面相 三 後半部
翌日の早朝、真白はストールを肩にかけ、別荘のテラスに置かれたベンチに腰かけていた。海面が、少し翳りのある朝の光を受けて、控えめに輝いている。
左手の砂浜から、こちらに歩いて来る影があった。海鳥の鳴く声が賑やかな中、真白の間近で足を止めたのは、薄い茶色の髪のショートカットに、白いタンクトップ、ジーンズを穿いた女性だった。瞳も髪と同じく薄い茶色で、全体に清爽な印象がある。
「こんにちは」
挨拶されたので、真白も返す。
「…こんにちは。お散歩ですか?」
近所の住人か、自分たちと同じくリゾート客だろうか、と推測する。
相手は子供のように、コクリ、と頷いた。
「そう。私の、兄弟でもある波たちに、朝の挨拶。……私は、アオハ」
彼女の言葉は、ひどく詩的なものに聞こえた。
澄んだ瞳が、あなたは?と訊いているように思えて、真白も応じる。
「私は、門倉真白と言います」
「マシロ。あなた、海は好き?」
出し抜けに問われて、真白はやや困惑する。
「―――――――はい」
アオハと名乗る女性が、嬉しそうに笑う。母親に褒められた子供のような笑みだった。
二人の間を潮風が吹く。
今日は昨日より少しだけ曇っていて、空を行く雲の動きも早い。
「…アオハ、さんの名前は、青い波、と書くんですか?」
鳴り止むことの無い波の音の影響もあってか、何となく、その文字が彼女には似つかわしく思えた。清々しく、美しい名だ。
「うん。そう。私は――――――波。本当に、そうなる筈だったの」
不可解な言葉のあと、ひた、とアオハが真白に目を合わせた。
「あなたたちが、それを邪魔した」
「え………?」
アオハの言う言葉の意味が、真白には解らなかった。彼女の薄茶の目は、生まれ落ちたばかりの赤ん坊のようにどこまでも透き通っていて、真白の向こうに何を見ているものか、窺い知ることは出来ない。
真白の羽織ったストールが、風にあおられて揺れる。
真白とアオハは、しばし沈黙のままに対峙した。
探るように見つめ合う、焦げ茶の瞳と薄茶の瞳。
絶え間ない波の音の中、アオハが読めない表情で言った。
「…私、マシロが嫌いじゃないよ。出来れば、殺したくないな」
アオハが真白の眼前まで歩み寄り、手を仰向けて、そっと真白の白い頤に触れる。アオハの瞳に宿る、憐れみの意味を真白は知らない。その言葉を最後に、彼女は真白の前から歩み去った。しなやかで人に馴れることのない、美しい獣のような後ろ姿だった。
「真白!」
別荘内から、怜が声をかけて小走りに真白のもとに来た。
「―――――今、誰かと話してた?」
真白はぼうっと、兄の顔を見上げる。
「…うん。お散歩中の人と。どうしたの、次郎兄。…顔が怖いよ」
「……感覚を捉え損ねたかな。妖の、気配がしたと思ったんだけど」
怜が懸念する表情を見せる横で、真白は、今、遭遇した人物のことを、自分はなぜ怜に告げないのだろうと考えていた。特に鋭敏な感覚を持つ怜が、魍魎の気配を察知したのなら、恐らく今の女性も、チャコールグレイのスーツの男性同様、魍魎だったのだ。
〝殺したくないな〟
まだ帰りたくないな、と思ったままを無邪気に言う子供のような、女性の口調と声が耳に残っている。
「市枝さんは?」
「まだ寝てる。市枝、寝起きが悪いから。……次郎兄。私、お散歩に行きたい」
唐突な妹の要望に、怜が首を傾げる。
「松林?」
「うん」
「…じゃあ、朝食前に少しだけ散歩しようか。市枝さんには、メモを置いて行こう」
本日の朝食は怜が賄うもの、と昨夜の内に話がついていた。
怜はおもむろに、真白のノースリーブのワンピースを眺める。汗をかいた時の着替えの為に、真白は予備のワンピースをもう一枚、持って来ていた。色は昨日着ていた物と同じ白だが、今着ているほうは青味がかった白で、胸元にレース飾りがついている。空気に晒された両肩が、いかにも寒く心細そうに見えた。物柔らかに言い添える。
「冷えるといけないから、そのストールも、ちゃんと羽織っておいで」
真白は小さく頷き、ベージュのストールの端を掴んだ。
怜は、つまずきそうな木の根や石ころがあるところでは、真白の手を取ってやりながら、歩いた。たまに犬の散歩中の人などとすれ違い、互いに会釈を交わす。
