流離 一 前
第七章 流離
揺らめいて
立ち上る今は昔
想い人も消え
約束は儚い
海の泡
一
真白たちと共にカレーを食べて花火をした日の週末、土曜日の昼下がりに、二つ折りにした座布団を枕にして一人家の居間で微睡んでいた剣護は、チャイムの音で目覚めた。
風鈴の音も耳に心地よい寝入りばなを起こされ、多少手荒に玄関の扉を開けると、そこには浴衣姿の真白が立っていた。
白地に紺色の竜胆の柄も涼しげで、文庫結びの赤い帯は、少女らしい愛らしさを引き立てている。
そう言えば今日は、近所の神社のお祭りだった、と思い出す。まだ真白が小さい時から、お祭りに付き添うのは剣護の役目だった。眠気と不機嫌が一緒になって吹き飛ぶ。
「おー、真白。可愛い、可愛い。…けど、まだちょっと時間が早くないか?」
相好を崩して褒めた剣護は、首をひねった。
「剣護。あの、無いとは、思うんだけど」
真白が、どこかしどろもどろと言葉を紡ぐ。
「ん?何が?」
「―――――ヘアピンとか、持ってないよね?」
上目遣いに尋ねられたのは、全く剣護の予測の範疇を超えた言葉だった。
「……俺が?」
「うん。…出来れば、キラキラした、可愛い感じのが良いんだけど。あったら使わせて欲しいの」
「…………」
チリーン、と風鈴の音が響く。
「良いか。冷静になって考えるんだ、しろ。俺はお前の兄貴で従兄弟だ。つまりは、男だ」
浴衣の両腕に手を添えて、諭すように言う剣護に、真白はじれったそうに反論する。
「そうだけど!最近って、男の子でもヘアピンしてたりするじゃない」
「するけどなあ、そういうヘアピンはキラキラとか、可愛いとかじゃないだろ。そもそも、俺が髪にチャラチャラつけるような男かどうか、お前が一番良く知ってんだろうがっ。俺は硬派なの!」
尤もな剣護の主張に、真白が肩を落とした。
「…とにかくお前、上がれよ」
剣護の手招きを受け、真白が下駄から白い素足を脱いだ。
「――――――大体さあ、お前、そのままで十分いつもより着飾ってんでしょ。髪の毛までどうこうする必要無いって」
言いながら、正座した真白の前に、冷えたカルピスの入ったコップを置いてやる。
普段から、髪に対してほとんど無頓着だと言うのに、なぜ今日に限って装飾を気にするのか、剣護には謎だった。自分とは異なり、癖の無いサラサラした焦げ茶の髪を見遣る。
「…私も、浴衣に着替えるまではあんまり気にしなかったんだけど。着替えてから、鏡で全身を映して見たら、髪が素っ気無さ過ぎるように思えて」
成長したなあ、と剣護は思わず感心した。昔から、女の子が喜びそうなリボンやヒラヒラしたスカート、玩具のアクセサリーなどにもほとんど興味を示さなかった真白の口から、こんな言葉を聞く日が来ようとは思わなかった。俺も年を取る筈だぜ、とややずれた感慨まで湧いてしまう。これも荒太の影響かと思うと、彼に殊勲賞をやりたい気分だった。
「よし。ちょっと待て、真白。俺が何とかしてやる」
そう言って剣護は立ち上がり、二階に向かった。
「よう、次郎。お前、ヘアピン持ってないか?」
『藪から棒に何なの、一体』
二階の自室で、剣護はスマートフォンを手に弟に語りかけていた。
相手の都合もお構いなしに話を進める。
「何かさ、キラキラした、可愛い感じのが良いんだと」
『―――――あるよ』
「マジか!お前、さすがだな、持ってないもんねえな!」
『マジな筈がないでしょ。逆に、どう考えれば俺がそんなヘアピン持ってる発想が出るんだよ、太郎兄』
