掌編 陽だまりに夢を見る
掌編 陽だまりに夢を見る
懐かしい風
腕の中に陽だまり
自分を取り巻く
世界の進行が
緩やかだったころ
「うわー!!しろ、それ食べるなあっ」
土曜日の昼下がり、門倉家リビングに響いた五歳の剣護の必死の叫びが、三歳の真白の手を止めた。少しだけ紅潮した色の白い頬が、口を開けようとする動きも止まる。
彼女は今まさに、テーブル下に転がっていたキラキラ光るカードを口にしようとしていたのだ。どこかのポイントカードのようなものが落ちていたらしい。三歳ごろの幼児は、何でもまず口に入れてみようとするから油断がならない。
「食べちゃ、め?」
小首を傾げてあどけなく訊いてくる。首の動きに合わせて、自分と同じ焦げ茶色の髪が揺れる。
「め!お腹壊すぞ」
剣護がひったくるまでもなく、真白はそのカードを案外あっさり手放すと、今度は剣護に抱きついて来た。小さな紅葉のような手が、ペタペタと剣護の頬を触る。
「剣護ー」
温かくて小さな身体を抱き留めながら、可愛いなあ、と剣護はしみじみ思う。グリグリと髪の毛を撫でつけてやると、真白はキャッキャッと笑った。
ここはもう今の内に約束を取り付けておこうと口を開く。
「真白、おっきくなったら俺のお嫁さんになる?」
「お嫁さん?」
「うん」
にこっ、と真白が笑う。
「うん、なるぅー」
「よーし、約束だぞー」
小さな小指に自分の小指を絡ませて軽く振る。
「うん、約束ー」
意味を定かに理解しない真白が、剣護の頬に擦り寄って笑い声を上げる。
更には頬に軽いキスを受け、剣護は驚きに緑の目を丸くする。
「約束のチュー。ピーターが言ってた」
剣護の父が真白に何か吹き込んだらしい。
少し考えた剣護は、真白の手の甲に軽く唇をつける。
「――――お返し」
真白が満面の笑顔でおかえしー、おかえしー、と繰り返す。はしゃいで振り回される手が、顔面を直撃しそうになる寸前で剣護は避ける。
「あなたたち、本当に仲が良いわねえ。真白ちゃん、剣護、オレンジジュース飲む?」
キッチンから出て来た祖母の塔子が、若々しい顔に笑みを浮かべながら訊いて来る。
今日は土曜日だが、真白の両親は揃って出勤している。
祖母二人は在宅しているが、兄を慕うように懐いている真白のお守りを、剣護は頼まれたのだ。愛らしい従兄妹のお守りをすることは、剣護にとっても楽しみだった。
「飲む!」
真白の元気な返事に塔子は笑み崩れる。
「ねー、ばあちゃん。俺さ、大人になったら真白を貰って良い?」
「あら。そうねえ。真白ちゃんがその時に良いって言ったらね」
「良いってさ。なー、真白?」
「いーよー」
真白がニコニコしながら答える。
剣護もその返事を聴いて喜色満面になる。可愛い従兄妹は、いずれは自分の可愛いお嫁さんになるのだ。
「ほら、ばあちゃん。良いって!」
「…剣護。意味の解ってない真白ちゃんに約束をさせるのは男として卑怯よ」
塔子はオレンジジュースの入ったコップを真白と剣護の前のテーブルに置きながら、孫を窘めた。
サッとジュースに伸ばした真白の手が当たり、危うく倒れそうになったガラスコップを剣護が支え、真白の両手に持たせてやる。
オレンジジュースを貰って御機嫌な真白が、更に言う。
「おばーちゃんのお嫁さんにもなるー」
これを聞いた剣護が、がっくりと脱力した。そんな剣護に、祖母の呆れた眼差しが向けられる。
「御覧なさい。全然、解ってないじゃないの、真白ちゃん」
「……しろぉ。誰か一人の男のお嫁さんにしかなれないんだぞ?」
「じゃあピーターのお嫁さんになるー」
親父がライバルかよ、と剣護は思った。呑気な気性の父親だが、あれで中々に異性受けが良いことを剣護は知っている。手強い敵の出現だぞ、と胸の内で唸る。自分の父親が既婚者だという事実を、うっかり忘れてしまっている。
「そう言えば剣護、星組の真理子ちゃんから告白されたって聴いたけど?」
塔子の言葉を受け、剣護はジュースをゴクリと飲み下す。
星組は剣護が通う幼稚園の上から二番目に年長の組で、真理子は最年長の月組にいる剣護より一歳年下だ。幼稚園敷地内にある木蓮の樹の下に剣護を呼び出した真理子は、モジモジしながら剣護のことが好きだと告げたのだ。どういう経路でその事実が祖母の耳に入ったのかは謎である。女性の情報網は恐ろしい、と以前父がこぼしていたことを思い出した。
「断ったよ。真理子は良い子だけど、俺にはしろがいるもん」
「何一人前なこと言ってるの、この子は」
二人の会話を他所に、自分のぶんのオレンジジュースを飲み終えた真白は、剣護の持つジュースのコップをじいっと見つめている。コップに穴が開きそうなその視線に気付いた剣護は、まだジュースの残っている自分のコップを、真白に渡してやった。
先日まで風邪で寝込んでいたせいもあってか、真白はジュースを飲み終えるとうつらうつらとし始めた。
「眠い?真白」
「んーんー」
細い首をブンブンと横に振る。
しかし真白の上下の瞼は今にもくっつきそうだ。
「あら真白ちゃん、おねむ?お白湯さん飲んで寝ましょうか」
まだ自力でうがいの出来ない真白の口の中を、虫歯防止の意味合いも兼ねてお昼寝前にさっぱりさせる為に、塔子が白湯の入った湯呑を持って来る。
真白は眠りに落ちそうになりながらも、一口ずつ白湯を口に含んでいった。子供ながらに真白は白湯を飲むのが好きだった。
飲み終えたところで、頭をテーブルにパタリと載せる。早々に夢の世界へ旅立とうとしているようだ。
「剣護、お部屋に連れて行ってあげてくれる?」
祖母の要請に応じて剣護は従兄妹の身体を抱え上げると、部屋のベッドまで連れて行った。
小さな身体を横たえたところで離れようとするが、真白がぐずって剣護の身体が遠のくのを嫌がる。
「行っちゃやだー剣護ー」
「しろ、良い子だから眠りなさい」
「やー」
しかしぐずる内に真白の動きは緩慢になり、焦げ茶の瞳が閉ざされる。
その様子を見ていて自分も眠くなってきた剣護は、真白の横にごろんと寝そべると目を閉じた。
すぐ近くに感じる、真白の体温。健やかな吐息。
「…剣護……」
寝言で紡がれる自分の名前。
ずっとこのままだと良いな、と思った。
陽だまりのようなこの子が、すぐ隣にいる日が続けば良いと。