流離 三 中
嶺守たちの家から、浜辺は近かった。白い砂の上を、真白は怜のもとまで裸足で歩いた。下駄や草履を履いて歩くには、まだ指の皮のめくれた箇所が痛んだ為だ。白砂に、兄のいるもとまで点々と小さな足跡を残して行く。
座り込んで波を見遣る怜の、背中合わせに真白は座った。子供のような仕草だ。
「どうしたの、真白。身体はもう良いの?」
笑いを含んだ声で訊く怜に、睡眠が足りていないことは真白にも解っていた。
「…私が、ちゃんと次郎兄の背中にいるから。支えてるから、眠って大丈夫だよ」
しかし上半身だけとは言え、体重を真白にかければ彼女が潰れるのではないかと怜は思った。真白の声が背中を通して響く。
「次郎兄の手、剣護と同じだね」
「手?」
真白に言われ、自分の右の掌を見る。
「鍛錬してるから、まめやたこがたくさん。ガサガサしてる」
真白はなぜか嬉しそうに言った。額に手を置いた時に感じたことだろう、と察せられた。
「ごめん。痛かった?」
「ううん。…安心した。兄様の手だなあって思って」
怜の口元に微笑が浮かぶ。あまり表情を露わにしない彼の、ほころぶような笑みだった。
「俺はそれを聴いて真白だなあと思うよ」
背中の温もりに語りかける。
「そうなの?」
「うん」
怜は少しだけ、真白の背に寄りかかって目を閉じた。
ほんの少しのつもりだったが、気付けば彼は浅い眠りに落ちていた。
真白はその気配を背中で感じて、緩い安堵の息を吐く。
(…次郎兄が眠ってる間は、私が次郎兄を守る)
いつも自分を守ってくれる兄を、自分もまた守る力があるという事実は、真白を心強くも喜ばせるものだった。怜が一人で無理をしがちな気質であると知るぶん、その負担を分かち合いたいと思った。
なぜだろうか、と真白は考える。
剣護も怜も、真白を守る為なら多少の無理を平気でするのに、その逆は決して認めようとはしないのだ。可能な限り、妹は穏やかな庇護の内にあって欲しいと望んでいる。
(女と男で、違うからかな)
それ以前に、過去において守れなかった負い目が未だ彼らの中にある為、という理由が大きい気がした。
こちらを見つめる視線を感じて目を遣ると、寄せる波に足が濡れるのでは、と危ぶむ位置に水臣が立っている。長い髪は潮風に吹かれ、何を思うか良く解らない面持ちだ。
「水臣…」
真白の声に許しを得たかのように、近付いて来る。立ち止まると、薄青い瞳で怜を見て言った。
「意外と他愛ないものですね。口では何を言おうと、まだ子供ということか」
次兄を莫迦にされて真白は気分を害した。
「次郎兄は、一晩中起きていてくれたの。水臣にそんなことを言われる筋合いはないよ」
冷たく冴えた目が、真白に向かう。
「ただ守り、共にいることだけで満足出来る輩の、気が知れません。自己犠牲に酔っているだけでしょうか」
その口振りに、真白は眉を顰める。以前から思っていたことだが、水臣は話す相手に対して遠慮や気遣いというものが欠片も無い。相手が不快になる言葉を口にするのにも、躊躇いが無いのだ。元来そうした点に無頓着であるように思われた。人の神経を逆撫でするような物言いをする彼に、なぜ理の姫が惹かれるのか不思議だった。
「…あなたであれば、見返りを求めるということ?」
「命を賭して守るのです。触れる権利くらいは許されて然るべきではありませんか」
真白には受け容れがたい考え方だった。
「他の花守も、あなたと同じ意見なの?」
「……いいえ?恐らくは違うでしょう」
水臣が、どうでも良いことのように答え、海の果てを眺める。
真白も首をひねり、陽に光る海面を見据えた。
「そう。――――良かった」
ここの海水は透明度が高く、美しい。剣護たちと海水浴で行った海とは、だいぶ違う。