呆れ果てた声にも、剣護は平然と答えた。
「お前、今時のお洒落男子じゃん」
『偏見だよ、それ…』
「だってさ、真白が欲しがってんだよ」
『真白が?』
意外そうな声が返る。
「今日、近所の神社で祭りがあるんだよ。あいつ浴衣着て、めかしこんでんの。それで、髪に物足りない感じがするんだと。な?何とかしてやりたいだろ」
『…珍しいね。あの子が、そういうこと気にするなんて』
「なー、真白も、もうガキじゃないんだなぁ。俺と一緒に祭りに行くだけなのに、そこまで気を配ってんだぜ?」
『その見解の正否はまあ、置いておこう。…解った。それらしいものを見繕って行くから、待ってて』
「頼んだ!」
「待ってろよ、真白。もうすぐヘアピンが来るからな」
そう言って、剣護がニコニコしながら二階から降りて来た。
「……どういう意味?」
「次郎に頼んだから。あいつに任せときゃ、大丈夫だ。それよりお前、足、崩せよ。痺れるぞ。浴衣着てると暑いだろ。クーラー入れるか?」
小まめに気遣う剣護に、真白が、え、と言う顔をした。
「次郎兄に頼んだの?わざわざ?」
「うん」
剣護が屈託なく頷く。
「…悪いよ、そんなの」
「大丈夫、大丈夫。あいつもさ、一緒に祭りに行けばいいじゃん。何なら三郎も連れて。四人で兄妹水入らずだ!」
真白が驚いた顔をして、黙り込む。目の前に置かれたコップを手に取り、カルピスを一口、二口飲むと思い巡らせる顔つきになった。
四十分程のち、再び門倉家のチャイムが鳴った。
剣護が意気揚々と扉を開ける。
「良く来たな、ヘアピン!!」
「…太郎兄、そこは本心を偽ってでも、俺の名前を呼ぶところだよ」
ぼそりと苦情を訴えると、怜は剣護に招かれるまま、居間に上がり込んだ。
そこに座る妹の浴衣姿に怜も目を細め、向かいに腰を下ろす。剣護もその隣に座った。
「ごめんね、次郎兄。わざわざお買い物させて、足、運ばせちゃって…」
済まなそうに言う真白を、安心させるように笑いかける。
「良いよ。浴衣、似合ってるね。…とりあえず、駅近くの雑貨屋で幾つか買ってみたんだけど。真白、気に入ったのを選びなよ」
そう言って、金のシールが貼られた可愛らしい柄の紙袋を、真白の目の前に置いた。
袋に品物を入れる前、「贈り物ですか?」と怜に訊いて来た女性店員の目は、和やかに笑んでいた。その問いに、怜は少し迷ったが「はい」と答えた。
中からは余り主張し過ぎない、可憐なデザインのピンが数本出て来た。透明の石めいたビーズのついたピンと、小さなパールが連なったようなピンを見比べながら、真白が悩む。
「…どっちが良いかな」
二人の兄に問いかけてみる。剣護が肩を竦めてあっさりと言う。
「俺、そういうの良く判らん。お前の好きなほうにしろよ」
この兄は、とやや呆れた表情で怜が剣護を見てから意見を述べる。
「―――――その浴衣なら、こっちの透明なほうで良いんじゃない」
「そう?」
真白がそのヘアピンを手に取り、髪につけてみる。
「鏡、見て来るね」
言い置いて、全身が映る鏡が設置された玄関に、小走りに駆ける。
その後ろ姿を見てから、怜が剣護に紙切れを手渡した。
「はい、太郎兄」
「…何だ、これ」
「レシートだよ。ああいう小物って、意外に値が張るね。ちょっとびっくりしたよ」
剣護が、窺うような視線を遣す。
「…俺も今、びっくりしてるんだが。これって、俺が払うの?」
「それはそうでしょ。まさか真白に払わせるつもりだったの?真白から代金を払うって言い出す前に、早いとこ支払ってよ」
