掌編 茹で卵論争
掌編 茹で卵論争
デートの約束を取り付けに荒太から電話があった時、真白は風呂上がりだった。
乾かしたばかりの髪はまだホカホカとしていて、夜風に靡き頬をくすぐると些か暑い。
前日に夏祭りを一緒に過ごしたばかりなので、真白は少し驚いていた。但し、真白の場合は純粋に夏祭りを楽しむだけではなく、異界へと流れる経験も味わっていたのだが。
「…でも荒太君、昨日、会ったばかりなのに」
控えめに言ってみる。小さな稲荷社の前で彼と交わしたキスや抱擁を思うと、風呂上りであることも手伝って真白はゆでだこのようになってしまう。
『俺は、真白さんと毎日でも会いたいから。真白さんは違うの?』
「…がわない、けど」
『え?』
「違わないけど」
『え?』
「絶対、聴こえてるよね荒太君!!」
真っ赤になって言った真白は、口を手で押さえる。窓を開けた状態で大声を出すのは、近所迷惑だ。スマートフォンを持ったまま、カラカラカラと窓を閉め、空調をつける。
『うん、バッチリ』
「悪びれてない……」
『だって真白さんが可愛いから。真白さんが悪いよ』
「―――――そんな理屈、無いと思う」
『あ、そう。もっと聴きたい?』
「もう、もうそれ以上、良いからっ!デート、する!」
早くも音を上げた真白は、電話の向こうでにやりとほくそ笑む荒太が見えた気がした。
虫のすだく音を聴きながら、剣護は一階のキッチンに飲み物を取りに降りて来ていた。
受験勉強の合間である。家族はとうに寝ている。
ふと顔を上げると、そこに真白が立っていたので剣護は仰天した。
「どっわあっ!!」
「しー、剣護、しー!叔母さんたち、起きちゃうよ」
「お前が脅かすからだろーが!何、物音立てずに入って来てんだよっ。…しかもパジャマだし」
剣護が真白の家の合鍵を持つように、真白もまた剣護の家の合鍵を持つ。明日のデートに備えて剣護にどうしても用事があった真白は、寝静まっている他の家人を起こさないよう、細心の注意を払って隣家のキッチンに立ったのだ。
真白は色が白い上に着ているパジャマも生成りで、羽織るカーディガンも白い。パッと見、ボウッと女の幽霊が立っているように見える要素は十分で、剣護は寿命が三年縮んだ。
「剣護、剣護、そんなことより、」
「そんなことより、ってお兄ちゃんの小鳥のように繊細な心臓をもうちょっと思い遣ってだな」
「茹で卵の作り方教えて!!」
「――――あ?」
剣護は何をいきなり、と思った。
俺は受験生だぞ、と思った。
こんな真夜中に、とも思った。
実際そう言おうとして口を開き、そして必死な焦げ茶色の瞳をまともに見てしまった。
「………………卵とお鍋、用意しなさい」
「成瀬君、いらっしゃい。一昨日は真白ちゃんがお世話になったわね」
アイスブルーのシャツにジーンズを穿き、バスケットを持った荒太は、真白の祖母・塔子の言葉に爽やかな笑顔で返した。
「いえ、こちらこそ、浴衣姿の真白さんと一緒出来てラッキーでした」
「まあ、正直だこと。真白ちゃーん、成瀬君が見えてるわよー」
塔子のかけ声に、はーいと言う返事が階段上から大きくなりながら降りてくる。
「荒太君、いらっしゃい、ちょっと待っててねっ」
「あらあらこの子は、忙しない」
真白はそのままキッチンに駆け込むと、トートバッグを持って玄関に立った。
「待たせてごめんね」
「ううん。じゃあ、行こうか」
荒太の差し出した手に、躊躇わず自分の手を重ねる孫娘の姿を見て、塔子は感激してしまった。
真白にも、剣護以外の男性の手を取るようになる日が来たのだ。
青空の下、真白の白いワンピースを見た荒太は、目を細めた。
(あ、合格だ)
荒太の表情を見て、真白はそう思った。自分が着ている服を特に良いと思ってくれた時、荒太は目を細めるのだ。
「そのワンピース、海に着て来たのだね」
「そう。同じものだから、どうかな、って思ったんだけど」
「似合うよ。………真白さんは、やっぱり白が一番だね」
真白は照れ臭くて髪を耳にかける。その左手の小指に光る指輪に、荒太は微笑む。
「青紫も、似合うよね。…竜胆の花は、今でも好き?」
「――――気付いてた?」
「もちろん」
竜胆の花は若雪だった時から真白の好む花だった。濃い青紫が、美しいと思う。
