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接触 三 後半部

「門倉、何やってんだ?」

 同じクラスの畑中冬人がそう訊いて来た時、剣護は丁度、物理の授業内容をノートにまとめているところだった。ノートから顔を上げずに答える。

「相川用のノート、作ってる」

「ああ……。面倒見が良いな、お前も」

 そう言って呆れと感心が半々のような表情を浮かべる畑中は、見事に陶聖学園中等部の制服が似合っていない。だが、ふっくらした体型に細いリボンを結んだ姿は北欧の人形のようで、どこか愛嬌があった。

「あいつ理系志望らしいからさ、特に物理なんかは解りやすく書いといてやんないとな」

 ノートに書き込む手を休めることなく剣護が言う。

 その後しばらく畑中は、黙々とシャーペンを動かす剣護を見ていたが、ポツリと言った。

「相川さんも割と美形なのに、色々と恵まれてないよな」

 相川鏡子の事情を、生徒でも知る人間は知っている。畑中の声には同情の響きがあった。

 とりわけ学校という箱庭においては、弱い立場にいる人間を見た場合、手を差し伸べようとする人間と、自分の領分を守るのに留まる人間のおよそ二種類に分かれる。そして前者は極めて少数であるのが普通だ。

 相川鏡子の件に関する限り、剣護は前者で畑中は後者に分類されるが、剣護は畑中を軽蔑はしない。誰もが、自分の手が届く範囲の物事に取り組めばそれで良いと思っているからだ。苦し紛れに絞り出した正義感で無理をすれば、いずれ反動が来る。それは心に不要な傷を生むだけだ。

 ノートに書き込む手をふと止め、剣護は畑中を見上げる。

 額の広い、丸みを帯びた輪郭は温厚そうな印象を与える。事実、畑中はその印象を裏切らない男子だった。その目には若干の後ろめたさが浮かんでいる。お前が背負う必要は無いんだよ、と剣護は心の中で言ってやる。

「…何だ?」

「いや、お前は意外と良い男だと思って。そのミサンガ、早く切れると良いな」

 畑中のふっくらした左手首周りの、賑やかな色合いをシャーペンの頭で指し示す。

「今更それに気付くか~?……まあそれは良いとしてさ。お前と相川さん、噂になってんぞ」

「あー。なるかもな」

 大方、予想はついていた。しかし剣護にとって噂話とは、「だからどうした」という程度のもので、肝心なのは真実だと考えている。周りが何を言い立てようが、自分にとっての揺るがない真実さえ知っていればそれで良い。彼のその考え方は頑健(がんけん)な精神に拠るものが大きいが、誰もが同じように泰然と構えていられる訳ではないこともまた現実だった。

 剣護ののんびりした反応に、()れたように畑中が続ける。

「相川さんが、本命のいるお前を(そそのか)したって過激な噂もあるんだぞ。一部の女子の、やっかみだろうけど」

 ここに至って剣護も険しい顔をした。

「本命?」

「真白ちゃんだよ」

「――――ああ」

「あんまり、誤解を招かない程度にやれよ、お節介もさ。相川さんも真白ちゃんも、泣かせちゃ本末転倒だろ」

 剣護が目を遣った窓の外、水色の空を背景にして、色づいた桜の紅葉が一枚風に舞った。


 祖母たちから相談を受けたのはそのころだった。

 真白の様子が、どうにも最近おかしいのだと言う。学校から帰宅して隣家に呼ばれ、その話を聴いた剣護は、すぐさま真白の部屋に向かった。

「しろ。…開けて良いか?」

 剣護の問いに、戸を間に挟んで真白が答えた。

「駄目。入らないで、剣護」

 小さく、沈んだ声の拒絶にドキリとする。

「何で」

「……何ででも。とにかく、駄目」

 天の岩戸だな、と思う。嘆きにくれて真白が部屋に籠ると言うのなら、剣護はどうあってもその戸を開け、彼女と顔を合わせなければならない。

「頼むよ。真白」

 懇願の響きに、数分経ってから真白が戸を開けた。彼女はまだ剣護と同じ、制服姿だった。

 部屋に入ったものの、辛そうな顔の真白に剣護はかける言葉を探していた。白い頬には細い髪の毛が数本張り付いている。それを払ってやりたいという思いと、手を伸ばして身を引かれたらどうしよう、という、らしくない恐れが交錯(こうさく)し、結局、剣護の手は動かなかった。制服のままで、ベッドに伏せていたのだろうか。こんな顔をした妹など、見たことがない。何が彼女を苦しませているのか、どうあってもそれを突き止め、その悩みを解消してやらなくてはならないと剣護は思った。