「………」
弟の善意に都合良く期待していたとは言えず、剣護が口籠る。
試みに、そっと口を開いてみる。
「なあ、次郎。俺、ちょっと今、お小遣いがピンチでさ」
怜がにっこり笑った。
「貸しとくよ」
そうだった、こういう奴だった、と剣護が思い出すのは、少し遅かった。
優しさと厳しさを兼ね備えた弟を前に、剣護はよろめきながら立ち上がる。
「…何か飲むか?」
「うん」
庭先には、日本マニアでサムライマニアでもある剣護の父・ピーターが趣味で育てている盆栽が並んでいる。
時折響く風鈴の音色がそれらと相まって、日本の夏らしさを醸し出していた。
「それで、成瀬はいつ迎えに来るの、真白?」
カルピスで口を潤したあと、怜が発した疑問に、兄と妹は同時に驚きを露わにした。
「どうしてここで、荒太が出て来るんだ」
「次郎兄、何で知ってるの?」
二人揃って、怜に問いかける。怪訝な顔つきになった剣護が、真白に目を向ける。
「…真白、俺と祭りに行くんじゃないのか?」
「―――――そのつもりだったんだけど。海から戻って、おばあちゃんたちに注意されたの。受験生の剣護に、あんまり相手させちゃ駄目だって。…塔子おばあちゃんが、そろそろ、ボーイフレンドと一緒するのに慣れなさいって言うから、荒太君に話してみたら」
向こうは一も二も無く飛びついたという訳か、と怜は冷静な頭で納得した。剣護の顔を横目で見れば、ショックを受けているのが明白だった。
ゴソゴソと居間の隅に行き、大きな身体を丸めた姿は哀れを誘う。
「毎年、祭りには俺と行ってたのに…。絶対俺と一緒に行くって、昔は言い張ってたのに」
いじけながら剣護は、ヘアピンのレシートは荒太に押しつけよう、と心に決めていた。
怜にしてみれば、妹の手を放し切れない思いは、解らなくもなかった。しかし、だからと言ってその格好はどうなのだ、と呆れる思いのほうが僅かに勝った。長兄としての威厳が台無しだ。
「どうしよう、次郎兄…」
途方に暮れた顔で、真白が次兄の顔を見た。
「うーん」
考えた怜は、真白にぼそぼそと耳打ちする。
真白が半信半疑の顔で、怜に尋ねる。
「…そういうので良いの?」
「やってみてごらん」
怜に後押しされた真白は、後ろを向いている剣護の背中に抱きついた。
「お、おにーいちゃん」
甘えた声で、と怜に指示された真白だったが、声はややぎこちなかった。
しかし剣護はパッと振り返った。頬が緩んでいる。
「何、真白?」
「……荒太君と、お祭りに行っても良い?」
途端にまた、むっつりした顔に戻った。ぷい、とそっぽを向く。
「真白なんか知らないもん」
乙女かよ、と怜は内心で兄に激しく突っ込んだ。
「じ、次郎兄ぃ……」
妹に助けを求められた怜は、溜め息を吐いた。
「真白。もうこの際だから、しょうがない。お互いに妥協するしかないよ」
夕方になり、真白を迎えに来た荒太は、玄関で彼を出迎えた剣護に首を傾げた。チャイムを鳴らす家を隣家と間違えたかと一瞬思うが、そこは紛れもなく真白の家だ。槇の樹の生け垣の向こうに、庭の桜の樹が見える。ひぐらしの鳴く声が、どこからか聴こえてくる。
「お、荒太。お前、浴衣なんか着て色気づきやがって」
にこやかに言う剣護の後ろから現れた真白の浴衣姿に、一旦、感じた疑問を棚上げして見惚れる。清楚可憐、幽玄の美、などの褒め言葉が頭に押し寄せる。
(…すごい可愛い!ジャパニーズビューティー。よっし、来て良かった!)
