面相 四 前半部
四
理の姫は神界の湖の前に佇み、優しい風に吹かれていた。長い黒髪に戯れかかるこの風の優しさを理の姫は愛し、そしてほんの少しだけ憎んでいた。
水臣は、嘗て現世において、この湖のように澄んだ水の集まりだった。
そのころ、まだ日の光、月の光として存在していた理の姫は、その水の透明さ、清らかさに惹かれて光を注いだ。
(あのころから、既に私の心は水臣のものだった)
他の誰にも譲り渡せるものではなく。
後ろから近付く気配の主に、出会わなければ良かったと思ったことは一度もない。
「姫様。お呼びでしょうか」
涼やかでいて、深い水を思わせる声が響く。
いかにも理知的で思慮深げな容貌を備えた彼が、実は非常に激情家であることを、理の姫のみならず、他の花守たちも知っている。
向き直り、名を呼ぶ。
「水臣…」
「はい」
「もしも私が、共に逃げて欲しいと頼めば、あなたは聞いてくれるだろうか?」
冗談ともつかない笑みを含んだ声に、水臣は真顔で応じた。
「姫様がそれをお望みであれば、いつなりと。…今、すぐにでも」
他を顧みることのない、直情さが表れた答えだった。
(あなたは私以外の為に心を砕くことが出来ない)
それを憂慮すべきことと悲しむ一方で、嬉しいと感じる自分がいる。
自らの心の動きを、ひどく罪深いものであるように、理の姫は感じていた。
「あなたに、見せたいものがある。…ついて来て」
「……はい」
「落日の扉は、今ここに開かれよ。我は其をおとなう客なり」
理の姫の厳かな言霊が、闇を震わせ押し開いた。
そこは理の姫が管轄する空間の中でも、内包されている物ゆえに、特に秘められた空間だった。禍々しさとは程遠い、雅やかな気配の漂う暗闇が、そこには在った。
闇の中の闇。漆黒の中の漆黒に、それは浮かんでいた。
美しい、金色の一振りの剣が、理の姫の存在に反応するように、纏う光を強くした。
その剣の柄には、赤、青、白、黒、黄、の五色の宝玉が埋め込まれている。
「姫様、これは―――――――」
「これは、理の姫の役を負う神を、死に至らしめる宝剣。…神殺しの剣。理の姫としてある神が、道筋を逸れた時には、この剣で断罪される。私を殺し得る、唯一の神器。神界においても秘中の秘とされている剣だが、存在を知る神仏の間では、〝照る日〟とも〝残照剣〟とも呼ばれている」
淡々と説明する理の姫の真意が解らず、水臣は困惑の表情を浮かべた。
彼女の横顔はいつにもまして凛と気高く、胸に何らかの覚悟を抱いている様子だった。
水臣は唇を湿してから、慎重に声を発する。
「なぜ…私にこの剣の存在をお教えになるのです」
理の姫が水臣を見た。端整な唇から、淡々と言葉が紡がれる。
「あなたが魍魎の側につくのであれば、去る前に、私をこの剣で刺し貫いて欲しいから」
水臣が絶句する。薄青い瞳と瞳が正面からぶつかり合う。
「――――御存じで、いらしたのですか」
「…知っていた。あなたがあちらから誘いを受けていることも。あなたが、揺れていたことも」
透徹とした眼差しが、水臣を見ていた。
「……あなたが、花守に籍を置くことを苦痛と感じ、魍魎に与すると言うのであれば、我らはあなたを断罪しなければならない。…それが私の、理の姫の果たすべき勤めだからだ。けれど私には―――――それは出来まい。きっと」
ポツ、と一滴の涙が落ちる。唇は笑みを形作るが、柳眉は悲しく歪んでいた。
「勤めを果たせぬ私もまた、裏切り者として断罪されよう。ならば、どのみち死ぬのであれば、私はあなたの手にかかって死にたいと思う」
静かな声音が語るのは、深く激しい愛情の吐露だった。
水臣は茫然として立ち尽していた。ようやくの思いで、唇を動かす。
「…姫様。私は、あなたに触れたいのです」
「……」
私もあなたに触れて欲しい、と理の姫は目を閉じて思う。言葉には出来なかった。理の姫としての一線が、まだ彼女を縛っていた。沈黙しか返らない闇に、水臣は再び口を開いた。
「花守では、お守りすることしか出来ない。神界においては、本当の意味であなたに触れることさえ出来ない!かき抱いてもかき抱いてもかき抱いてもまだ足りない!!」