「……どうしたんだ、しろ?ばあちゃんたちが、心配してるぞ」

「―――――剣護も?」

「当たり前だ」

 憤然(ふんぜん)として答えた。むしろ世界中で一番、心配しているくらいなんだぞ、と思っている。

 いつでもどんな時でも、緑の目は真白を丸ごと受け止めようとする。

 それは真白にも解っている筈だった。

 余りに迷いの無い、いつも通りの剣護の眼差しに、かえって真白の目が落ち着きなく彷徨(さまよ)う。

「…剣護、相川さんと付き合ってるの?」

「え?」

 予想していなかったところからの言葉を受け、驚く剣護に真白が続ける。

「そういう噂があるって、市枝が言ってた」

 今年から陶聖学園中等部に入学した真白は、三原市枝(みはらいちえ)と言う気の合う友人を見つけた。噂話に疎い真白に対して、市枝は自分の知る情報を共有することで親交を深めようとしているようだった。中等部の制服のリボンも女子生徒の間では受けが良く、真白の場合も可憐な外見が引き立ち、良く似合っていた。

「付き合ってないよ」

 はっきりと事実を口にする。

「……でも、相川さんのこと、大事なんでしょう?」

 当時の真白には、まだ若雪としての自覚も記憶も無い。当然、嵐の記憶も無い中、最も身近な異性である剣護が自分から遠く離れて行くようで、その要因となったらしい鏡子に心穏やかならないものを感じているのだ。

〝泣かせちゃ本末転倒だろ〟

 畑中の言葉が蘇る。成る程、噂話も莫迦にならない。

 市枝が真白に伝えたのは悪意ある噂ではなかったが、真白は落ち込んでいる。

〝大事なんでしょう?〟

 大事とは何だ。剣護にとって、弟妹(ていまい)よりも大事な存在などない。

 特に妹は女の子であるぶん、自分が守ってやらなくてはならないと思っている。

 それが今生において、剣護が自分自身と交わした約束だった。

「相川のことは、何とかしてやりたいと思ってる。けど真白のほうが大事だよ」

 語った言葉は全て事実だったが、真白は混乱した顔を見せた。

「で、でも、相川さんに優しくしたら、誤解されるに決まってるよ。きっと相川さん、剣護が自分のこと好きだって思ってる。剣護のこと好きになってる。責任取らないと駄目だよ、剣護――――――…」

 本人も自分の言っている言葉を、良く理解出来ていないように見える。

 真白の言うように、そこに責任を取るという問題が実際に発生するかは別として、と剣護は考える。

「責任、取って良いの?」

 焦げ茶の瞳を、緑の瞳が覗き込む。

「え?」

 透き通った焦げ茶色が瞬く。

「真白は俺が相川と付き合って良いの?」

「―――――嫌とか良いとか言えない。私が決めることじゃないもの」

 理屈は通っているが、真白が自分の意見を言わずに誤魔化したことを剣護は追及しなかった。

 言えないのだろうと思い、逃がしてやった。

 泣きそうな顔になった真白の頭を、ポンポンと叩く。

「先走るなよ。俺はさ、真白。多分、根がものすごく身勝手な奴なんだ。自分が、こいつだって決めた奴以外には、俺のことやんないの。それで―――――多分、相川はそうじゃない」

 今度は真白が鏡子に同情したのが解った。剣護はついうっかり真白の単純さに噴き出しそうになり、そんな場面ではないと自分を(いまし)めた。やれやれと思う。

 この妹と来たら、感情の動きが手に取るように解りやすいのだ。これで学校では凛として近寄り難いタイプに見られているらしいから、人の目も当てにならない。尤も、真白が生まれた時から傍にいる剣護と他者ではまた違うものかも知れなかった。

「真白。今度さ、俺と一緒に、保健室に行かない?」

「相川さんに会うの?」

「うん。多分、俺よりお前のほうが、あいつに優しくしてやれるからな」

 年下であっても、真白であれば鏡子の良い友人になれる気がした。

 情に(もろ)い妹は、鏡子の辛い境遇に直に触れれば、すぐにほだされるのに違いないのだ。

 容易に想像出来るその状況を導こうと画策(かくさく)する自分を、まるで童話に出て来る魔女のようだと剣護は思った。


 けれどその約束は果たされなかった。

 相川鏡子は突然、前触れも無く陶聖学園を去った。

 両親が離婚し母方で育てられていた彼女だったが、その母が急死し、遠く離れた父親のもとで養育されることになったのだ。

 そして、甚大な霊力である吹雪が生じたのちに真白と荒太が(みそぎ)の時を終え、相川鏡子は魍魎に喰われた。

彼女は、今度は誰の記憶からも姿を消した。


 剣護は信じられない思いで鏡子を見ていた。今まで確かだと思っていた世界が急に表情を変え、根底からまるで見知らぬものへと変化したように感じられた。

 自分のものだと思っているこの手は、この足は、果たして本物だろうか。

 ――――――――本当に?