荒太の顔に、自然な笑みが浮かぶ。
「可愛いね、真白さん。綺麗だね。その浴衣、良く似合ってるよ」
笑顔で絶賛されて、真白もまた、荒太の浴衣姿を見てはにかむように言った。
「荒太君も格好良いね」
そこに、真白の浴衣にしがみつく形で、ひょこ、と顔を出した児童がいた。
「真白お姉ちゃん、このお兄ちゃん、誰?」
「お友達の荒太君だよ、碧君」
真白が子供の頭を優しく撫でながら答える。
「お友達?カレシじゃないの?」
荒太が仏頂面になる。元来、子供嫌いの荒太は、突如出現した男の子の存在に、軽い苛立ちと困惑を感じていた。大抵の人間は、つぶらな瞳の碧に目を細めて愛らしいと感じ入るのだが、荒太に限っては数少ない例外だった。ただチビがいる、と認識するだけで、何の感慨も湧かない。真白がその子にやたら優しく接するのも、面白くなかった。
「…剣護先輩。何ですか、このチ…、ちっちゃいの」
「碧君。三郎だよ、成瀬。美里さんに頼まれたんだ。祭りに連れて行ってやってくれって。今日は一磨さんも遅くまで片付けないといけない仕事があって、美里さんも近所の奥様たちの集まりがあるんだって」
更に顔を出した怜に、荒太は困惑を深める。
「…真白さん。俺、今日はデートのつもりで来たんだけど」
その為に、深い藍色の浴衣に、黒い帯をきっちり締めて来たのだ。
なぜ余計な人間がわらわらといるのだ、と暗に尋ねる。
しかも、小野家の三兄弟が揃い踏みだ。
「細かいこと言うなよ、荒太!皆で楽しもうぜ」
元気に声を出す剣護の向こうで、真白が申し訳無さそうな顔をしていた。
暮れなずむ空の下、カラコロと、軽やかな下駄の音が響く。風に乗って、祭囃子の音色も聴こえて来る。どことなく郷愁の念を誘う、まったりとした空気が漂っていた。
不本意な顔の荒太と、兄弟四人が神社に向かう途中、陽気で軽い声がかかった。
「あっれー?真白ちゃんじゃーん」
(真白ちゃんだと?)
馴れ馴れしい物言いに、荒太のみならず、剣護まで渋い顔になって振り返る。
見ればそこには、陶聖学園高等部一年のチャラ男代表、佐藤春樹が立っていた。
彼は、いわゆるヘアピンを愛用する系の男子だ。染められた長めの金髪はあちこちに跳ねているが、彼の場合はあえてそのようにセットしているらしい。
「かっわいー、かっわいー、浴衣似合うねえ。何、お祭り?何なら俺と一緒しない?」
真白の全身をつくづくと眺める春樹は、居並ぶ男性陣を無視してはしゃいだ声を上げた。
「おい、佐藤。今から俺たちは八幡宮の祭りに行くんだ。お前の存在は邪魔でしかないから、速やかに立ち去れ」
遠慮も容赦も無い剣護の口振りに、春樹がおおっと、と言う顔をする。
「なーんだ、門倉先輩も一緒かあ。って、よく見りゃ江藤と成瀬もいるじゃん。ちぇー、先約かよ。残念。真白ちゃんはお姫様だねえ。そんじゃまたねー、今度、俺ともデートしようねー、バイバーイ」
あくまで軽い態度と口調で、春樹はあっさりと退散した。
「うっとうしいな、あいつ…」
苛立ちを更に刺激された表情で荒太が独りごちる。これには、剣護も怜も内心で同意していた。碧の無垢な眼差しは、春樹の後ろ姿を見てきょとんとしている。
「どうかした、碧君?」
真白が、小さな頭を傾げる碧に問いかける。
「…ううん」
真白に何でもない、と答えたものの、碧はまだ心の内に疑問を抱えていた。
(…今のお兄ちゃん、どうして人間じゃないのに、人間の振りしてたんだろう。悪い奴なのかな?)
碧の目には、春樹がほんの数秒、真っ赤に燃え盛る炎に見えていた。