接触 二 前半部
二
真白たちの住まう地域の人間が、良く足を運ぶデパートが立ち並ぶ土地のすぐ近くに、まるで光と影が並存するような形で歓楽街があった。
その内の一軒である、まだ暖簾も掛かっていない居酒屋の戸を、剣護は開けた。
「開店前だぜ、お客さん」
すぐに野太い声がかかる。
古びた木製のカウンターの向こうから、黒い前掛けを着けた恰幅の良い男が姿を見せた。元は相撲取りだったと言うまことしやかな噂もある彼の、確かな前歴を知る人間はいない。カウンター上部に設置されたガラスケースの中には、今夜の客が舌鼓を打つことになるであろう、新鮮そうな魚介類が並んでいる。焼酎や日本酒の瓶の何本かを挟んだ更に横には生の焼き鳥類が列を成して、同じくケース内に納まっている。レジ横には、取ってつけたような招き猫がうっすらと埃を被って置かれていた。
「わーかってるよ、大将」
剣護は気楽に応じる。
「お姫さんは、御無事かい」
この言葉に、苦笑いを浮かべる。
「耳が早いな」
居酒屋の店主は、二重顎の上にある、奥まった小さくて細い目を、更に細めた。表情を読み取りにくい目は、情報屋を営むにはうってつけだろう。
「そりゃ、裏の稼業だからな。烏共が最近、やたら騒ぎやがる。美味い餌を食いたいとさ」
「……何か情報が?」
「さあてなあ。あるような、無いような」
暗にお前次第だ、と言われている。取引に応じられる金銭を、剣護は持たない。すなわちこの場合、無償の労働奉仕を求められているとは経験からすぐに察しがついた。
「夏休みの間、三日間だけなら俄か店員やるよ。それ以上は無理だ。何せ、受験生なもんでね」
店主が片眉をヒョイと上げる。
「五日」
「無理だ」
「四日」
「むーりーだってば。国公立志望なのよ、俺?埋め合わせは別でするって」
剣護の言葉に、店主が溜め息を吐いた。
「しょうがねえな。三日間の働きで教えてやれる程に、安い情報じゃないんだがな。…まあ、お前がいると女性客が湧くからな。せいぜい働いてもらうか。埋め合わせの言葉、忘れんなよ。――――――今から教えてやるのは、恐らくあの嵐下七忍でさえ掴んでないネタだ」
そう言いながらも、店主はメモ用紙にサラサラと何かを書きつけて、剣護に手渡す。書かれた文字に目を走らせた剣護は、緑の視線を問いかけと同時に投げる。
「これは?」
「うちの烏の一羽が見つけた、…」
声をひそめてそこまで言って、店主は視線を右に左に走らせ、他に聴く者の有無を確認する。慎重を期したその様子に、剣護も何事かと一層、表情を引き締めた。
「―――――透主の居場所だ」
手に入れた貴重なメモを、ダークグリーンの革のブックカバーで覆った文庫本の中に挟み込むと、剣護は店主に礼を言って店を出た。尤もメモの内容は、既にほぼ頭の中に入っている。
制服姿であまり長居出来る場所でもないので、さっさと歓楽街を抜け、駅に向かう。
その途中で、ふと足が止まる。メモ用紙に書かれた住所は、ここからそう離れてはいなかった。
限りなく貴重なこの情報は、仲間たちにもまず知らせるべきだ。既に一度、スタンドプレーを行った剣護は、真白から情報開示と、単独で危険行動に出ないことを約束させられている。それを破った場合の真白の怒りは怖いものがあるが、泣かれでもしたらと思うとそちらのほうが剣護には痛い。真白が泣いたら自分に劣らずシスコンの怜が見せるであろう、冷ややかな怒りを被るのも遠慮したかった。
(…マンションの場所だけでも確認しておくか)
今日はそれだけに留めるのだ、と自分に言い聞かせて、剣護は電車の駅とは逆の方向に足を向けた。
それはおよそ三十階程の建物に見えた。色はグレーで、それなりの額を投じなければ住めないだろうと予測される、いかにも高級で上品な、けれどどこか無機質なマンションだった。
遠目から眺めるぶんには、剣護の感覚に訴えるものは何もない。これが怜や真白であれば、もっと他に感知するものがあるかもしれないと思えた。