水臣が抱く恋着の念と絶望は、臨界点に達していた。
それを理の姫は、哀れとも愛しいとも感じた。
激する水臣を見る理の姫の目からは、涙が静かに流れ落ちている。
「それで、花守そのものから抜けようとしたのか?」
水臣が両手で理の姫の肩を掴んだ。箍が外れたような力がその手には籠められていたが、理の姫は歯を食いしばり、痛いとも言わない。
「あなたさえ、いれば良いのに―――――これ程近くにいて尚、遠い。手に、入らない。あなたを、私の創った空間に閉じ込め、永遠に私のみをその双眸に映すようにしたいと、これまで幾度思ったか知れません。…私が狂気に蝕まれていることは、誰より私自身が良く承知しております」
顔を伏せた水臣のこぼす涙を、理の姫は透明な眼差しで見つめた。
湖から神と成った者の涙は、ひどく澄んで美しかった。
(あなたでも…泣くのだな)
不思議な思いだった。
出会ってから永久にも近い時が経つが、彼の涙を初めて見た気がする。
「姫様お一人を死なせるくらいなら、私もあなたと参ります。―――――しばらくの間、花守の責を離れることを、お許しください。…魍魎に加担は、致しませぬゆえ」
そう言って水臣は、これ以上ない程に強く理の姫を抱きすくめた。
ずっとこのままでいられれば良い、と理の姫はぼんやりと思う。神らしからぬ熱情は、それ程に罪なものだろうか。永遠にこのままで。それこそ、水臣の言ったように二人だけしかいない空間で、ずっと―――――。過ごせれば良いのに、と理の姫は刹那の夢を描く。けれど夢は夢だった。自分を抱く腕も、頬を押しつける胸の温もりも、離れて行ってしまうことを悲しみの内に悟っていた。水臣は理の姫の背に回した手をそっと解くと、数歩、後ずさり、そして消えた。
残された理の姫は、その場に忘我の瞳で立ち、小さな呟きを落とした。
「共にいられるだけでも、私は構わないのに。…あなたを失うくらいなら」
触れることが、触れられることが出来ない辛さにも耐えるのに、と。
誰かが泣く声が耳をかすめた気がして、真白は顔を上げた。
(誰……)
すかさず、舞香の声が飛ぶ。
「あら駄目よ、真白。動かないで」
「あ、ごめんなさい」
紫色の訪問着を着て、舞香の絵のモデルを務めている最中だったのだ。夏休みに入ってから真白も時間が取りやすくなり、最近では午前中のうちに風見鶏の館を訪ねるようになっていた。
着物を着た真白が暑さでばてないよう、風見鶏の館のリビングには、若干強めに冷房が設定されていた。油絵の具の匂いが、つんと鼻をつく。絵筆を持った舞香の表情は真剣そのもので怖いくらいだった。絵が完成した暁には、剣護たちに披露したあと、研究室の教授に見てもらうのだと舞香は張り切っていて、真白としてはこそばゆいような心持ちだった。
「―――――良いわ、今日はここまで。真白、お疲れ様」
しばらくして舞香が満足の息を吐きながら、許可の声を出した。
真白もホッとして身体の緊張を緩める。
「じゃあ、着替えてきますね。それから、お茶淹れます」
舞香がにっこり笑った。
「ありがと。悪いわね」
キッチンに立った真白は、流しの横の引き出しから、カモミールの花を乾燥させた物の入った箱を取り出した。初めてこの家を訪れた時には無かった、ハーブティーだ。鎮静作用があり、リラックスしたい時に飲むのに適する。その効能は花の部位に発揮される。
恐らく真白たちの為に、気遣いに溢れた姉か弟のどちらかが購入した物だろう。
陽だまりのように優しい彼らの気持ちが嬉しくて、真白は微笑みを浮かべた。
「今日は、要さんはお留守なんですね」
真白が淹れたカモミールティーを飲みながら、二人は一息ついていた。
このあとは、舞香にステンドグラスを教わる時間だ。
「そ。大学院に行ってるわ。要が師事してる教授の、美術書を執筆するお手伝い。資料集めに奔走してるのよ。御苦労なお話。あの子は要領が悪いから、すぐ人の手伝いに捕まっちゃうの」
