流離 四 前半部
猫です。
四
月に叢雲のかかる晩は、ろくなことが起きない気がする。把握されて然るべき月の形状が解らない事実は、ギレンを少なからず不快にさせる。
尤もそれは、あくまでギレンにとっての主観だった。
しかし今夜に限っては、その主観が正しかったようだ。
「ち……っ」
ギレンの右肩は、スーツごと深く斬り下げられていた。
いかにも上質そうなチャコールグレーの生地が、真紅に染まっている。
一磨の水山によって負わされた傷だ。夥しい血が溢れ出し、床を汚している。この居所に対して少しの愛着もないが、派手な血の染みが残るのはのちのち目障りだ。
「痛い?ギレン」
訊くまでもないことを、アオハが、あくまで無邪気に尋ねる。
彼らは高層マンションの一角を拠点としていた。
片方の口角を釣り上げて、アオハに凄みのある笑みを見せる。
「まあな。―――――坂江崎一磨。小笠原元枝か。全く、とんだ伏兵がいたものだ」
初手だから仕損じた訳ではない。純粋に一磨の戦闘能力が秀でていたのだ。そして何より、人間と変わらない見た目のギレンに怯むことのない精神力は賞賛に値する。
それでも真白のほうが敵対するに格上だと言うのだから、厄介な話だった。
澄んだ薄茶の瞳で、アオハが事も無げに言う。
「透主に、治してもらえば良い」
「そうだな…。透主様におかれては、さぞかし気乗りしないことだろうが」
アオハに答えて、鍵のかかった一室のドアを見つめる。
「まだ、時々呼んでるよ」
「何をだ?」
「太郎清隆の名前」
ギレンの口元が歪んだ笑みを浮かべる。
「ふ……ん」
「可哀そうだね」
評するアオハの声は、淡々と押し寄せる波のようだった。
「しろー、コーヒー淹れてくれー」
剣護は勉強の息抜きとばかりに、チャイムも押さず隣家の戸を合鍵で開けると、真白に要求の声を上げながら、廊下からリビングへ入ろうとした。そして、立ち止まる。
丁度、剣護の進もうとする先に、猫がいるのだ。この家で猫を飼っているという話は聞いたことがない。
しかも、その猫は二本足で器用に立っている。
「あ、どうも。お邪魔してます」
更に驚くべきことに、ペコリとお辞儀しながらそんな台詞まで言ってのけた。声はだみ声で解り辛いが、壮年の男性のもののように聴こえた。
「いえ、こちらこそ」
反射的にお辞儀を返し、そう返事してから、剣護の混乱は頂点に達した。
自覚は無かったのだが、自分は受験ノイローゼだったのかもしれない。受験勉強に追われる強迫観念の余波が、このような幻覚となって現れたのだ。
「俺はもう駄目だ…」
その場にへたり込んだ剣護を、猫の金色の目が興味深げに見ている。
「どうしたの、剣護?コーヒー、淹れるよ。入って」
声だけを響かせてリビングに姿を見せない従兄弟を、真白が廊下まで迎えに出て来た。
「真白…。お兄ちゃんの頭は壊れてしまいました。優秀過ぎる頭脳ってのは繊細なんだな、やっぱり。そこにさ、二本足で立つ上に、言葉を喋る猫の幻覚が見えるんだ……」
剣護の嘆きに、猫と真白が顔を見合わせる。
「あのね、剣護。初対面だから混乱したと思うんだけど、この猫は、嵐下七忍の山尾なの」
剣護が顔を上げる。
「…猫に化けてんのか?」
「ううん。山尾は、猫だよ。正確に言えば、猫の妖怪。魍魎とは全然違うんだけど」
真白の説明に、剣護は混乱を深めた。
「嵐下七忍には、猫もいたのか?」
「あ、ううん、そうじゃなくて。とにかく、リビングに入って。説明するから。コーヒーはホット?アイス?」
「アイスで…」
頼りない声で剣護が答えた。
山尾と呼ばれた猫は、リビングのソファの上に、剣護と隣合って大人しく座っていた。人が座るのと全く同じ要領で、ちょこんと腰かけている。尻尾は背中の後ろでゆらりゆらりと揺れている。瞳は金色で全身がグレーの短毛で覆われ、やや身体は大柄だが、やはりどこからどう見ても猫である。尻尾が二股に分かれている訳でもない。先程から、リビングに置かれた観葉植物のベンジャミンをちらちら見ている。爪を研ぎたいのだろうか、と思うが、ベンジャミンの細い幹はグルグルとねじれた形になっている為、その望みは果たせそうにない。リビングに射し込む明るい夏の光を浴びながら、グレーの猫と仲良く並んで座る剣護はまだ夢を見ているような気分だった。
