流離 一 中
鼻歌を歌いながら道を歩く春樹に、呼びかける声があった。
「御機嫌だな、ホムラ。…随分と、門倉真白が気に入ったらしいな?」
街灯に照らされた、アスファルトに伸びる影。
春樹は自分に声をかけた相手を見ると、右手を上げた。
「よー、ギレンじゃん。お疲れ~。あいっかわらず、暑苦しい格好してんなあ。クールビズしろよ、クールビズ!だあってさあ、真白ちゃん、可愛いじゃん?」
無闇やたらとはしゃいだような声が、暮れの空気をかき乱す。
「だから殺せない、と来たか?全く、仕方のない奴だな、お前も…。彼らに気配も察知させず、完全に人間に成り切って近付けるのは、お前くらいだと言うのに」
チャコールグレーのスーツを着たギレンが、弟の我が儘を大目に見るような笑みを浮かべる。
「ううーん。殺すにしてもさあ、あの綺麗なお顔は、焼きたくないよねえ」
少しだけ春樹が考える顔を見せた。彼には至極、稀な表情である。
「そだなー、まあ、その内、気が向けば殺すよ。うん。あんまり、期待はしないでね~」
物騒な言葉を軽い調子で言いながら、春樹はギレンにひらひらと手を振って立ち去った。
八幡神を祀った神社の祭りは、人と出店で賑わっていた。石材で作られた鳥居の色は、赤ではなく灰色に近い。祭囃子の音が、一際大きく鳴り響いている。赤い提灯がズラリと並び、祭りらしい雰囲気を演出していた。最近の流行であるアニメキャラのお面なども、賑々(にぎにぎ)しく並べてある。色々な食べ物の匂いも、そこかしこから漂っていた。
この中を、真白と手を繋いで歩きたかったのに、と荒太は無念だった。
癪なことに、清楚な風情の浴衣姿の、彼女の手を握るのは碧だ。生意気にも子供用の浴衣を着た碧は、真白にぴったりくっついている。碧の着る浴衣は白地に家紋のようなマークが散って、帯は名前に合わせたのか、緑色の絞り染め風だ。客観的に見て、良く似合っている。真白と手を繋ぐ姿は、麗しくも微笑ましい姉弟そのものだ。
(―――――兄弟揃って、邪魔しやがる。その内絶対、馬に蹴られるぞ)
神社の石段を登りながら、真白の髪に目を遣る。涼しげな透明のビーズがついたピンが光る。自分の為だけに着飾ってくれたのではなかったのか、と思うとがっかりした。
「おい、碧。腹、減ってないか。何か食いたいもんないか?」
剣護は、碧のお祭りに関する費用とお守りのお駄賃として、美里から古風ながまぐちの財布を預かっていた。
石畳の上を、人混みの中、真白に手を引かれて歩く碧は元気に答える。
「僕、綿あめが食べたい!」
「お前、そんな腹持ちのしないもんで良いのか。…まあ、まずはそれでいっか。祭りらしいしな。しろは?何かないか?」
「私も、綿あめ、食べたいな」
「じゃあ、僕と半分こしようよ、真白お姉ちゃん」
無邪気な碧に、真白もにっこり笑いかける。
「そうしよっか」
「あ、お前ら、何か食う?」
いかにもついでのように、剣護が怜と荒太を振り向いた。
(三郎の一人勝ちか…)
怜は平静な心持ちで状況を見極める。荒太には気の毒だが、まあそれも良いかと思う。末弟に対して甘いのは、怜も真白たちと同じだった。
「真白お姉ちゃん、指輪つけてるねえ」
綿あめにかぶりついたあと、碧がくりくりとした大きな目で、真白の左手の小指をまじまじと見た。青紫の輝きは子供には物珍しく、目を引くのだ。
「…うん」
「綺麗だね」
真白が、滲むような微笑みを見せる。
「うん」
(―――――カレシから貰ったんだ)
幼いながらに、碧はぴんときた。
母の美里は、少し前に、剣護はやはり真白のカレシなのかもしれない、と言っていた。
(剣護お兄ちゃんから貰ったのかな?)
