面相 四 後半部
「スーパーに寄るのか?」
風見鶏の館からの帰り道、買い物メモを見ながら、駅近くのスーパーの方角に向かう真白に、剣護が尋ねる。袖の短い涼しげな水色のブラウスに、紫紺の細いズボンを合わせた真白には媚びない清楚さがあり、すれ違う目敏い男子たちの視線が向かう。そんな彼らを緑の瞳で睥睨し、牽制する剣護の様子に、メモに集中する真白は気付かない。
「うん。今日は、塔子おばあちゃんはデートで遅くなるって言ってたし、絵里おばあちゃんはお華の展示会で京都にお泊りだから。明日、二人が食べるぶんも一緒に、カレーライスを作って食べようと思って」
真白の台詞の後半に、ガードレール真横を行き過ぎたバイクの騒音が被さったこともあって、剣護は念の為に訊き返してみた。
「……お前が?」
「うん」
「お前が?」
「しつこいよ、剣護」
顔を赤らめて真白が怒り顔を作るが、本人も自分の料理の腕前を自覚している為、余り迫力は無かった。
「良いけどさ。俺、空腹で死にそう。たこ焼き買って、食って良いか?」
「あ…、そうだよね。ごめんね」
慌てて言う真白のこめかみには汗が浮いている。
早く冷房の効いた建物内に入らせようと、剣護は足を速めた。
剣護がたこ焼きを片手に生鮮品売り場に向かうと、そこにいた筈の真白の姿が消えている。
そう思ったのは錯覚で、売り場に立っていた恰幅の良い女性の向こう側に、彼女の細い身体が隠されていただけだった。押しの強い笑顔で、きついピンク色の口紅を厚く塗った中年女性が真白に迫る様は、狩人のようだ。圧力を加えんばかりの勢いで、真白ににじり寄る。
「だからねお嬢さん、今、ここの会員になっておくと、ほんと、お得なのよ。ね、入会しておきなさいな。割安でお買い物が出来るようになるんだから」
「いえ、私には決められないので…」
食材が入ったカゴを両手で持ち、真白が困惑の表情を浮かべている。
「大丈夫よ、一から説明してあげますからね、」
断り切れず弱っている真白と女性の間に、剣護は身体を割り込ませる。
長身で体格も良い剣護が上から見下ろす視線には、迫力があった。
「ごめん、おばちゃん。こいつの家、カード作らない主義だから」
あらそう?残念ねえ、と言いながら女性は渋々引き下がって行った。
「おい、無事か、しろ?」
「うん。ありがとう」
「お前なあ、最初っからはっきり〝要りません〟って断っとけば、向こうもさっさと諦めるんだぞ?おばちゃんだって仕事だからな、曖昧な態度の奴には期待持って喰いついちゃうんだよ。ほれ、たこ焼き食え」
耳に痛い忠言と共に、目の前にぬっと差し出されたたこ焼きを見て、真白が剣護を見上げる。出来たてらしいたこ焼きからは、ホカホカと湯気が上がっている。
「……剣護がお腹空いてたんじゃないの?」
およそ20センチ以上は自分より背の高い剣護に、尋ねる真白の眼差しは幼子のようだ。
「俺も食うけど、お前も食べなさい。夏バテ気味だろ、真白」
剣護の言葉にギクリとする。最近の夏本番の暑さは、ただでさえ食の細い真白から、体力と食欲を奪っていた。
「…ごめん。たこ焼きの匂いがきつくて、食べられない」
しょんぼりとした真白が小さく言う。
剣護が呆れた顔をした。なまじ自分が頑丈に生まれついただけに、身体の弱い妹を繊細な壊れ物のように感じるのは、こんな時だ。過剰な庇護欲が育まれるのも無理はなかった。
「お前、よくそれでカレー作ろうなんて思えたな。料理は体力勝負なんだぞ」
そう言って、かなりのスピードでたこ焼きを平らげる。完食するまでに一分とかからなかった。その為に多少、口の中を火傷した。
真白が唇を結んで落ち込む様子を見せるので、剣護も口調を和らげた。
「ほら、カゴ貸せ。……昼飯用に粥作ってやる。それなら食えるか?」
「…うん」
「よし、何入れる?」
「枝豆」
それから二人は野菜売り場のほうに向かい、レジを済ませてから買ったアイスを食べながら帰った。
夕方になり、真白の様子が気になった剣護は、隣家を訪ねた。
カレーらしきものの匂いは、まだ漂ってこない。
どうなっていることやらと思いつつチャイムを鳴らすと、エプロン姿の真白が出て来た。気のせいか、顔が青白い。
「剣護……」
「おう。カレーはどうなってる?ちゃんと作れてるか?」