このあたりの住民はほとんどがこの海で漁をして、魚を市場に持って行き、他の食糧や生活に必要な品々と交換して暮らしているのだと、嶺守が言っていた。先程も何隻かの漁船が漕ぎ出していた。生活がかかっているということだろう。魍魎の来る直前まで漁は行われるようだ。漁師たちの何人かは真白たちを物珍しげに、また、どこか近寄り難い者を見るような目で見ていた。嶺守から何か聴かされているのかもしれない。
海に顔を向けたまま、真白は口を開く。
「光は、あなたのことが好きだよ。許すとか許さないとかじゃなくて、あなたが願うことなら、きっと叶えたいと思ってる。その為ならすごく頑張るだろうって思うのに」
水臣がゆっくりと振り向く。
「…どうして、傍にいてあげないの?」
微笑らしきものが、初めて水臣の顔に浮かぶ。
「私は欲が深いのです、雪の御方様。傍にいるだけでは満たされぬのです。あの方が私を求める以上に、私はあの方を求めている。―――――この心情は、荒太あたりなら理解出来得るものなのかもしれません。あなた方御姉妹は…中々どうして罪深い」
深く澄んだ水を思わせる声が、揶揄の響きを帯びる。
「…荒太君は、傍にいてくれるもの」
水臣が目を細める。
「それは彼が、あなたに触れることが可能だからですよ。いつでも。あなたさえ、それをお許しになれば」
含む物言いに真白は顔を赤らめた。荒太との絆を軽んじられた気がして、不快感が湧く。
「――――――あなたと荒太君を一緒にしないで」
「無論、致しません。存在の在り様からして我々は異なる。もし、彼が私と同じ立場であれば、果たして彼はどのように動くでしょうね。…試しようもないことですが。あなたに背を預けている彼の献身もいつまで続くものやら、私には疑問です」
「水臣…。次郎兄を、侮辱しないで。光を、泣かさないで」
強く光る焦げ茶の双眼を、水臣は見る。
理の姫の目は薄青く、真白とは全く異なる色合いなのに、二人の眼差しに通じるものがある気がして、水臣は目を伏せた。
どこまでも浅い青の広がりは、果ても無く透き通り、寄せては返す、を繰り返していた。
目を覚ました怜は、背後の妹の気配を無意識に探った。
「次郎兄…?」
憂いを帯びた声に、意識が明確になる。
「真白。どうした?何かあったの?」
不覚にも眠り込んでしまった、と慌てる。
後ろで、真白が首を横に振る気配がした。
「水臣が…、」
「水臣が、何?」
真白が一瞬、口を噤んだ。
「私、水臣が嫌い……。光の大事な人なのに」
嫌い、ともう一度呟いて腕に顔を埋める真白を、怜は見つめた。
水臣が自分の悪口でも言ったかな、と考える。真白は余り他人を強く嫌悪するということがないが、身内に対する攻撃には敏感だ。怜自身は水臣にどう評されようと、痛くも痒くもない。真白が憂慮することのほうが問題だった。
「真白、これ何だ」
そう言って真白の前に向き合い、右手を開いて見せる。真白の目が大きくなる。
「桜貝……?」
「だね。このあたり、結構、落ちてるよ」
真白の掌に、パラパラと落としてやる。古くは花貝と呼ばれた、文字通り桜色の花びらのような貝が、真白の白い手に散った。妹の顔の強張りがほぐれる様子を、怜は認める。
「他にもあるかな?」
真白が真顔で訊いて来る。
「探してみなよ。市枝さんへのお土産にでも、すると良い」
一度は大きく頷き立ち上がると、砂浜を探し始めた真白だったが、不安そうにこちらを見た。
「どうしたの?」
「……子供っぽくない?貝殻のお土産とか…」
怜が微笑んだ。
「真白のお土産なら、市枝さんはきっと喜ぶよ」
「剣護も?」
「多分ね」
男へのお土産じゃないとか何とか言いつつ、決して真白からの土産を疎かに出来ないだろう剣護の顔が思い浮かぶ。