舞香は院の二年生、要は一年生と聞いた。教授の要望とあれば聞かざるを得ない立場でもあるのだろう。
ティーカップを口元に運びながら、要らしい、と真白は思った。
「真白、この間、五行歌を投稿したでしょ。見たわよ、新聞。あなた、結構ファンがいるのね。ネットでも、女流歌人が帰って来た、とか言って一部騒いでたわ」
真白は照れ臭い思いで少し身を縮め、答える。
「最近は、時間に余裕があったから…」
舞香はカップを置いて、頷きながら感想を述べる。
「面白いわね、五行歌って。私は限られた字数の中で情緒を保つ、和歌の雰囲気が好きなんだけど。五行歌はより自由なぶん、詠み手の人柄がもっと表れやすい気がするわ。……真白の歌は、恋愛めいたものに見えたけど?」
「はあ……」
からかうような舞香の視線に、真白は顔を赤くして俯く。誰を想って詠んだ歌なのかは、言うまでも無く明らかだ。
「それで、今日のお迎えの騎士は誰かしら?」
あっさり話題を変えた舞香に、助けられた思いで答える。
「剣護が、夏期講習のあとに来てくれるそうです」
「ふうん……」
再びカップを手に取りお茶を口に含む舞香には、正直、真白と剣護、怜の繋がりが良く解らないでいた。真白が荒太に向けるものは、明らかに恋愛感情と見て取れるが、剣護や怜に向ける信頼や親愛の情は男女の間柄を超えて、深いものに思える。
互いをどれ程大切に感じているか、傍から見ていてもありありと伝わってくるものがあるのだ。
(荒太が少し、気の毒かしらね……)
独占欲の強そうな彼が、その状態に不満を言わず耐えていると思うと、舞香の胸には同情の念が湧いた。それはそれで青春かとも思いながら、カチャリと空になったティーカップを置く。
「さて、じゃあステンドグラスのほうをやりましょうか」
「はい」
真白がカップをまとめて、流しのほうに持って行く。
その間に舞香が、リビングのテーブル上を作業台として使えるように整える。ガラス板他様々な道具を使用する為、普段は美術書等に埋もれたテーブルも、整理整頓してスペースを空ける必要があるのだ。空いたスペースに、舞香が種々の道具類を並べていく。真白はその道具類を見るのも好きだった。機能美と言うのだろうか、ステンドグラス制作に使う道具一つにも、無駄の無いデザインの美しさを見る気がした。
「だいぶ、オイルカッターの扱いには慣れてきたわね、真白。あれは要領さえ掴めば、余り力を使わずにカットラインが引けて重宝なのよ」
今でこそ、使用する道具類の名前もそれなりに覚えた真白だったが、当初は制作に当たっての説明について行くのにも一苦労だった。何しろ、扱うガラスの種類からして、大別してもアンティークガラス、ロールドガラス、キャストガラス、と三種類あるのだ。更に舞香によると、アンティークガラスの中にも、ガラスを扱うメーカー別に気泡の形状の違いというものがあるらしく、想像していたよりもずっと奥が深い、と思い知らされた。芸術もやはり学問の一つには違いないのだ。
「はい。…でも、ランニングプライヤーでガラスを真っ直ぐに割るの、難しいです」
「そうねぇ。まあ、その内に慣れるわよ。とにかく、怪我には気をつけてやりましょう。せっかくの制作で真白が指でも切ったら、私も悲しいわ」
真白が、真面目な表情で頷く。
「気をつけます」
「おい、門倉。何か食って帰ろうぜ」
陶聖学園高等部では三年に向けての特別夏期講習が終わり、剣護と同じく理系学部志望の畑中冬人が声をかけた。ふっくらした左手首回りに巻かれた数本のミサンガは、彼なりのお洒落心の表れらしい。オレンジや紺、緑など賑やかな色合いが、その人柄を象徴するようだ。
「あー、冷麺食いてえ。けど悪ぃ、先約がある」
悪友の誘いをあっさりと蹴る。
「真白ちゃんか?」
「そうそう、迎えに行くことになってんだよ」
畑中が理解出来ない、と言う顔をした。
「…お前さあ、そこまで従兄妹の美少女と仲良くて、何で付き合う流れにならないの?俺なら速攻で彼氏を気取るね」
剣護が肩を竦める。
「嘆かわしいことに、俺のような正統派ハンサムは真白の好みじゃないんだよ、畑中クン。あいつはな、好みがちょっとひねくれてんだよな、うん」
