面相 三 前半部
三
その建物は深いチョコレート色の、海辺に広いテラスを備えた平屋だった。
「俺たちはもう少ししたら舞香さんたちに送ってもらうけど、お前は市枝ちゃんと次郎とこの別荘に泊めてもらえ。いいか?市枝ちゃん。頼めるか、次郎」
市枝の家の別荘で、真白に言って聞かせながら、剣護は市枝と怜にもそれぞれ確認をして指示を出した。剣護も舞香も、そして要も明日は予定があり、宿泊は困難だった。
「もちろん、良いわよ。休憩だけに使うつもりだったけど、良かったわね、うちの別荘を確保しといて」
三つ編みを解いたあとの、まだ濡れている金茶の髪を片手でいじりながら、市枝があっさりと応じた。
怜も当然のように頷く。
この決定に、荒太は不満を唱えなかった。普段であれば、どうにかして自分も居座ろうと粘ったかもしれない。だが今は、そんな立場ではない、と考えていた。例え真白が自分と過ごす為に無理をしてくれたのだとしても、やはり彼女の不調に真っ先に自分が気付くべきだったのだ。
剣護は荒太に目をくれることなく、籐の揺り椅子に身を預けた真白に近付く。彼女の下半身にはタオルケットがかけられている。中腰になった剣護が、真白に話しかけた。
「真白、少しで良いから何か腹に入れろ。薬を飲むのはそれからだ。粥、作ってやる。何の具材だったら食えそうだ?」
この場面で、何でも良い、と答えるのはかえって剣護を困らせる。真白は無難な具材を考えた。迷惑をかけてごめんなさい、と訴える真白の眼差しに、剣護は良いんだよ、と宥める瞳で応じる。
「…青菜、とか…」
剣護が市枝を振り向くと、市枝が頷いた。別荘に準備された食材に抜かりはない。
「少し待ってろ」
それからしばらくの間、剣護は別荘の広いキッチンを一人で行ったり来たりした。
「…頭が下がるよな」
手伝いの申し出を断られ、手持無沙汰に立っていた荒太に、肘掛け椅子の一つに座った怜が話しかけた。別荘の広いリビングルームには、そこここに、ゲスト用の物であろう肘掛け椅子が配置してある。ちょっとしたホテルの、ロビーのような雰囲気があった。
「太郎兄が最初に覚えた料理は、お粥だったらしい。真白がまだ小さな時から、食欲が無い時が続いたり、体調を崩したりすると、太郎兄がお粥を作ってやってたんだってさ。その時々によって真白の望む具を入れたりしてね。どんな時でも、真白はそれなら食べれたって。……そのへんはもう、理屈じゃないんだろうな」
荒太は、出来上がったお粥を皿に注ぐ剣護の姿を見る。お粥の中には、刻まれた小松菜が混ざっている。
安心しきった顔でそのお粥を口に運ぶ真白を見て、この兄と妹の築いた歴史の長さに、打ちのめされる思いがした。真白の左手の小指に嵌まった青紫の輝きも、かすんで見える。
何をどうしても敵わない、共に過ごした年月の重みというものがあるのだ。嵐と若雪が、時間を経て育んだ絆と同様に。
〝あいつ、目が覚めて真っ先にお前の名前を呼んだんだ〟
荒太がまだ病院にいたころ、見舞いに来た剣護が、禊の時を終えて目覚めた真白のことを、少し悔しそうに語った。
(違う。それは、嵐の名前だ。俺じゃない。…俺の名前じゃない)
今にして思えば、嵐がたやすく若雪を独占出来たのは、彼女が親も兄弟も亡くした身の上だったからだ。自分とは条件が違う。今生で真白が兄弟と再会出来たことを、彼女の為に喜ばしいと思わない訳ではないのだが―――――――。
荒太としての自分が真白との間に積み重ねたものなど、まだほんの僅かだ。目の前の兄妹に比べれば柔らかくてか細く、頼りないような繋がりしか互いの間には無い。これから先が肝要なのだとは思うものの、真白の傍らに立つ剣護を見ていると、生じる焦りは抑えようがなかった。