「それ、誰から貰ったの、真白お姉ちゃん?」
「荒太君だよ」
碧から綿あめを受け取りながら、真白が答える。
「…荒太お兄ちゃんは、お姉ちゃんのカレシなの?」
うっすらと、真白の頬が染まる。
「多分…。そうかな」
碧はそれを見て、真白が荒太に取られてしまう、と思った。
そして尚も碧は追及した。子供ながらに湧く嫉妬の感情に、唇が尖っている。
「大切な人なの?」
「うん」
これには躊躇わずはっきりと答えた真白に、彼らの後ろから会話を聴くともなしに聴いていた荒太が、そう来なくては、と内心で深く頷く。剣護と怜は、それとなく視線を逸らした。了解している事実であっても、面白くないものは面白くないのだ。
悔しさと悲しさ、そして寂しさがないまぜになった感情が、碧の心を支配した。
「――――僕より?」
この問いに、真白は目を大きくすると、眉根を寄せた。それは真白にとって、答えられる筈もない問いだった。
(三郎―――――――)
腕に感じた骸の重みを、忘れたことはないと心に呟く。
〝血の海が無ければ、嵐どのとは、荒太君とは出会えなかった〟
親兄弟を失うことと引き換えに嵐と出会ったのだという事実は、若雪を、ひいては真白を時折、懊悩の淵に沈めた。もとよりどちらを採ることも出来ない選択なのだ。
「…碧君。そういうことはね、大人の間では、訊いてはいけないルールになってるんだよ」
怜が碧の頭を軽く撫でながら言い聞かせる。
「怜お兄ちゃん。…どうして?」
碧が、怜の深い瞳を見返す。
「答えを聞いたら、がっかりしたり、悲しんだりする人がいるかもしれないだろう?だから、お父さんみたいに優しい男の人になりたいのなら、碧君も真白お姉ちゃんに訊くのはよそうね」
祭囃子が流れる中、怜の静かな声音は碧の胸に響いた。
こんな風に、ずっと昔にも、誰かに言い聞かせられたことがあった気がした。耳に沁みる声で。けれどそれがいつだったのか、思い出せない。
くるりくるりと、提灯の明かりが碧を幻惑するように回った。少なくとも碧の目にはそのように見え、束の間、自分がどこにいるのか見失った。
我に返り見上げると、真白がまだ悲しそうな顔で自分を見ている。自分の言葉が彼女を悲しませたのだ、ということだけは理解出来た。
「ごめんなさい…真白お姉ちゃん」
人々が行き交う中、真白が身を屈めると、下を向く碧の両肩に手を置いて、首を横に振る。小さな碧の身体を抱き締めた。前生で最期に触れた時とは異なる、温かい身体を。
その温もりに涙ぐみそうになるのを、押し留める。
剣護や怜に対するものとはまた違う想いで、稚い、小さな命が愛おしかった。
「碧君のこと、大好きだよ。…本当だよ」
(だから今生では、元気に大きくなって―――――――)
六歳より十二歳よりずっと先の、明るい人生を歩んで欲しい。
自分も、怜も剣護も、あなたを見守っているのだと伝えたかった。
「じゃあ、俺らはこのへんで帰るから」
剣護が、怜や荒太と共に、お好み焼きや焼き鳥などで十分に腹を満たしてから、真白に伝えた。夜も深まり眠くなってきたらしく、舟を漕ぎ始めた碧の身体を、よいしょ、と言って抱え上げる。
「三郎も限界みたいだし、坂江崎家に送り届けて来るよ。お前たちはもう少し楽しむと良い。…但し、余り遅くなり過ぎないように。おい、荒太。信用してるからな?」
剣護が、許容範囲内と思える時間帯には戻って来いよ、と目線で荒太に訴える。
「……俺、剣護先輩のこと、空気の読めない莫迦野郎だと誤解してました。任せてください、真白さんに危ない輩は近付けさせませんから」
「………ほう」
「成瀬の場合の一番危ない輩は、自分の中の獣だと思うけどな。気をつけて帰っておいで、真白」
ここからは真白とのフリータイムだと、剣護に許可された荒太が張り切る横で、怜が冷静な忠告を挟む。真白に向けて優しさと微かな懸念の残る眼差しを注ぐ一方で、荒太に対しては、下手なことをしたらただでは済まさないと言わんばかりの一瞥を遣した。
「ありがとう、剣護。次郎兄」
真白がはにかみながら微笑んだ。
「あーあー」
「どうしたの、太郎兄」
神社からの帰り道、どこかしんみりとした剣護の声に、怜が尋ねる。碧は長兄の肩にちょこんと顎を載せ、すっかり夢の中だ。その小さな足から何度か転がり落ちそうになった下駄を、見かねた怜が引き取った。六歳の男の子ともなれば、結構、持ち重りがする。湿ったようでやや熱い碧の身体の感触が、剣護に小さかったころの真白を思い出させた。
「いや、真白がさ、嬉しそうな顔しやがってと思ってさ」
寂しそうな剣護の物言いに、怜が笑う。
「それはまあ、そうだろう。…太郎兄があの子を独り占め出来てたのは、もう遠い昔の話だよ」
濃い群青に沈みゆく空気に、怜の声が溶け込む。
緑の目が緩やかな回想に耽る。
〝剣護、待って!待って!〟
いつまでもそう言って、自分を追って来るものではないのだ。
「……その内、荒太の奴、〝真白さんを俺にください〟とか言ってくんのかなあ」
「言う相手は太郎兄じゃなくて、真白のお父さんだと思うけどね」
夜空を見上げながら、剣護が溜め息を吐く。
怜は苦笑いを浮かべた。
頼りがいがあり、気遣いも出来るこの長兄は、実は案外と寂しがり屋なのだ。お祭り好きな性分だが、祭りが終わったあとの寂しさに人恋しくなるタイプだった。
「…行っちまうんだよなぁ。真白。荒太のところに」
遅かれ早かれその日が来るのだと、剣護も怜も解ってはいるのだ。
見上げた月には叢雲がかかり、明瞭な形が判らなかった。