 彼は確かに思い出した。

 世界に忘れ去られ、たった独り、置き去りにされていた少女の記憶を。

 呼びかけられたあの秋の日。

 彼女はきっとギレンたちの目を盗み、必死で逃げて来たのだろう。

 たった一人、味方と思えた剣護のもとへ――――――。

〝俺、きっとあんたの捜してる相手じゃないと思う〟

 そう答えた時の鏡子の表情。

 チャンネルが切り替わる。悲嘆と絶望から、諦観へと。切り替わる。

 自分が、彼女を失意の底に突き落としたのだ。

 剣護の顔が恐怖に歪んだ。それは、一人の人間を自分が突き落とした事実に対する恐怖であり、自分という人間に失望し、見放す思いに陥ることへの恐怖だった。

 彼は一度、唾を飲むと、カラカラに乾いた口を動かした。

「相川…お前、」

 その先に口に出来る言葉を剣護は持たなかった。

 鏡子の目に期待する光が宿る。(かつ)えた光だった。

「思い出してくれたの?」

 それと引き換えであれば全て許すとでも言いたげな、優しく嬉しげな声。

「――――――――ああ」

 茫然として、剣護は答える。他人の口が動いているようだった。

「ああ。思い出した…」

 良かった、と言った鏡子の目から涙が一筋、流れた。

(泣く程嬉しいのかよ)

 たかだか自分が思い出したくらいで。

 ()瀬無(せな)さが込み上げる。

 やめてくれよ、と思う。こんな薄情な人間の為に泣くなんて勿体無い。

「じゃあ、門倉君」

微笑んで鏡子は両手を伸べた。

たおやかな鳥が、優美に羽根を広げるように。

けれどその鳥は最早、生の歌を(さえず)らない。

そうさせたのは。

「私を、殺して」

「お前…、それしか言えねえの…?」

 剣護の声は震えていた。

 苦悩に満ちた顔で、それでも剣護は(うめ)くように呼んだ。

「…………臥龍………。頼む」

 黄金色の豪奢な太刀が、主の求めに応じて現れる。

 忠実に。けれど、どこか悲壮(ひそう)な空気を帯びて。

 鏡子が目を細めた。正気の光が、幾何残(いくばくのこ)っているものか判らない目だった。

「それが、門倉君の刀?綺麗ねぇ。お日様みたい。…あなたらしい。そんな綺麗な、輝かしいものが、私の最期(さいご)(いろど)ってくれるなんて」

「莫迦野郎―――――そんなことで、喜んでんじゃねえよ」

 言う声は力無かった。

 臥龍を手に、剣護は両手を組んだ鏡子の正面に立った。

 彼女の身体はどこもかしこも、真白より尚細い。

 若雪に似た顔は青白いとさえ言える程で。


 剣護は臥龍を振り上げ、鏡子の右足首に嵌まる足枷と鎖の間を断ち切った。

 愕然とする鏡子の顔が、かすめるように目に映る。

 その瞬間、鏡子も赤い空間も消え、剣護は一人、陶聖学園の廊下に立っていた。


「剣護、どうしたのよ」

 祖母・塔子の困惑したような声が階下から聴こえたと思ったら、真白の部屋の戸が軽くノックされた。

「はい?」

 真白が返事をすると、戸が開き、制服姿の剣護が重い足取りで入って来た。

 いつもと様子が違う。常であれば彼の全身に(みなぎ)る覇気や躍動感が、今は感じられない。

 何か変だ。

「剣護?…今日、模試だったよね…?…どうしたの」

 模試で失敗したとか、そういうレベルの話ではない。

 この、兄の傷つきようは。

 思わず真白は剣護に手を伸ばす。手を、差し伸べなければならない気がした。

 虚ろな緑の瞳は、およそ真白の知る彼らしくない。

(この人が、こんな目をしちゃいけない)

 自分を信じられなくなった、悲しい目をしてはいけない。

 真白の胸にその時湧いたのは、(いきどお)りだった。

「しろ……」

 剣護が真白に(すが)るようにその手を取り、自分の口元に寄せると彼女の身を抱き締めた。

 もたれかかってくる剣護の体重を支えきれず、真白がよろめいて膝をつく。

 その時、頭の片隅に思った。暗いところにある事実が、ポカリと浮かび上がるように。

 自分がどれだけもたれてもびくともしない剣護だが、その逆は無いのだ。

 自分の力では、彼を支えきれない。

 支えきれない。

「――――剣護?」

「俺だった」

「何が?」

「俺が、あいつを突き落としたんだ」

 生々しく、血の噴き出るような苦しみが形になった。そんな声だった。

 聴く者さえ、悲痛の境地に連れて行く。

 痛い程に抱き締められている真白からは、剣護の顔が見えない。

 穏やかな緑の色が見えない。

「俺が――――――――」

 (こえ)えよ、しろ、と続いた震える声を聴いた時、真白は恐慌状態(きょうこうじょうたい)に陥った。

「一体、何があったの。剣護」

 何が、どうして、ここまで剣護を追い詰めた―――――――――。

 見たことの無い兄の姿に、真白は自ら取り乱しながらも懸命に問いかけた。



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