〝真白のお母さんみたいよね〟
市枝は剣護をそう評したが、二人の間にある信頼はそれ以上のものに見える。強固な結びつきに太刀打ち出来ないものを感じて、荒太は唇を噛んだ。
また、そう感じるのが自分一人ではないということも、怜を見ていれば良く解った。相変わらず表情には出ないものの、滲み出る空気から察せられるものはあるのだ。
(……同じ兄貴っていう立場だ。俺なんかより、よっぽど悔しいだろうな、こいつ)
剣護たちが別荘から引き揚げたあと、別荘のテラスを降りたあたりで、怜はパーカーのポケットに両手を入れ、風に吹かれながら夜景を眺めていた。海のはるか上には、もうすぐ満ちそうな月が小さくポツンと浮かんでいる。先程から、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』の歌が彼の頭の中を流れていた。
そこに柔らかな声がかけられる。
「次郎兄…?」
ワンピースの上から、金色がかった淡いベージュのストールを羽織った真白が立っていた。
「真白…。どうしたの。寝ていなくて良いの?」
夜風が妹の身体を冷やさないように、腕に手を添え、別荘内に導く。
「……次郎兄が、悲しんでる気がしたの」
澄んだ瞳を向ける真白の言葉に、心中の動揺が表に出ないよう、努めながら答える。
「そんなことはないよ。美女二人のエスコート役を、任されたことだしね」
茶化したように言った怜の顔を、真白が見た。
「…次郎兄、じゃあ、あの、もしかして怒ってる?」
真白をリビングの椅子に座らせながら、自らはその傍らに立ったまま、怜が意外な問いかけに驚く。メインの電気をつけていないので、リビングのあちこちにともる間接照明だけが光源だ。その青白い光が二人の姿を浮かび上がらせ、海中にいるかのような錯覚をもたらしていた。囁きより少しだけ大きな真白の声は、室内に不思議と良く響いた。
「どうして?」
「……私が、身体弱くて、迷惑をかけたから。剣護や、市枝や、舞香さんと要さんにも、心配かけて―――――昔は、こんなこと無かったのに。…悔しい」
ザ、ザーンと打ち寄せる波の音が聴こえる。
真白の言う「昔」が、若雪だったころの話だと、怜には解った。今生において真白が、丈夫でない身体に生まれついたことは、本人にはどうしようもないことだ。だが真白は、過剰に自分の身体の弱さを恥じていた。
「俺たちの誰一人、真白を責めても怒ってもいないよ。真白が悪くないってことは、誰だって解ってる」
優しく言い聞かせる怜の声音に、真白は唇を結んで頷く。
慰められて安心する思いの横で、けれど穏やかに言葉を紡ぐ怜の心に、やはり何らかの悲しみがある、と真白は感じていた。
(独りにならないで、次郎兄)
彼の心が、遠いところにある気がした。手を伸ばして、暖かい場所に連れ戻さなければ、と強く思った。繊細な心を持つ次兄の悲しみは、真白にとっても悲しむべきことだった。
「次郎兄は、優しいから。悲しいことも、辛いことも、一人で抱え込もうとするから。…自分がしんどいのを隠すのが上手なのは、良いことじゃないよ。………私に出来ることはない?何でもする。頑張るよ」
真白が誠心からそれを言っていることが感じ取れた。
それがかえって怜には辛かった。少しだけ、笑う。
「真白の勘の良さは…、時々、残酷だね。―――――俺は困ってしまうよ」
言った瞬間、真白がショックを受けた顔をしたのが解った。
怜はそれ以上、真白の顔を直視していられず、顔を背けてリビングルームから立ち去った。
別荘の中、あてがわれた部屋のベッドに仰向けになり、怜は自己嫌悪に陥っていた。