我ながら心配性だ、と思いつつ尋ねる。しかし、これまで真白による料理への挑戦が、成功を収めた例を知らない身としては、不安にもなろうと言うものだ。どうやっても固くて食べられないチョコレートを、剣護が父親共々、真白からバレンタインに貰った日には、この固形物の処遇をどうすべきかと、親子揃って頭を悩ませたものだった。最初にそのチョコを噛み砕くべく、果敢に挑戦した父・ピーターの右奥歯が欠けたことは、真白には永遠の秘密である。
「……玉ねぎを、切ってたんだけど」
「ああ」
それでこの涙目か、と剣護は納得する。
「……指、切っちゃって」
真白の左手の人差し指から、たらたらと流れる赤い血を見て、剣護は目眩がする思いだった。
悠長に話してる場合かと叫びたいのを堪え、彼女の右手をひっつかんで急いで家の中に駆け込む。真白を流しのほうに押し遣り、自分は勝手知ったるとばかりに、リビングに置かれたテーブルの下から救急箱を取り出した。
「真白、とりあえず切った指を洗え。念入りにな」
それから消毒液を手に、流しに立つ真白に近付く。
「ほら、指を出せ。――――少し沁みるぞ」
消毒液が指の傷口にかかった瞬間、真白が顔を顰めた。
手早くティッシュで傷口を拭った剣護は、リバテープを真白の指に巻きつける。
幸い、出血の割りには、傷はそう深くなかった。
そこまで済んだところで、剣護が深く、大きな溜め息を吐く。真白と料理と言う組み合わせには、サバイバルと言う単語が一緒になってついて来る気がする。
「ごめん、剣護。…ありがとう」
ステンドグラス制作より先に、料理で指を切るなんて、と真白は陰鬱な気分になった。
「良いからちょっと、お前は座ってろ。体力落ちてると手元も狂いやすいんだよ」
「……上手に出来たら、剣護たちにも食べて欲しかったのに」
この言葉に、剣護もこれ以上真白に小言を言う気を無くした。
「お前の神様ハイスペックが、何で料理においてだけ発揮されないのか、俺はつくづく疑問だよ……。あとは俺がやってやるから、お前は荒太たちに連絡しとけ」
キッチンのフックにかかった、この家に常備してある自分専用の黒いエプロンを着けながら言う剣護に、真白は声を上げた。
「え?」
「食わせてやりたいんだろ?まあ、今回は俺の特製カレーってことになるけど。次郎や市枝ちゃんにも、声かけてみろよ」
暗かった真白の顔が和らぎ、明るくなる。
「うん」
紺青色した晩に、少年少女が集った。
「真白さん、このカレー美味しいよ!コクがあるし、肉の柔らかさも丁度良い」
荒太の褒め方は、まるで料理評論家だった。
真白の料理の腕前を知る荒太にとって、晩餐の誘いは嬉しくもあり、怖くもあった。しかし、おっかなびっくり口にしたカレーは、至って美味だった。内心では意外過ぎる、と思いながらも、荒太は賛辞を惜しまなかった。
「うん、トマトの酸味も良く効いてる。頑張ったね、真白」
怜も頷く。
「真白、料理上達したのね!」
銀のスプーンを手にした面々から賞賛を浴び、真白は身を小さくした。
天井にある、北欧調の木の皮で作られたランプシェードから、オレンジ味を帯びた柔らかな光が食卓に投げかけられている。だが、そこに供された夕食を作ったのは真白ではない。
「残念でした。作ったのは俺です。ザ・ワイルドマン・剣護カレーです」
剣護のその言葉に、一同、何だ、と言う表情を浮かべる。
せめてこの兄の半分でも料理が出来れば良いのに、と真白は情けなかった。
「これで真白が、私のお料理上手なお嫁さんになってくれるって思ったのに」
どこまでが本気なのか判らない口調で嘆く市枝に、剣護が語りかける。
「良く聴いて、市枝ちゃん。日本の法律では、まだ同性婚は認められていないんだ」
「男の手料理に感激してしもうた…」
今度はそう言って自己嫌悪に陥る荒太の足に、テーブル下から剣護が蹴りを入れる。
「真白が料理中に指、切ったんだよ。しょうがねえだろ」
「え、大丈夫?真白」
心配する市枝に、真白がブンブンと頷く。
「剣護が手当してくれたから」
「…おい、そこの野郎二人、俺を睨むのは止めなさい。ここで俺が睨まれるの、どう考えてもおかしいだろ」
怜が斜めに視線を逸らし、荒太はスプーンにカレーを載せる。
「俺がついてたらそないなことも無かったのに…。まさか剣護先輩、真白さんの傷口を舐めたりせんかったでしょうね」
荒太がぶつぶつと言う。
どこからそんな発想が出て来る、と剣護は呆れた。
「莫迦か、お前は。何で俺がそんなことするんだよ。人の口ん中ってなあ、雑菌だらけなんだぞ。…どうした、しろ。顔が赤いぞ」