雰囲気に通じるものがある、見目の良い少年少女の二人連れは、微笑ましい表情で見送られた。
「真白って、まだ舞香さんのモデルを続けてるんだよね?」
「うん。大体、二時間くらい風見鶏の館にお邪魔して、一時間はモデル、もう一時間はステンドグラスを教えてもらってる」
「絵が完成したら、俺も見たいな」
怜が何気ない口調で言う。
「うーん。普段と違う格好してるから、私に見えないかも」
「え、どんな格好?」
興味を引かれた怜の問いに、真白が答える。
「………京友禅の、訪問着を着てるの。舞香さんが、以前京都に旅行に行った時、東寺の弘法市で手に入れたんだって。地の色が綺麗な紫色でね、桜の花柄で、とても状態が良いの。私が自分で着付け出来るって知ってから、その着物を着てモデルになってもらえるって言って、舞香さん、とても喜んでた」
へえ、と怜が感心したように相槌を打つ。
「モデルしてるところ、俺も見てみたい」
「―――――見ても私がじっと座ってるだけだから、面白くないよ」
この言い分に、怜は笑った。
普段は見られない格好で、着飾った妹の姿を見てみたいという兄心が、いまいち真白には伝わっていないらしい。
「……次郎兄。私ね、一つだけ、真白として成し遂げたいことがあるの」
サンダルで足元の地面をサクサクと踏みながら、さりげない調子で真白が言った。
「何?」
将来の夢か何かだろうか、と怜は考えた。真白の能力があれば、大抵の目標は達成出来るだろう。難があるとすれば、身体が丈夫でないことだ。
真白が微笑んで怜を見る。
「誰にも秘密だよ?」
朝日を背にした妹の、唇が動いた。
「荒太君より、先に逝かないこと」
怜が、言葉を失う。
「前生で、私、二回も荒太君を置いて逝ったから。今度は、私が我慢する番だって思ってるの。…身体が弱いから、頑張らなくちゃ」
それは、聞いていて胸が詰まるような覚悟だった。真白が心の内で静かに、密かに抱く決意が、怜の内側を遣る瀬無さで満たした。
(…それは違う。真白)
真白のこの決意を知って、荒太が喜ぶとは怜には思えなかった。
「――――――その理屈でいけば、俺も、太郎兄も三郎も、市枝さんだって真白より先には逝けなくなるな。それこそ、前生で真白を、置いて逝ってしまったからね。そんなことを、今から真白が決める必要は無いんだよ。先走って考えるのは、真白の良くない癖だ。今生で、真白の大切な人たちが、そう簡単に真白を置いて先に逝ったりはしないから。言っただろう?だから真白も安心して、長生きしてよ。俺たちと。……お爺さんお婆さんになっても、皆でつるんでいれば良いじゃない」
前に向き直り歩いていた真白が振り返り、ひたむきな瞳で怜を見た。
置いて行かないでね、とその目は語っていた。哀願と言っても良い切実さがそこにはある。そうか、と怜は思う。目を覚まさせられた心地がした。
(……太郎兄だけじゃない。真白にとって、ちゃんと俺も兄だ。必要とされている)
能力の有無や付き合いの長さなどはるか以前の問題で、ただ怜の存在そのものを真白は求めている。それはいなくならないで欲しいという、単純で強い祈りだった。
幼い若雪に月に例えられて、当初は落ち込んだ次郎だったが、彼女が殊の外、月を好んでいた事実を思い出し、その後自信を取り戻した。若雪は月の光、雪の明かりをこよなく愛でる少女だった。太郎が不満げな顔をしたのは、理由あってのことだったのだ。
(俺だって真白が大事だ。太郎兄とは別に、俺は俺でこの子を守ってやりたい)
その為には、彼女の傍にいなくてはならない。少なくとも、手を放すことを真白が望むようになるまでは。
あれだけ派手に、真白に置いて行くなと泣きつかれたのに、剣護と真白の絆を見るにつれ、真白の涙を忘れかけていた。間の抜けた自分を省みて苦笑が口元に浮かぶ。
「…どうしたの、次郎兄?」
「いや。――――俺は莫迦だな、と反省してた」
真白が、不思議そうな顔になる。
「次郎兄は、賢いよ。剣護も私も、良く知ってるもの」
「………ありがとう、真白」
怜は目を閉じて、妹に告げた。