少女は、信じられない思いで顔を上げた。
陽光のように力強く、温かな気配。間違いない。
今、自分のいるこの場所のすぐ近くに、門倉剣護が立っている。あれ程ギレンたちが入念に、ひた隠しにしていたというのに、どうやってここを突き止めたのだろう。
(来て、早く――――門倉君。太郎清隆)
救出されようなどとは思わない。ただその手で、自分の生を終わりにして欲しかった。
自分の中に、正気の欠片が辛うじて残っている内に。
少女は必死で天蓋つきのベッドから降りると、赤い鎖が許す限りの長さで、窓へと近付いた。
彼女に、今の名前とは異なる、もう一つの名前を教えたのは、他ならない剣護自身だった。
〝俺、もう一つ名前があってさ。小野太郎清隆って言うの〟
朗らかな声でそう告げた剣護に、少女は大切な秘密を明かされたような気がして、嬉しかった。
剣護は、しばらくそのマンションを見つめると、踵を返した。
遠ざかる彼の気配に、少女は泣きたいような思いだった。
「行かないで……」
涙声で弱々しく言った彼女の懇願は、剣護の耳には届かなかった。
その日の内に、剣護は真白、怜、市枝、荒太を招集した。本来であれば一磨も呼びたいところだったが、仕事中ではそうもいかなかった。
真白の部屋に集った面々は、透主の居所が知れた、という情報にまずは驚愕を示し、それからそれぞれ考える顔を見せた。ひぐらしの声が響く中、真白の体調を慮り少しだけ冷房を効かせた室内で、淡い紫のクッションを腕に抱いた真白が口を開く。
「…その場所に透主がいるのは確かなことなの?」
「確かだろうよ。情報屋ってのはな、信用がそのまま命綱なんだ。一度でも偽の情報を流せば、二度と情報屋の看板を掲げることは出来ない」
真白の勉強机の椅子に、背もたれを前に座った剣護の返答に、怜が荒太を見る。彼は小テーブルに市枝と斜向かいに座っている。
「けど、やっぱり念は入れておきたいところだな。成瀬は見鬼だろう。そのへんの見極めはつかないのか?」
常人には見えない鬼や霊を視る資質を持つ者を、「見鬼」と呼ぶ。嵐も荒太も見鬼だった。そもそも嵐が陰陽術を修めようと考えたのも、その資質に拠るところが大きい。
ベッドに座る真白の足元に胡坐をかいた荒太が、考え考え、言葉を発する。
「近くに行かんことには、何とも言えへんな。ただ、今は敵情視察をする余裕も無いやろ。あちらが、俺たちが居所を突き止めたと少しでも察したら、早急に、根城を変えるに決まっとる。チャンスは一回。そう考えたがええ」
そしてその一回の急襲で、恐らく透主をひた隠しにしようとする、アオハやギレンといった、魍魎の中でも特に格上の相手との総力戦になることも考えられる。春樹がその時点でどういう動きを見せるかはまだ予測がつかないが、甘い考えは避けるべきだった。
「そう言えば」
真白が思い出したように言った。
「碧君、三郎が、佐藤君のことが炎に見えた、ってお祭りのあと会った時に言ってた。実際彼はホムラと言う、火を操る妖だった訳でしょう。…三郎も、見鬼なのかな」
祭りの日、真白が怜との帰り道に、時空のひずみに転がり落ちた一件は既に話してある。
荒太が、驚きの表情を浮かべる。
「……もしそれがほんまなら、見鬼以上のレベルやで」
市枝が荒太に目を向ける。
「それってすごいことなの?成瀬」
「うん。俺には、佐藤が普通の人間にしか見えてへんかったんやから。見鬼でさえ見えへんもんを見るんやったら、むしろ巫の系統に近いかもしれん。聴こえざる声を聴く信長公に対して、碧君は本来は見えざるもんを見る」
剣護が思慮する色を目に浮かべつつ、少し渋い顔をする。
「――――――碧を連れて行くのは気が進まないけど、遠くからマンションの外側だけでも見せてみるか。俺と怜で、行ってみよう。どれ程の収穫があるか解らんが」
剣護のこの提案を、一磨は怜の代わりに自分が同行することで受け容れた。
