接触 二 後半部
それは、例えるなら白く小さな角砂糖を一つ一つ積み上げていくような、地道で根気の要る作業だった。
「透主」と崇められもする立場でありながら力の使い方に不慣れな彼女は、ギレンたちに気付かれないよう、最大限の注意を払いながら〝自らの空間〟というものを創造することに腐心した。門倉真白の映る鏡と部屋の空間を繋ぐことは出来たのだ。空間そのものの創造も、きっと出来る。
もう間もなく完成するその空間の色は、深い赤だ。
その赤い空間に剣護を招き、彼に命を絶たれた時、自らの悲願も叶う。赤い色はその舞台に相応しい色に思えた。
それで、全て終わる――――――――――――。
果たして叶えられるものかどうか判らない少ない可能性に、少女は全てを賭けていた。
〝春になったらさあ、桜が咲くだろ?夏にはさあ。え…と、向日葵?藤か?秋になると、名月に薄の穂が揺れて、冬には綺麗な白い雪が降る〟
白い雪が降る、のあたりで、彼の笑みは優しく深まった。
この世界も捨てたものではないだろう、と笑いかけてくれた彼も、今では自分を覚えていない。
(あなたのいる世界に、私も行きたかった…。あなたがいてくれたから、捨てたものではないと、そう思えたのに)
そっと細い手を宙に伸べ、そこに一片の雪が舞い降りるところを想像する。
汚れ無き純白。
次の瞬間、グッと手を握り締める。苛烈な程の力を籠め――――――。
違う。そうではない。雪ではない。自分が恋うたものは。
花でも月でも雪でもなく、自分を魅了し引き留めたのは、それを口にした彼の存在だった。
忘却された痛みは、今でも血が流れる程ではあるけれど。
(それでも良い)
それでも良いから―――――…。
「間違いない。大将からの情報は、確かだった」
真白の家に居並ぶ面々は、了承の頷きと共に、顔つきを引き締めた。
いよいよだと言う思いが各々にある。
また今回の一件で、測らずも碧の、巫としての資質を認めることにもなった。
「俺たちが一挙に押し寄せても、空間を渡って逃げられれば厄介だ。むしろ、一人一人、透主の側近格と思える妖を一気に別空間に呼び寄せて、滅しにかかると同時に、孤立した透主を討つ。それが良い。どう思う、太郎兄?」
透主側近格と目される妖は、この時点でギレン、アオハ、ホムラに絞られていた。これ以上の敵の主戦力は無いだろう、というのが真白たちの見解だ。それは、遭遇した魍魎の情報を花守側と照らし合わせての結論だった。その上での怜の発案に、剣護も賛同の意を示す。
「最善の策だろう。主力の数はこちらが勝るからな。先に透主が死ねば、この戦も終わる。他の妖を相手取る手間も、その時点で消える」
緑の瞳が怜悧に閃く。
それからは、誰がどの魍魎と相対するか、という話し合いに移った。
「スーツのおっさん…ギレンだっけ?とは、一磨さんが相性が良いようだから、お願い出来るかどうか打診してみよう」
夏祭りの夜、一磨は見事にギレンを撃退した。味方としては頼もしく、心強い限りだった。
「荒太、お前はその補佐につけ。ただ、佐藤が出張って来たらそっちの相手をしろ」
剣護の言葉に荒太が何か言いたそうったが、口を開くことは無かった。
「アオハとか言うおねーさんには、怜と市枝ちゃんで行けるか?」
指名された二人がそれぞれに頷く。
女の敵は女よね、とは市枝の言である。
「さてそれで、誰が透主とやり合うかなんだが。俺と…」
剣護の言葉に、皆の視線が真白に集まる。だがその視線は、真白を積極的に戦いに投じようというものではなく、むしろその逆だった。止めても真白は聴かないだろう、と諦める空気がそこにはある。また、戦闘能力の高さから鑑みても、真白が透主と対峙することは妥当ではあった。
〝透主とは戦うな〟
竜軌の言葉が蘇るが、真白は確固として頷いた。
「うん。私が行く」
それでも荒太の顔は不服そうだった。
「…透主に俺が当たる訳にはいかないんですか」
「勝てる見込みの高い人選をする。命が懸かってるんだ」
剣護の物言いは厳しく容赦なかった。采配を振るう人間は、そうでなくてはならない。
荒太が唇を噛み締める。怜は何も言わなかった。
荒太の顔を気にするように横目で見ながら、真白が続ける。