「山尾はちょっと変わった人でね、前生での口癖が、〝来世があるのなら犬か猫になりたい〟だったの。そしたら、本当に猫に生まれ変わったんだって。妖怪だから、普通の猫とはだいぶ色々と違うんだけど、人畜無害だよ。樹とか石とかに精霊が宿る存在を妖怪って呼んだりするでしょう?そんな感じ。前生の記憶はあるから、時々お話しに来るの」
アイスコーヒーを剣護の目の前に置きながら、真白が説明する。「時々お話しに来るの」という言葉に、納得するところか否か、剣護は頭を悩ませる。メルヘンかつ非科学的な話に、彼は頭を柔軟にして必死でついていこうと努力した。
「でも大体、山尾と話してると…」
そこで、チャイムが激しく鳴り響いた。
剣護が戸を開けると、息を切らした荒太が立っている。
「剣護先輩、猫が来てるでしょう!?」
前置きも何も無く、噛みつくように剣護に迫った。
「…うん。来てる。やっぱりお前もお友達なの?」
「お邪魔します!」
荒太は剣護の問いには答えず、そう断ると急いでリビングに飛び込んだ。
「こんにちは、荒太様」
のんびりとしながらも丁寧で律儀な山尾の挨拶に、荒太が脱力する。その向かいに座る真白を見て、安堵の息を吐いた。
「あー、良かった。無事だった」
荒太を追って再びリビングに入った剣護は、首を傾げること頻りだった。
「なあ、荒太。俺に解るように説明してよ」
戸惑う緑色の瞳は心許無く、山尾が出現してからというもの、数え切れないくらいの瞬きが繰り返されている。
荒太が、そんな剣護にぐったりした目を向けた。
「―――こいつは山尾と言って嵐下七忍で」
「ああ、うん。そこは聞いた。何とか今、現実のこととして俺の中で消化中。俺が訊きたいのはさ、お前がどうしてそこまで焦って家に来たかってことなんだけど」
「…猫であるのを良いことに、真白さんの膝で丸くなったり、抱き上げられたりしたがるからですよ、こいつが!あまつさえ頬擦りとか有り得ないっ。中身、中年のおっさんですよ?阻止しようとして、当たり前でしょうが。―――――――羨まし過ぎるし」
荒太の最後の言葉は聴かなかったことにしてやるとして、ここまで言われれば剣護も納得した。妹の膝に乗って甘える、小太りの中年男性の像が頭に浮かび、それはいかん、と強く思う。真白が言った〝人畜無害〟という評価は甘い見解だと言わざるを得ない。
山尾の瞳が三日月のように細くなる。
そうするといかにも『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のようで、食わせ者、と言った感が出る。
「嫌ですねえ、荒太様ってば。若雪様との祝言の折には、高砂を舞って差し上げたりもしたのに」
荒太の横で、山尾が尻尾を軽く振りながら呑気に言う。
「それはそれ。これはこれ。兵庫が一々知らせて来るお蔭で、俺もこうして真白さんのディフェンスに駆け付けられる訳なんです」
真白の隣に陣取った剣護は、こいつも忙しいんだか暇人なんだか良く判らんなと思う。
「兵庫もまた、よくそんなんで社会人としてやっていけてるな」
「俺もそう思いますよ。まあ、あいつは器用な奴だから。俺と一緒になって株でもそこそこ儲けてますしね」
「株に手を出してんのか、お前は…。あんまりのめり込むなよ。―――――水恵さんは普段、何やってんの」
この際、気になっていた嵐下七忍の情報を訊いておこうと探りを入れる。荒太も最近では剣護らに打ち解けた為か、だいぶ口が軽くなっていた。
「ベビーシッターです。母親の留守中も母親に化けて子守が出来るんで、子供受けがすごく良いんですよ。結構、あちこちの家庭で引っ張りだこだとか」
「ああ、成る程なぁ…。そんで、祝言の時に高砂って…そいつ、踊れんの?」
向かいに座る猫を指差す。
山尾が得意げに胸を張った。半透明のひげもぴんと伸びたように見える。
「舞う、と言っていただきたいですね、兄上様。能は私の取り柄の一つでして。前生でも所望されるまま、若雪様たちにご披露しました。若雪様も、かなりの舞い手でいらっしゃいましたが」
山尾は能と言ったが、剣護の頭には猫が月夜にダンスする図が浮かんだ。