真白が着た浴衣の竜胆の柄を見た時、荒太はすぐに気付いた。
真白の右手にあるトートバッグに手を伸ばす。
「貸して」
「良いよ」
「良いから貸して。これに、紅茶と、…茹で卵が入ってるんでしょう?」
荒太がにや、と笑う。
(茹で卵になってればだけど)
胸中でそう思っていた。
デートに行くことが決まった際、流れとして当然、どこに行くのかという話になった。騒がしいところや賑やかなところが真白はあまり得意でなく、その上身体が弱いので無理もさせられない。恐る恐る真白が提案した近所の森林公園で、意外にも荒太は賛同した。真白がお昼ご飯を作って持って行くと言うと、荒太が自分が作ると言い張った。しかもその口調はかなり頑強だった。真白は紅茶を淹れて来てくれたらそれで良い、という荒太の言い分に、真白は何となくふてくされた。自分だって茹で卵くらい作れる、とつい見栄を張ってしまい、面白がった荒太がからかい半分にじゃあ作って来てよ、と言った次第である。
森林公園とは言っても、本当に森林になるのはだいぶ歩いてからのことで、五分や十分歩いたくらいでは拝めるのは桜や欅くらいである。普通の公園と余り変わりは無かった。ただ、秋になれば紅葉するであろうメタセコイアの柔らかそうな葉が、今は下に垂れている様子を見ることは出来る。日本では植樹されなければ見られない光景だ。
「…こんなところで良かった?」
不安そうな真白に、荒太が笑顔を向ける。
「うん。あのベンチに座ろうか」
真白が座る前に、荒太がベンチをササッとハンカチで拭く。
「荒太君、イギリス紳士みたい…」
「でしょ」
「うん。剣護なら考えられない―――――――」
そこで真白は口を慌てて覆った。
そろっ、と荒太の顔を窺う。半目になって、そっぽを向いている。
「こ、荒太君…」
〝二人で一緒にいる時に、他の男の名前なんて聞きたくないんだよ〟
一昨日、そう言われたばかりなのに、うっかり剣護の名前を口にしてしまった。
またあんな風に怒らせたのだろうかと思うと、真白は暗澹たる思いだった。
「悪いことしたなーって、思ってる?真白さん」
「思ってます。ごめんなさい」
「…あの時って、どういう風に仲直りしたんだっけ」
「どういうって―――――」
月の皓々と照る下で、キスを交わした。
真白の顔がどんどん赤面する。
「ここで、その、そういう訳じゃ、ないよね?」
荒太がちらりと真白の顔を見て、再びそっぽを向く。
考えてみればこのベンチは木陰になっていることもあり、人目につきにくい。
まさかそこまで考えて、荒太がこのベンチを選んだとは思わないが――――――――。
真白が顔を両手で覆って肩を震わせたのを見て、荒太はギョッとした。
「ま、真白さん。ごめん、ちょっと意地悪し過ぎた。てか、俺は結構、本気だったんだけど、泣く程嫌だなんて――――――――」
言い募る荒太だったが、両手を顔から離してこちらを見た真白の瞳が濡れていないのを見て唖然とする。
「…嘘泣き………?」
「…うん。荒太君が、ちょっと意地悪過ぎるって思ったから」
がくっと肩の力を落とした荒太の頬に、軽い、掠めるような感触があった。
驚いて隣を見ると、さっきまでと変わらない場所に赤い顔をした真白が座っている。
「ごめんね。今は、これで一杯一杯」
そう言ってギュッと目を閉じた真白を、荒太は彼女が驚くのも構わず抱き締めた。
荒太の作って来たサンドウィッチは美味だった。
真白の紅茶も、茹で卵も上等の出来だった。
「でもさ、真白さん」
茹で卵を頬張りながら荒太が言った。
「ずる、したでしょ」
「え?」
横目で真白を軽く睨む。
「剣護先輩に教わったでしょ、茹で卵の作り方」
「―――――うん。教わるのもダメ?」
上目遣いの真白を、内心可愛いと思いながら、わざと素っ気無く言う。
「ダメ。これは、ペナルティとしてまたデートしてもらわないと」
「……………」
黙り込んだ真白を、嫌なのだろうかと不安になった荒太が覗き込む。
真白は色白の頬を紅潮させて、唇には笑みを浮かべていた。
荒太は黙ってゆで卵を頬張り終わると、紅茶を水筒から紙コップに注いで飲んだ。
何か持っていないと、再び抱擁を求めて真白に手が伸びてしまいそうだった。