「光にもこのこと、伝えておくよ。花守の同時参戦も期待して良いと思う。そしたら随分有利になるよ。佐藤君に対しては水臣がいてくれたら心強いし、アオハにも、出来れば同じ水の属性の水臣と、反する属性の明臣がつくほうが、勝率は上がるんじゃないかな。あの人、アオハは…強いから。市枝、気を付けて。……次郎兄、市枝をお願い」
「大丈夫よ、真白」
「解った」
軽く応じた市枝に対し、確かな声音で怜は妹の頼みを請け負った。
「七忍はどうします?」
荒太の問いに、剣護が考える顔を見せた。
「下手に動かれても困る。お前に任せると言いたいとこだが…」
「戦わないことを前提に、待機しててもらおうよ、荒太君」
真白の目には彼らを案じる色が浮かんでいる。七忍の長としては多少、過保護だと思わないでもない。加えて、これを知れば恐らく七忍は不満を示すだろうと思うものの、荒太は顎を軽く引いて見せ、真白に了承の意を表した。竜軌でさえ重傷を負うような魍魎トップクラスに、七忍がまともに当たれば命を無駄に落としかねない。
「決行は、一磨さんも動ける来週の土曜日だ。サラリーマンの都合ってのも、不便なもんだよ」
剣護がおどけたような声で宣言した。
水曜日は丁度、剣護は全国模試を受ける日だった。
いつも思うが、「門倉剣護」と言う画数の多い名前のせいで、どうも自分は試験においてハンデを背負っている気がする。サムライマニアの父がつけた仰々しい名前自体に別段不満は無いのだが、こうした弊害は有り難くなかった。但し画数の多い名前が、自分の実力を著しく引っ張るとは剣護はさらさら考えていない。優秀な頭脳に神様が不利な要素をつけ加えたのだとすれば、仕方ないとも思っていた。
風見鶏の館においては、そろそろ真白の絵も出来上がるらしく、出迎えの必要が無くなる一抹の寂しさと共に、舞香が描いた訪問着姿の真白の絵を見るのが楽しみでもあった。
(あいつのことだから、きっとすげー可愛いぞ。お人形さんみたいに違いない)
兄馬鹿も極まって、そう考えている。
ステンドグラス制作のほうも順調なようで、経過を真白に尋ねたところ、明快な答えの代わりに嬉しそうな笑顔が返ってきた。それを見た剣護の中を、何だその花マルな笑顔は、畜生、荒太め、と忙しく思考が駆け巡った。
(なべて世はこともなし、か)
これで魍魎、加えて山田正邦との戦いに決着がつけば、平穏な日常が帰って来る。
真白が雪華を振るう必要も無くなるのだと、胸を撫で下ろすような思いだ。
(後顧の憂い無く、普通の女の子として、前を向いて生きるんだ)
そんな考え事をしながら廊下を歩いていた剣護は、か細い女子の声に振り返った。
「…門倉君」
「んあ?」
振り返った先には、どこまでも赤い空間が広がっていた。
(紅玉の林檎みてー)
自分が移行した空間を、剣護が一目見た感想はそれだった。真白は林檎が好きで、特に甘味の強い品種を好んだ。酸味の強い紅玉は、見た目と名前だけは綺麗で好きなのだそうだ。
〝紅玉って、ルビーのことだよね〟
真白が微笑みながら言うのを聴いた時、そうなのか、と感心する思いと、そんなことを知っているあたり、やはり女の子だなあと思ったのを覚えている。冬に真白が寝込んだ時には、甘味の強い品種を選び、良く林檎を剝いてやったものだ。
瞬時の回想を終え、目の前に立つ少女にゆっくり焦点を合わせる。
突然、ひどい頭痛が彼を襲う。ズキン、ズキン、と鈍く痛む。
「……何だ…」
少女は色が白かった。青白い、と言える程に。
そして肩を越す、黒い髪。手足から首までどこもかしこも細く、そして顔立ちは。――――――顔立ちはどこか若雪に似ていた。
奇妙なことに、赤いワンピースの下から見える細い足首には、赤い足枷が嵌められているが、その鎖の続く先は、空気に溶け入るようにして消えている。
「門倉君」
細い声で呼ばれて再度、頭が激しく痛む。
「く……っ」
〝物好きだね、門倉君〟
そうだ、彼女はあの時そう言った。
いや、自分はこんな少女など知らない。
二つの相反する思いが、剣護の中で激しくせめぎ合った。
剣護の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