「そういうくだらんことを言ってる間に、他の男に取られても構わないってか?噂になってんぞ。女流歌人が…成瀬だっけ?一年坊主と親密だってさ」
「ほー」
それは実際その通りだと知る剣護には、反応の仕様が無い。
「お前にその気がないならさ、俺に真白ちゃん、紹介してよ」
剣護が、自分には及ばないまでも上背のある、眼鏡をかけた聡明そうな畑中の顔を見る。額は広めで身体の輪郭はやや丸みを帯び、気の良い内面が滲み出ている。特に容姿が優れている訳でもないのだが、外見からも感じ取れる温厚さに加えて気さくで賑やかで、男女共に交友関係が幅広い。剣護とは気が合い、よくつるんでいた。
見かけが優等生で人畜無害な彼が、実はガールハントに熱心という噂は、剣護の耳にも届いている。自然、剣護の表情は苦くなった。
「そっちが本音かよ。しっしっ、真白に近寄るんじゃない!」
「大して本気で言った訳じゃないが、お前、仮にも友人に対してその言い方…」
少なからず傷ついた顔を畑中が見せる。
しかし同情する剣護ではなかった。
「一年の佐藤、三年の畑中、ってチャラ男の二大巨頭の片割れに、誰がくれてやるかい。名前まで春樹と冬人で1セットみたいじゃねえか。お前、冬人って柄かよ」
「俺が選んだ名前じゃないよ。そういや、佐藤がしつこく真白ちゃんに言い寄ってるとかも聞いたな」
この言葉には、剣護が顔を険しくした。折しも、ペンケースや先程まで使っていた教材をしまう鞄の中からは、真白から誕生日に貰った、ダークグリーンの革のブックカバーで覆われた文庫本が覗いている。誕生日プレゼントだと言って真白に手渡された時、安価で手に入る品でないことは、剣護の目で見ても判った。きっと品物に目星をつけてから、お小遣いを貯めて買ってくれたのであろうと思うと、使うたびに押し戴くような気持ちになる。
「何だ、そりゃ。そこまでは聞いてねえぞ」
「チャラ男の割には一途だと、同情する声もあるらしい。お前がビシッと交際宣言でもすれば、寄って来る虫も消えるだろうに」
どうやら畑中は、真面目に忠告してくれているらしかった。
「だって俺、あいつの兄貴だもん」
「だからさ、その兄代わりを卒業しろって」
話が進まない、と言う顔で、畑中が焦れたように顔を歪めた。剣護がパタパタと手を振る。この暑い中に、押問答は勘弁して欲しかった。
「無理、無理。それよりさ、相川って理系じゃなかったっけ?講習は受けないんだな」
そう言ってぐるりと教室内を見渡す。
そこで畑中が、怪訝な顔をした。
「――――誰だって?」
「相川……ん?」
言いかけた剣護の動きが止まる。首を傾げて、畑中の顔をじっと見た。
「そんな奴、いたっけ?」
「俺のほうが訊きたいよ。…お前、受験勉強で疲れてんじゃないのか?」
疑惑の眼差しを受けて、剣護は戸惑う。
帰り支度をする生徒たちのざわめきが遠のき、急に蝉の鳴き声が大きくなったように感じる。消毒薬の匂いのする保健室の残像が、なぜか頭をよぎる。
揺れる白いカーテン。
〝物好きだね、門倉君〟
そう彼女は呟いたのだ。いや、そんな少女はいなかった。
なぜなら相川などと言う同級生は、最初から存在しないからだ。
それなのについさっきまで、余りにも自然にその存在を信じ込んでいた。
しかし今では、自分がなぜそんな勘違いをしたかを疑問に思う気持ちのほうが強かった。
自分の頭の中にいつの間にか居座っていた、解けない迷路に驚かされるような感覚に陥る。手探りに道を行くような覚束なさ。しかも迷路そのものが、確かに在るものかどうかさえ、判然としないのだ。
真夏の暑さと蝉の声が、深く沈もうとしていた剣護の思考を遮った。この暑さで、病弱な妹がへばっていはしまいかと、心配になる。
(…しろが待ってる。行ってやんないと)
剣護はガリガリと頭を掻くと、首を緩く横に振った。
「うん、ダメだ。さっぱり解らん。暑いせいだな、きっと。さっさと真白を迎えに行こう」
「結局、そこに戻るのかよ……」
疲れた面持ちで畑中が言った。