目覚め 三 前半部
三
それから一週間程経たのち。
「………土曜日の朝っぱらから、わざわざ呼び出して何かと思えば」
真白の前には呆れた顔の市枝がいた。
「退院する成瀬を迎えに行くから、服を選んで欲しいですって?」
真白は赤くなって身を縮めている。
「…だから、ごめんってば」
腰に手を当て、はあ、とわざとらしく大きな溜め息を吐いた市枝は、やれやれと思った。
(普段はほとんど服に無頓着な癖に)
だが、兄たちを除き滅多に人に甘えることの無い真白の頼みだと思うと、市枝に無下に出来る筈も無かった。
それでもせめてもの抵抗として、頭を抱えて大袈裟に苦悩する振りをして見せる。
「ああ~口惜しや~。妾ともあろうものが、たかが嵐ごときの為に俄かスタイリストの真似事なんぞをせねばならぬとは。世も末じゃ~~」
「……市枝。今、わざとお市の方の口調で喋ってるでしょ」
「そうよ!」
少しの躊躇も悪びれも無く、市枝は指摘を肯定し、キッと真白を睨んだ。
―――――――そして睨んだ先に、真白の懇願の表情を見た。
それは例えるなら、「拾ってください」と言わんばかりのつぶらな瞳をした、段ボール箱の中の子犬のような。
「―――――――もう!」
市枝がついに、白旗を上げた。
「はいはい、解ったわよ、選んであげるわよ!…でも、ケーキバイキングに私と行く約束も、ちゃんと果たしなさいよ」
「うん、解ってる。もちろん」
どうだか、と思いながら、それでも市枝は真白のクローゼットの扉を開けた。
中を一瞥すると、シャッ、シャッと迷いの無い手つきでハンガーを選り分けていく。
洋服を検分する眼差しを逸らさないまま、真白に尋ねる。
「自分では何か候補とか無いの?」
「えーと、これとか、これとか?」
「――――却下」
真白の指差した服を見て、市枝はばっさり言った。
真白が目を丸くして、戸惑う声を出す。
「ええ、そんなに駄目?これなんか、素材は上等なのに。肌に優しいし」
市枝が顎に手を添えて反論する。
「それは解るけど、デザインに色気が無さ過ぎ。せめて選ぶのはスカートにしなさいよ」
「……スカートって足がスース―するから…」
何言ってんの、と市枝は呆れた声を上げた。
「好きな相手に会う時には、少しくらい我慢するっ!だからこんな色気無いクローゼットになっちゃうのよ、もう。いい?真白、よおく思い出すのよ。嵐は、男装の時の若雪と、小袖を着た若雪、どっちが嬉しそうだった?」
問われて、真白は記憶の中を探る。
(確か―――――――)
「………小袖でした」
市枝の迫力に押され、真白は敬語で答えた。
嵐が、若雪の着る物に明確な好き嫌いを言ったことは一度も無かった。それでも何となく、その時身に着けている物が歓迎されているかどうかは、若雪には気配で解った。
「でしょう?ああいう古風な男は女の子らしい服装を喜ぶもんなのよ。まあ、あいつは、センスの良い服装なら何でも良いかもしれないけどね!昔っから装いにはうるさかったもの。あいつ、〝お市様はいつも派手なお召ですけど、よう似合うてはるから感心しますわ〟なんて言ったりしたのよ、昔。もう完璧、上から目線!」
そんなことを言いながら、恋敵に会う真白に服のアドバイスをするなんて、自分でも大概人が好いと市枝は思った。惚れた弱味という奴だ。
ふと、ハンガーにかかった服の一枚に目を留める。
「あら?このワンピース、良いじゃない」
「あ、これ?この前、お母さんが帰国した時、買ってくれたの。少しは女の子らしい服を持ちなさいって言って。あまり着る機会が無いんだけど、気に入ってるんだ」
真白に最も似合う色は白だが、このワンピースのような淡い青紫も良く似合う、と市枝は思った。
「決まりね」
こうして、多少ドタバタしながらも、真白は荒太に逢いに行く仕度を整えたのだった。
何の彼の言いつつも、市枝はバスの停留所まで真白を送ってくれた。
「はいはい、肩の力抜いて。真白は普通にしてて普通に美人なんだから、こんなお洒落したら成瀬だって見惚れるわよ。万一、なんか文句つけるようなら、さっさと回れ右して帰って来なさい」
「…わかった。ありがとう、市枝」
荒太は、例え真白が多少おかしな服装であろうと、きっと何も言わないだろう。
市枝もそれを承知の上で、真白の緊張をほぐそうとしてくれたのだ。
青紫色のワンピースを着た真白は、矢立総合病院に向かうバスに乗り込んだ。
一人になると、やはり滅多に無く緊張しているのが自分でも判った。
本当の生まれ変わりを経てからは、今日が初めて荒太に逢うことになる。
嵐は服装にうるさい性質だった。荒太も恐らく同様だろう。何を着て行けば良いか悩んだ末、真白は市枝に助けを求めたのだ。
剣護は気を遣ったのか、退院には立ち会わない、と言った。あいつ、正午には病院を出るらしいよ、とも教えてくれた。