「三郎にも持って帰ってあげよう。……荒太君は、きっと趣味じゃないよね」
「確かめてみたら?成瀬が粗末にするようなら、俺が貰うよ」
「随分、真白に嫌われたね」
怜が背後に立った水臣に語りかけた。水臣の気配は清らかな水そのもので判別しやすい。
「次郎清晴…江藤怜。お前、ここに留まってはどうだ?」
思ってもいなかった言葉に、怜は振り返る。水臣の真意が解らなかった。
「なぜ」
「雪の御方様を独占出来よう」
この感覚からして、水臣は常人とはずれている、と怜は思う。
「真白が心底望むなら一考する余地もあるけど、あの子の幸せはここにはないよ」
水臣の風に靡く長い髪を見て、黒に近いような深い青色は彼の気性に合っている、と感じた。
「閉じ込めてしまえば良いものを」
「そうしてあの子を泣かせるのか?俺は真白の泣き顔を見たくない。あなたは違うのか、水臣」
「…そうだな。私は姫様が嘆かれようと、自分の手の内にだけあって欲しいと望む。私の為に嘆き、怒り、傷つき、絶望されるとしたら、それはそれで本望だ」
怜は腰を屈めて、無邪気に貝殻に手を伸ばす妹を眺める。その目には柔らかに和んだ色が浮かんでいる。
「相手にとっての心の平穏や、優しい日常や、笑顔を望む思いさえも凌駕する激情は、やがて互いを滅ぼすだけだ。俺はそう思うよ」
言いながら、荒太は少し水臣と似ているのかもしれない、と怜は思った。
ひどく我が強い癖に、自分がただ一人と定めた相手には盲目だ。だが、荒太は真白というフィルターを通して物を見ることが出来るのに対して、水臣にはそれが出来ないように見える。
(…病んでいるな)
鋭利な刃のような愛情は、例えば剣護が真白に対して見せる、包み込むような愛情とはまるで正反対だ。その刃が、理の姫を傷めることのないように、怜は祈った。理の姫と、何より真白の為に。
淡い藤色の着物を纏い、波打ち際で桜貝を拾う真白の姿は、一枚の絵のようだった。
花守たちの間には張り詰めた雰囲気が漂っていた。
安易に口にするには憚られる話をする為、彼らは木臣の創った空間に集った。
本来、全員がいれば五色揃う筈の花守の髪の色に、青だけが足りていない。
創り手である木臣自身を表わすような、淡い若草色の空間に立つ彼らの表情は硬い。空間に満ちる和やかな空気も、彼らの戸惑い、憂う心を解きほぐしはしなかった。
「じゃあ、水臣が今、花守ではないと言うのは本当の話なのかい?」
真っ赤な髪の明臣に、金臣が頷く。信じ難い、と言わんばかりの表情を明臣が浮かべた。
「職責から離れることを、自ら希望したそうだ」
長い黄金の髪を揺らしながら答える金臣の顔には、憂いがある。
「けれど、それは何の為なの?」
甘い木臣の声音に、すぐに答える声は無かった。
「今までも水臣は単独行動が多くはあったけど…。摂理の壁が、関与しているかもしれない」
訝しげな視線が、明臣に向かう。
「木臣も以前、言っていただろう。新たな摂理の壁のもと、僕らにも転生が可能になるかもしれないと。……戦を早いところ終わらせて、それを実行に移したいんじゃないかい?」
赤い髪の花守は、長年探し求めていた女性の生まれ変わりと、先頃再会を果たしたばかりだ。
それまで黙っていた黒臣が、重い口を開いた。
「――――――姫様が、残照剣のことを水臣にお教えになった、という話も聴く。内容が内容だけに、公言する者とてほとんどおらぬが」
「〝照る日〟のことを教えられたですって?」
木臣の顔色が変わる。
「なぜ、そんなことを。ある意味、最も秘すべき相手じゃないの」
「解らん」
黒臣が低い声で答える。
つまりは、と明臣が結論付ける声で言う。
「水臣の思惑も姫様の思惑も、僕らには確かな検討がついていないのが現状って訳だ」