(最悪だ……。体調の悪い真白に、身勝手な八つ当たりをした―――――太郎兄なら)
彼ならばきっとこんなことはないだろうに――――――――。
どう足掻いても取り返せない時間があるのなら、今、目の前にある時間の中で、それを埋める努力をするしかないというのに。
それがどれ程遠回りに見えようと。
(解ってる――――解っている。ただ、時々、どうしようもなく疲れたように感じることがあるだけだ)
埋められない差を見せつけられて。
真白は市枝と二人部屋だった。豪勢なベッドが二つ並ぶ部屋は広々として、天井からは控えめに輝く、品の良いシャンデリアが下がっている。壁には落ち着いた色調で描かれた抽象的な油絵が、銀色の額縁に収まって掛けてある。ユニットバスまでついたこの部屋が、別荘の中でもとりわけ上等な部屋であることは確実だった。急な客の為の、下着などの衣類も新品が備えつけてある。それは市枝に言わせると、各部屋に常に準備されているとのことだった。
怜の様子が気になると言って部屋を出た真白が、沈んだ顔で戻って来たので市枝は心配した。
「どうしたの、真白。……また具合が悪くなった?それとも、江藤がどうかした?」
真白は微笑んで首を横に振り、ベッドに腰掛けた市枝の隣に座る。
「ううん。…三郎や一磨さんたちも、一緒に来られたら良かったのに、って思って」
真白が話題を変えたがっていることを敏感に察し、市枝も話を合わせる。
「そうね。お仕事の都合がつかないんじゃ、どうしようもないわね。…その内、一緒に来られる日も来るわよ。またパパたちに、ここ、使わせてもらえるように頼んでみるから」
「うん。市枝、期末の結果、中間試験よりずっと上がってたね。勉強、頑張ったんでしょう」
市枝の両親は基本的に一人娘に甘いが、こと学問に関しては、相応の成績を出すことを求めた。そして娘が努力した見返りには、富裕な家に付随する特権を行使することを許した。別荘使用の許可も、その一環である。日本全国にチェーン店を展開するファミリーレストランの経営を、いずれは娘に引き継がせたいという思惑が、市枝の両親にはあった。
市枝が、真白や剣護たちと交流することを彼らが歓迎するのも、真白たちに勉学その他において、高い資質が認められるからであった。優秀な人間、というものを、市枝の親は好んだ。時折、市枝がそれらのことに関していらついたり、息苦しくなる時があることを真白は知っていた。
〝どんな風に生まれついても、何やかやあるわね、人の世は〟
市枝が以前、ふとした拍子にそう洩らしたことがある。今生が、前生より希望に満ちたものである保障など、どこにも無いのだ。
ボスン、とベッドに転がった市枝に、真白は労わりの眼差しを向けた。
「―――――まあね。我ながら今回は、良くやったと思うわ。褒めて、真白」
「うん。偉い、偉い」
そう言いながら、市枝の金茶色の頭を柔らかく撫でた。
市枝がまんざらでもない笑みを浮かべる。長い金茶の髪が、今日一日三つ編みにしていたので、軽くウェーブがかかってベッドの上に広がっていた。
目を閉じると、潮騒の音が大きく聴こえた。
「舞香さんって、良い人ね」
真白に執心を示す舞香に、初めこそ警戒した市枝だったが、話してみるとざっくばらんとして開けた人柄に、好ましいものを感じた。
「そうでしょう。―――――私、舞香さんの絵のモデルに時々、風見鶏の館にお邪魔してるんだけど、市枝のことも描いてみたいって言ってたよ。私と対で描いてみたいんだって」
「真白と対で?」
市枝が面白そうな顔つきになる。
「――…良いわね、それ」
それにしても、と市枝が続ける。
「…お腹が空いたわ」