真白は剣護に感謝しつつ、乗るバスを荒太の退院時に合わせて選んだ。
バスに乗る時、微かに妙な感じを受けたが、気のせいだろうと思った。
それは、入るべき路地を一本ずらして入ってしまったような違和感だった。
その違和感を無視したことは、真白にとって大きな間違いだった。
(おかしい……)
昼前のうららかな日和のもと、車道を行くバスは、先程から同じ場所ばかり巡り、同じバス停にしか行き着かない。
三回程それが続き、やっと真白も異常に気付いた。
真白は、こんな術に覚えがあった。
前生で嵐が得意とした陰陽術の一つ、〝巡り灯篭の術〟だ。術をかけられた対象者を異空間に閉じ込め、懐かしい過去を思い浮かばせる。
けれど荒太がこんなことを真白にする理由が無い。
思っていると、サラリーマン風の乗客の一人が不意に立ち上がり、真白に向かい襲いかかって来た。
「な………っ」
両手を上げて迫り来るその皮膚はぐずぐずと崩れ、最早あまり原型を留めていなかった。
見ただけで吐き気がしそうな光景だ。真白は思わず手で口を覆った。
生理的な嫌悪に、両腕がぞわっと鳥肌立つ。
(…これが魍魎?――――どうしよう。どうすれば良いの。太郎兄、次郎兄…、嵐どの)
パニックに陥った真白は、その時不意に、呼んで、と誰かに言われた気がした。
頭の奥から――――遠い彼方から。
初めて聴く声だった。
けれど懐かしい、と思った。
その懐かしい声が再び真白に呼びかけた。
暗い闇の中、それのみが輝きを放つ白光のように。
私を呼んで―――――――――――――早く。
すぐに行くから。
(そうか。この声は――――)
「―――――――雪華、来て!」
悲鳴のように名を呼ぶと、一振りの懐剣が何も無いところから出現した。
笹の葉と雪の意匠が、螺鈿細工と蒔絵の技法で表された美しい剣が、まるで始めから定められていたことのように、真白の手にピタリと収まる。
清浄なる華。雪の華。その名を冠するに相応しい懐剣。
―――――――――再び振るう時が来ようとは。
懐剣を鞘から抜き払い、真白はその妖を無我夢中で薙ぎ払った。斬った、という自覚もまだ無いままに、その妖はざらり、と音を立てて脆く崩れ落ちた。
「―――――……」
おぞましさと、久しぶりに剣を振るった反動で、息が上がる。
しかし雪華の柄を握る感触だけは、真白に僅かな安堵と心強さをもたらした。
乱れた呼吸を整えようとすると、他の乗客までもが次々に立ち上がり、真白のほうへと向かって来る。
真白は息を詰め、目を見張った。
(どうして、こんなに。―――――――――狙われた――――?)
剣護や怜たちがいない時を見計らい、魍魎たちが仕組んだことなのだろうか。
(数が多い)
全部で五体はいるだろうか。
剣護と怜が、合わせて三体を倒した、と言ったのを思い出す。
それに引き替え、真白に対するこの頭数の気前の良さはどうしたことか。
真白のこめかみから一筋の汗が伝い落ちる。
(せめて術が解ければ――――――)
剣護たちは妖には祓詞が有効だと言っていた。
若雪が神官家であった小野家で蓄積した祓詞の記憶は、今も真白の中にある。
けれど焦る程に、祓詞が出て来ない。
落ち着いて思い出そうにも、眼前に迫らんとする魍魎に気を取られ、集中出来ない。
その時、高らかに響く声があった。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違い、地に十の文字、秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、ふっ切って放つ、さんびらり!」
明快で小気味良い響きの成した変化は急激だった。
「――――――――――」
気がつけば真白は、矢立総合病院の最寄のバス停に立っていた。
歩道には、人々が何事も無かった顔で行き交っている。
真白が雪華をどうにかすべく慌てていると、何をするでもなく美しい懐剣はその姿を手品のように消した。ひとまずホッとした真白は、声のしたほうを振り向いた。
(今の声―――――――――)
彼は、紺色のTシャツにジーンズを穿いて普通に立っていた。
ただの一般人のようにも見えるが、神道の秘文を唱えて妖を退けたのは、彼に間違いない。入院時に必要だった諸々が入っているのだろう紙袋と、退院祝いにもらったのであろう花束を手にしていた。
てっきり松葉杖でも突いているかと思っていたが、もう自力で、二本の足で立てるらしい。
「嵐…じゃない、成瀬、君?……成瀬荒太君?」
間違いないだろうと思いつつも、真白は恐る恐る呼びかけた。
バス停からもよく見える病院前の広場の時計に目を遣ると、十二時を僅かに過ぎていた。
彼は少し笑うと頷いた。
「うん。俺。荒太で良いよ。……中々、劇的な再会になったね。怪我は無い?門倉さん」