その週の日曜日、一磨と剣護、そして碧の三人は、遠くから件のマンションを観察していた。高層マンションなので、多少離れたところからでもその姿が悠々見て取れる。近くのデパートに来た体を装う為、三人共、街着の格好をしていた。
「どうだ、碧。何か解ることがあれば言ってごらん」
一磨の言葉に、碧はくりくりした目を期待に輝かせる。この目に、本当に徒人には見えないものが見えているのだろうか、と剣護は半信半疑の思いで幼い末弟を見る。
「これが終わったら、デパートでお子様ランチ?」
「うん」
「チョコレートパフェも?」
「ああ、良いよ」
幼い子供の要望に、剣護も一磨も笑みを浮かべてしまう。報酬の為に張り切る碧が何らかの戦果を上げることを二人共に期待するが、これが空振りに終わったとしても、碧は報酬をお腹に収めることになるだろう。
碧は無垢な目で、マンションをじっと見ていた。剣護も対象物を凝視するが、グレーのマンションの外観しか目に映る物は無い。
「あのねえ、あのへんにね、赤いのと、青いのと、灰色の光が見えるよ。赤い光はね、何だかついたり消えたりしてる」
小さく細い人差し指の指先が向かうのは、マンションの二十階あたりだ。
剣護と一磨は、顔を見合わせた。
やはり視えるのか、という驚きと共に、ほぼ確定した、と二人揃って頷く。青は、真白が言っていたアオハ、灰色はチャコールグレイの男、そして点滅する赤い光が恐らく―――――。
(透主だな。しかし―――――)
点滅しているとはどういうことか。
剣護は胸の内で首を捻る。
(…まあ良い)
これでようやく、敵の中枢に手が届く。
戦いに、終止符が打たれるのだ。
「ここいらの土地は一等地で地価は高い。随分と良いところに住んでるね。どういうだまくらかしで入居したのか、知りたいものだな」
一磨が笑いを含んだ声で評する。そのスラックスを、碧が小さな手で引っ張った。
「ねー、パパ。お子様ランチは?」
「ああ、食べに行こうか。剣護君も一緒においで。昼ご飯を食べよう。丁度、時分時だ」
日中はまだかなり暑いものの、ビルが林立する中で昼間に吹く風は僅かな涼しさを孕み、もうすぐ訪れる秋の気配が微かに感じられた。
十二時過ぎという、最も飲食店が混み合う時間帯であることもあり、剣護たちはレストランでかなり待たされた。
ようやく席に着いて水を一口飲んだあと、剣護は一磨に気にかかっていたことを尋ねてみた。
「一磨さんって、どうして美里さんと結婚されたんですか」
目をぱちくりとさせて一磨が答える。
「それはだね、剣護君。僕と美里が大学のサークルで知り合い…、」
「あ、いえ、そういうことじゃなくて」
訊き方を間違えた、と剣護が手を振る。
うん?と一磨が疑問符を浮かべる。
その間にお子様ランチが運ばれて来て、碧が喜色満面になる。
「…前の奥さんだから、結婚したんですか?」
「――――ああ。いや、美里が八重花と同じ人間だという確証は、実は僕にも無いんだ。例の〝糸〟が、美里に限っては良く視えない。ただ、僕は今生で美里を選んだ。だからきっと、彼女は八重花なんだろうと、そう思っているよ」
これはある種ののろけだな、と剣護は思いながら水を飲む。太郎清隆は伴侶を得る前に人生を終えた。縁談の話も幾つかあったが、そのどれも実現しない内に亡くなったのだ。剣護には、一磨への羨望の思いがあった。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、穏やかな笑みに満ちた瞳で、一磨は語った。
「剣護君。君のような男が、果たしてどんな女性を選ぶのか、僕は今から大いに興味があるよ。君はきっと、選び、望んだ相手に同じように望まれるだろう。君に選ばれた女性は、幸せ者だな」
剣護は口元に仄かな笑みを浮かべた。何を思うか相手に読ませない表情だった。緑の瞳が少しだけ細められる。
「…そうですかね」