「何でも無い」
赤い顔の真白が、細い声を出した。
怜は無言だったが、僅かながら剣護を責める空気を漂わせている。
(俺だって四六時中、真白に張りついてる訳にもいかねんだよ)
剣護は苦い顔を浮かべ、胸の内で二人に言い返した。軽い意趣返しに、怜と荒太が嫌がりそうなことを言ってやる。
「お前たちって、実はとっても仲良しだろ」
彼らをそう評した剣護の言葉に、怜は微かに眉を寄せ、荒太はひどく不味い物を食べたような表情を浮かべた。
「市枝、花火しようよ」
食後に、真白がどこから取り出して来たのか、花火セットの袋を持って来た。
白い光のともる蝋燭を用意し、水の入ったバケツを置いて女子二人がきゃあきゃあ言いながら花火に興じる様を、男子たちは缶ビール片手に縁側から眺めていた。
「飲んだあとの空き缶は、各自、こっそり、しっかり、持って帰ること」
厳かに言う剣護は、缶ビールを横に置き、右手に煙草をくゆらせている。
「解ってるよ。太郎兄も喫煙はどうかと思うけどな。健康、損ねるだろ」
「損ねる程の本数じゃないし、真白の前じゃ吸わないよ。副流煙があいつの身体に障るの嫌だしな…。お前も、全く吸わないことはない癖に」
「俺だって、真白に気付かれるような下手は打たないよ。滅多に吸わないし。…良い子の兄貴でいたいからね」
二人共良い勝負だ、と荒太は呆れながら、自分も缶ビールを口に含む。
荒太は、今のところ喫煙には興味が無い。衣服に煙草の匂いがつくのも、あまり好きではなかった。
意外にこの兄弟のほうが、自分より猫被りではないだろうか、と思う。
さわさわと、夜の涼風が縁側に座る彼らの髪を揺らす。
「……それで、何体倒したって?」
感情の抜け落ちたような声で、剣護が口火を切る。
「…四」
「三」
怜と荒太がそれぞれ答えを返す。
「お前ら、腕上げたな」
「太郎兄は?」
「八体」
答えてから、ふう、と煙を吐く。
「……段違いやないですか。嫌味ですか、剣護先輩」
荒太の苦い声に、剣護が微かに笑う。
「どうも俺は、魍魎に好かれてるようだな」
「真白も市枝さんも、その後は一、二体を倒しただけだって聞いたけど」
「ああ。…俺たちが専ら魍魎の攻撃対象になるのは、まあ悪くない」
ただ、どうにも後味の悪いような思いは、常に魍魎を倒したあとに付きまとう。時が経てば無感動になり、何も感じなくなるのも、それはそれで怖い。
口には出さないものの、〝殺す〟ことに慣れてゆく、という感覚は、彼らを内側から少しずつ苛んでいた。
「一磨さんは強いよな…」
魍魎の存在を知ってからも、一磨の姿勢に揺らぎは無かった。敵に出会えば、討つ。その感覚が身体の隅々まで行き渡っているようだった。その後、倒した魍魎の正確な数はまだ聞いていないが、十に近い数は行っているだろうと剣護は見ている。力に秀でると言うよりは、精神面が並外れて強靭なのだ。
守る者が在るという意識が、彼の意思をそこまで強く保たせるのだろうか。
(俺もそこなら負けちゃいないと思うんだが)
それは怜にしろ荒太にしろ、それなりに自負しているところだろう。
しかし一家の長、という立場になったことのない剣護には、まだ解らない感覚があるのかもしれない。
(こいつは経験者ってことになるのかな)
そう思いながら、荒太の顔を眺める。嵐には守るべき妻子がいた。
「何ですか、先輩」
「いや……妖の殲滅は、今年度の課題にしたいと思ってな」
この戦に、年内には決着をつけようという意味だ。
乾いた瞳で言う剣護の言葉に、怜も荒太も、頷く思いだった。こんな命の遣り取りは早く終わらせて、全て悪い夢だったと自分に思い込ませ、生きて行きたい。例えそれが逃げであるとしても。襲撃をかけて来る敵の殺生にそれ程抵抗の無い荒太でさえ、そう思った。自らの手を余りに血で汚せば、真白に触れ辛くなる気がしてならないからだ。
ビール缶を持ってないほうの自分の手をぼんやりと見る。
この手が、彼女の手を取る資格があるのか、今でさえ考える時がある。
荒太の目から見れば、魍魎を何体倒していようと、真白自身の手は他の誰より清浄なままだった。流れた血を覆う雪の一片のように。
「剣護、ねずみ花火、ねずみ花火やろうよー」
真白が笑顔で声をかけてくる。
「おっしゃ、待ってろ」
携帯灰皿に煙草を押しつけ、剣護はつっかけを履いて立ち上がった。
空には冴えた銀の月が浮かんでいた。