて当然だろう。

 そして忘れ去ったことにより、相手を絶望させた自分への失望や怒り。落胆。

 怜は痛ましさに、切れ長の双眸(そうぼう)を細める。

(失意の連鎖(れんさ)だ…)

 どんなに剣護が気丈な性格でも、精神的に受ける打撃は大きいと推測出来る。

 ギレンたちが鏡子に嵌めていた足枷を断ち切ったとして、それで解決するという話ではない。また、そのことによって鏡子が彼らから逃れ得たという確証も無い。

「太郎兄は、どうしたいの」

 結局、怜に言える言葉はそれしか無かった。

 そしてそれが最も肝要なことだった。

「……叶うなら、相川を助けてやりたい。少なくとも、あいつを魍魎サイドには置いておきたくないんだ」

「…だろうね」

 剣護は軽々しく望みを口にしている訳ではない。

 しかし、鏡子の救済がいかに困難かを二人共に知っていた。

「真白に、俺から話す?」

 差し出すような怜の問いには、彼の思い遣りが感じられた。

 剣護が怜に目を向ける。食べ終えたあと、ずっと手に持ったままだったアイスの棒を、テーブル上の空になった袋の上に置く。

「いや、俺が自分で話す。一回、逃げちまったからな。ちゃんと説明しねえと」

「――――思い出したら、真白もきっと自分を責めるよ」

 怜の長い(まつげ)が伏せられる。

「解ってる。俺が、ちゃんと言って聴かせるよ。なあ、次郎」

「何?」

 緑の瞳で怜を捉えたまま、剣護は苦悩をそのまま問いとして発した。そうすることが、弟に対する一種の甘えであると自覚した上での問いだった。

「例え囚われる立場から解放されたとしても、相川にはもう行くところが無い。親も親戚も、誰一人あいつのことを覚えてやしないんだ。…半分魍魎となった身では、人として生きることも叶わない。――――俺は、殺してやるべきだったと思うか」

 怜は眉を歪め、一度唇を引き結んだ。次に開いた唇から出た声音は、哀切(あいせつ)に響いた。

「……俺に答えられないことを訊かないでよ、太郎兄」


 剣護が帰る間際、怜は玄関先まで送りに出た。もどかしげな眼をしていた。言うべきこと、言いたいことがあるのにそれが何なのか自分でも解らない。そんな表情を浮かべている。

「悪かったな。突然押しかけて」

 怜が首を横に振る。許容する空気だった。

「太郎兄が独りで背負い込むより良いよ」

 ドアを押し開けた剣護が、その言葉に若干の苦笑いを浮かべる。弟や妹に甘えて心配をかけている自分が、情けなく思えたのだ。

「――――――太郎兄」

 ドアの向こう側から剣護が振り返った。長身が半分、こちらを向く。

「相川さんのことを、好きだった?」

 虚を突かれた緑の目が大きくなる。

 怜は真顔だ。からかいの気配は微塵(みじん)も無い。

 剣護は、意味も無くドアに設置された新聞受けに目を落とした。

 怜は新聞を購読している筈だが、夕刊はまだ入っていない。

 ぼそりと、呟くような答えを返す。

「………解んねえ」


 夕食のあと、再び真白の部屋に入って来た剣護は、昼間よりも落ち着いていた。

 剣護が苦しそうな顔のまま、その理由も明かさず真白の前を去ってから、真白の心はずっと心配や不安、混乱に満ちていた。怜に相談して宥められたものの、依然、それらの感情は真白の中にあった。その状態のままで夕飯を食べ、風呂に入った。剣護のみならず、真白まで何かあったのかと訊いて来る祖母たちに、気の利いた返事も出来なかった。夏バテ気味だったこともあり、おかずの大半も残してしまい悪いことをした。初めて見る長兄の姿に、とにかく動揺していたのだ。

 彼の声が「入って良いか」と響いた時、真白は部屋の戸に駆け寄った。

 

剣護は昼間に見た制服姿から、私服に着替えていた。とりあえず、それなりに落ち着きを取り戻すだけの時間と余裕が得られたのだと思い、真白は一応の安堵に胸を撫で下ろした。

 けれど、緑の瞳は相変わらず、悲しみの色を浮かべている。

 それが真白の胸をも辛くさせた。

「次郎に会って来た。…叱られに」

 その言葉から、怜が剣護の気を少しでも持ち直させてくれたのだと知り、真白は次兄に感謝した。自分一人では狼狽(うろた)えるばかりで、とても当初の剣護の混乱と嘆きに対応出来なかった。剣護も恐らくそれが解っていたから、怜のもとへと向かったのだ。