キッチンには真白の為に作られたお粥があるだけで、食材はある程度用意されているものの、市枝も怜も、まだ夕食らしい夕食をとっていなかった。
それぞれシャワーを浴びるなり入浴するなりしたあと、体調の優れない真白を除いて、空腹を抱えて時間を過ごしていた。
市枝にとって食事とは、調理された状態で目の前に提供される物であり、自分の手で作るという発想は無い。そして、およそどんな事柄でも完璧にこなす愛すべき親友が、料理だけは苦手であることも承知していた。
「…江藤って、ご飯作れないの?」
真白が首を傾けて答える。
「―――――一応自炊してるから、それなりに料理も出来ると思うよ」
「訊いてみよう。駄目ならピザか何か、取りましょ。このままじゃ餓え死ぬわ」
市枝に手を引かれて、真白も一緒に部屋を出る。
「あ、待って。市枝。その前にお台所、借りても良い?」
〝太郎兄はお日様で、次郎兄はお月様みたい〟
それは、太郎が丁度、清隆と言う元服名を貰ったころだった。
若雪が笑顔で、兄たちをそれぞれ例えたことがあった。
〝ええ、俺は月のほうが良い〟
不満げに言う太郎の顔を見ながら、次郎も内心、太陽のほうが良い、と兄を羨んだ。
本人たちの賛同を得られなかった若雪は、小首を傾げて困った表情をしていた。
部屋のドアが叩かれる音で、怜は目を覚ました。
ベッドに仰向けに転がったまま眠り入る、ということは怜にはあまりないことだった。
(…昔の夢か……)
時折、前生での出来事が、水にぷかりと浮かび上がる泡のように、気紛れに夢となって訪れる。それは悪夢であったり、泣きたくなる程に懐かしい、幸せな夢だったりした。
若雪から月に例えられた時、自分は妹にとって二番目の存在だ、と明言された気がして落胆したのを覚えている。
(あのころからシスコンだったよな。俺も、太郎兄も三郎も)
三郎などは末っ子の特権で、おおっぴらに姉である若雪にまとわりついていたものだった。
ノックの音にドアを開けた怜の顔には、やや疲れがあった。
市枝はそんなこともお構いなしである。ずけずけと訊いてくる。
「江藤、あんた、夕飯作れない?」
「――――簡単な物なら作れないこともないけど。真白、お腹空いてるの?」
先程の気まずい遣り取りを引き摺らない顔で怜に問われ、真白は首を横に振った。
「ううん。私はそんなに」
「じゃあ、作れないってことで」
市枝を無視したその対応は、普段の怜と比べて、多少ぞんざいだった。
「……良い態度ね、江藤。今晩、海辺で野宿する?」
暗に作らなければ追い出すぞ、という脅しを受け、怜が溜め息を吐いた。
「市枝、ピザ、取ろうよ。次郎兄も、お腹が空いてるでしょう?それで、部屋で三人でトランプでもしない?」
真白の取り成しに、市枝が妥協する表情を見せた。
「真白、トランプなんて持って来たの?」
「―――――うん。私、海に入らないし、皆でする時間があるかもって思って」
真白が少し顔を赤らめて言った。子供じみていると思われただろうか、と俯く。
そんな真白を、怜が眺め遣る。
「女子の部屋に、俺が入って良いの?」
怜の言葉に、真白がパッと顔を上げる。
「うん、うん。次郎兄なら。良いよね、市枝?」
大した信頼だわ、と市枝が内心で嘆息しながら頷いた。
「あのね、次郎兄。私、レモネード作ったの。塔子おばあちゃん直伝のレシピだよ」
美味しいよ、と言う真白が、理由は解らないが気落ちしている怜の為に、それを作ったことは明らかだった。まだ兄を案じる瞳の真白を見ていると、次第に怜の心も穏やかになり、凪いでいくのを感じた。心に刺さった棘が、柔らかく押し流される。
「…言っとくけど俺、トランプ強いよ?」
怜が不敵な笑みを浮かべて宣言した。