それは去年の秋、まだ中等部だった真白を迎えに出向くころ、校庭内に現れた赤い服の少女がいた。青を主とした陶聖学園のブレザーの群れの中、紛れ込んだ赤い色はひどく目立った。多くの生徒の目が少女に注がれていた。薄いブラウスが、冷たい秋風に寒そうだと思ったのを覚えている。彼女は全力疾走したあとのように肩で息をしながら、校舎から出て来た自分に呼びかけた。
〝門倉君〟
剣護は、目を瞬きさせた。自分の知り合いに、こんな少女はいない。他の誰かと勘違いしているのではないか。そう思ったが、少女は必死な目で剣護を見ている。まるで極限まで追い詰められてでもいるかのような眼差しが、剣護に軽はずみな言葉を控えさせた。
〝えー…と〟
相手に恥をかかせないよう、注意深く言葉と、声を選んだ。
〝ごめんな、俺、きっとあんたの捜してる相手じゃないと思う。名字は同じみたいだけど〟
剣護の言葉を聴いた時の、彼女の表情は今でも良く覚えている。
唯一縋るもの、と定めた対象から蹴り落とされたかのような絶望。
小さく開かれた唇はわななき、声なき悲鳴が聴こえるようだった。
激しい悲嘆と絶望を見せた彼女の顔は、やがてふ、と力が抜けた諦観の表情に変わった。
表情のチャンネルが切り替わるような、あの瞬間。
それから力無い足取りで、赤いブラウスの少女はゆっくりと立ち去ったのだ。
「あん時も、あんただったよな?俺は、あんたのことを知ってるのか?」
少女はしばし剣護の顔を見つめると、泣きそうな顔で頷いた。
「ならどうして、忘れてる――――――」
そう言ってから、その先の言葉を呑み込んだ。
〝俺たちだって、万が一ということもある。絶対に忘れていない、忘れない、忘れられないとは言い切れない〟
要にそう説明したのは、自分ではないか。
〝万が一ということもある〟
自分で言っておきながら――――――――。
「―――…あんたは、魍魎に喰われたのか?」
「…うん」
「どうして、生きている?」
「私は、普通の人とは違うから。魍魎は、私を食べ尽くすことが出来ず、逆に自滅した。そのことによって神つ力と禍つ力の双方を併せ持った私は、魍魎たちに力を注ぎ込むことが出来るようになった。力の源として、それだけの為に私は生かされる…彼らの奴隷」
静かに語る彼女の顔は、真っ直ぐに剣護だけを見ていた。
他のものは、目に入っていなかった。
「門倉君。ずっとあなたに呼びかけてた。届いたでしょう?私の願いが。さあ、ギレンたちに知られる前に、私を殺して―――――太郎清隆」
衝撃に、剣護は瞠目する。自分を殺せと、何度も呼びかけて来た声の主。それが彼女だと言うのであれば―――――――――。
「なら……、あんたが、透主か」
まるで壊れる寸前の人形のような、細い肢体のこの少女が。
悲しげな微笑を浮かべ、少女は頷いた。
〝小野太郎清隆。お前、女は斬れるか?〟
竜軌はもっと早い段階から、透主の実像を知っていたに違いない。そして彼女が剣護と関わりのある存在であるということも。
あの時自分は何と答えた?
〝敵と判断すれば、斬るしかない〟
竜軌はその答えを嗤った。
今になって見れば、その理由が良く解る。全てを知る竜軌には、さぞや甘い答えに感じられただろう。現に今自分は、透主の願いを叶えてやることも出来ず、立ち尽くしているばかりではないか。
〝お前も、太郎清隆も、恐らくは透主に刃を向けることは出来まい。荒太でも難しかろう〟
図書室で、竜軌は真白にそう語ったと聞いた。
だから、自分が透主を殺すのだと。
何もかも、竜軌は見通していたのだ。巫の力をもってして。
けれど、そんな考えの中でふと思う。
(どうして、真白や荒太も戦えないと言うんだ?)
情の深い自分の妹が、この哀れな敵の首魁に刃を向けられるかは、確かに疑問だ。しかし竜軌の言い様には、それ以上の理由があるように思われてならない。また荒太は、戦闘においては相当にシビアな感覚を持っている。真白が情に揺らぐ場面でも、彼の刃が鈍るとはとても思えない。
なぜ透主に、若雪の面影があるのかも気にかかる。
単なる偶然で片付けるには、その他の疑問も含めて引っかかりがあり過ぎる。
そう。先程、彼女は「神つ力」と「禍つ力」を併せ持った存在であると自らを称した。
魍魎に喰われる以前から、彼女には、他者とは決定的に異なる要素があったのだ。
それが何であるのか、今の剣護には解らなかった。