「昼間は、済まなかった。みっともねーとこ見せたな」

 真白は無言で首を横に振る。

 同時に、少しだが彼本来の強さの一角が取り戻された声音に、安心感を覚えた。

「真白。俺さ、ひどいことしちまった。お前に嫌われるかもしれない…」

「――――――――絶対」

 真白が強く声を発した。

「絶対、嫌いにならないから。話して」

 確信があった。

 真白にとって剣護は、穏やかに自分を包む空気そのものだ。温もりだ。

 嫌悪の対象から最も遠い存在が彼だった。

 真白に勧められ、ベッドの上に並んで座った剣護は重い口を開いて語り始めた。

 自分が絶望に至らしめた、哀れな少女の物語を。

 二人の姿は、秘密を分け合う幼い兄妹にも似ていた。


 語りながら、剣護の頭の中は、なぜか幼い日の真白との思い出が溢れた。

 鏡子への強い負い目と並行して、それはフィルムがくるくると回り続けるように止まらなかった。

 

 真っ直ぐ自分に伸びる真白の、紅葉(もみじ)のような手。

 少しでも剣護が離れると、大泣きして騒いだ時期もあった。

〝もう…伯母さん、剣護君に妬けちゃうわ。――――――取らないでね?〟

 取らないでね?

 真白の母の目には、ほんの僅かに、本物の恐れがあった。

 大人に対して生まれて初めて抱いた優越感は、後ろめたくも蜜のような甘さで。

 温かな、柔らかい小さな身体。命の重みの愛おしさ。

 焦げ茶の瞳が、不思議そうに追う春の雨。冬の雪。

 神様。

 神様。

 願わくばその瞳が、醜いものを映しませんように。

 僕の目が代わりに映すから。

 木苺を食べて、酸っぱそうにしかめた顔。

 それを指差して笑いながら思った。

 そうか、世界の中心というものがあるのなら、それはきっとここなのだと。


 語り終えた時、剣護は微かな(おび)えと共に、隣に座る妹の顔をそっと見遣った。

 涼しさをもたらす素振りもない外気の為に開けられた窓の外、上空は濃くて重い藍色だ。

 間遠に散らばる星の手前にある真白の顔は、悲しみに歪んだまま固まっていた。

 悲痛に彩られた表情に、剣護は話したことを半ば後悔した。

「泣くなよ、真白。お前には何も非は無い」

 剣護の話を聴き、真白もまた相川鏡子の存在を思い出した。

(私。私―――――――私も、知ってた)

今では真白の中でも、全ての辻褄(つじつま)が合っていた。

 剣護が遠く離れ行くことに覚えた既視感。

 絶望に独り佇む悲痛な魂が、太郎清隆の名を呼んだ理由。

 鏡の中の赤い少女。

 剣護だけではない。鏡子は恐らく真白にも助けを求めていた。

 ふと他にも何かあった気がしたが、今の真白には思い出せなかった。

「ごめんなさい、剣護」

「だーかーら、謝んなって。自分がいっこも悪いことねーのに、謝罪を安売りするんじゃないの。そういうのは良くないんだぞ」

 (いさ)める口調の剣護に、真白は首を横に振る。

 罪は罪だ。罰は罰だ。

 認めなければならない。

「――――――私、…焼き餅、焼いてたの。剣護が、相川さんのほうをずっと向いてたから。相川さんが苦しいこととか、ちゃんと考えてなくて。自分が、自分が恵まれてるから、本当には考えてられなくて。家族のこととか、経済的なこととか。持ってるものに、胡坐かいて。せっかく、剣護が保健室に誘ってくれてチャンスくれてからも、結局何も出来なかった。間に合わなかった……」

 それは、唐突に鏡子が陶聖学園を去った為だ。剣護は胸の内で思った。誰も、何も出来なかった。彼女に手が届かなかった。真白のせいではない。

 剣護の目は、真白がベッドカバーを強く掴む手を捉えた。柔くその手を押さえてゆする。

「お前のせいじゃない。何も」

「…なら。私にそう言ってくれるなら、剣護も自分を責めるのは止めて。まだ、まだ何とかなるかもしれない。相川さんのこと、助けられるかもしれない。一緒に、その方法を考えようよ」

「………そうだな」

 必死に言い募る真白に、剣護は緩い笑いを返した。緑の瞳が、今は真白をあやすような優しさを浮かべている。

「――――泣かないでよ」

「泣いてんのはお前だ、莫迦」

 剣護は妹の白い頬を右手で拭った。

 今度は真白がベッドカバーの上に置かれた、剣護の左手の甲に自分の右手を重ねる。

「きっと何とかなるよ。だから、一人で苦しまないで。兄様」

 ―――――兄様――――――。

 剣護。剣護。――――――剣護がいるもの。

 自分の腕の中で笑う陽だまり。

 緑が細まる。

 パンドラの箱にはまだ唯一、残ったものがある、と自分に呼びかける白い少女の姿を前に。ひざまずく思いで。

「ああ、解ってる。―――――…ありがとう」



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