面相 二 後
一週間後に行われた一学期期末試験において、陶聖学園高等部一学年の成績結果は、上から順に一位・門倉真白、二位・江藤怜、三位・成瀬荒太となっていた。中間試験と変わり映えのないこの結果に、怜は憂いを含んだ小さな溜め息を落とし、荒太は憮然とした顔になった。
そして、学生たちが待ち侘びた夏休みがやって来た。
真白と荒太は、濃い潮の匂いのする松林の中を歩いていた。
寄せては返す波の音が間近に聴こえる。
八月の第一週、真白、市枝、剣護、怜、荒太の五人は、真白の両親が海外勤務になる以前は門倉家がよく訪れていた、神奈川県の保養地に来ていた。
家の人間には、要と舞香の引率ということにしてある。自動車免許を持つ二人が、交代で大型レンタカーの運転手を務めてくれたお蔭で、比較的スムーズに目的地に辿り着くことが出来た。
「子供の時からここに来てたの?」
荒太の問いに、真白が頷く。
「うん。近くにお父さんのお友達が経営するホテルがあって、少し優待価格で泊まらせてもらえたの。私の身体の養生にも良いだろうって、お医者さんにも勧められて。近くに市枝のお家の別荘があるなんて、全然知らなかったけど…。絵に描いたようなお金持ちだよね、市枝のお家って」
白いAラインのワンピースを着て歩く真白を眺めながら、荒太は心の中で怜に感謝していた。剣護の提案通り、真白のガード役を決めるジャンケンで、またも荒太は怜に敗れたのだ。沈み込む荒太と、自分が出したパーの右手を交互に見た怜は、何を思ったか荒太に勝者の権限を譲ったのである。
今頃、彼は剣護たちと海に浸かっているだろう。
海に到着して早々、目の覚めるような朱色のビキニに着替えた舞香は、弟に「要、日焼け止め塗って~」とのたまうたが、要は赤い顔で「絶対、嫌や!」と言ってこれを拒否した。かくして夏を象徴するような晴天の下、水着姿の舞香と市枝が日焼け止めを塗り合う姿は、男たちの眼福となった。真白は水着で泳ぐ訳でもないので、日焼け止めを軽く塗って済ませようとしたのだが、忽ちにして「白い肌を粗末にするんじゃないのっ」、「今の肌荒れが十年後に響くのよ!」と女性二人のお叱りを受けたのだった。
そんな彼女たちの剣幕に圧された真白が、念入りに日焼け止めを塗ったあと、駄目押しとばかりに、剣護がつばが広めのラフィアの帽子を真白に投げて遣した。
「ほら、真白。これも被ってけ。陽射しがあんまりきついと思ったら、戻って来いよ。あと、風で身体を冷やし過ぎないように。おい荒太、頼んだぞ。お前らが戻って来たら、スイカ割りするからな」
細細と言う彼を見て、市枝がしみじみ、「剣護先輩って真白のお母さんみたいよね」と評した言葉に、剣護は打撃を受けていた。
「せめてお父さんと言ってくれ…」
そう弱々しく言った剣護を思い出しながら、荒太が口を開いた。
「真白さん……」
「何?」
訊き返す真白は、神界に赴く前より、大人びて見えた。てらいのない焦げ茶色の瞳が、荒太の顔を映し出す。思ったことは割と率直に口に出す荒太だったが、本人を前に「綺麗になったよね」とは中々に言いにくいものがあった。淡く色づいた彼女の唇に、引き寄せられそうになる視線を無理やり逸らす。
こうなってくると、水着姿でいないでいてくれたほうが、有り難いようにも思えた。自制心がよりぐらつかずに済むからである。加えて、自分の着る薄いミントグリーンのポロシャツとグレーのジーンズが、白いワンピースの真白の横に立つのに似合っているとも思い、密かに嬉しくもあった。
「何?荒太君」
心地好いトーンが耳に優しく触れて来る。波の音よりも心の落ち着く、快い響きだ。
「……右手、出して」
大人しく言葉に従う真白の手に、コロン、と青紫の雫が嵌め込まれた、金の指輪が載る。
太陽の光に反射して、それは金色に眩しく輝いた。
「これ…」
潮風に吹かれて、肩につきそうな長さの真白の髪が、サラリと靡く。海に来る前に、やっと美容院に行きアレンジしてもらった髪は、中性的な中にも女らしさが感じられた。
「時間かかってごめん。ブレスのままだと、また壊れるかもと思って。結局、知り合いの彫金師さんに頼んで厚めのリングに作り直してもらったんだ。フリーサイズだから、どの指にも調節出来るよ」
ここで荒太は、掬い上げるような視線で真白の目を覗き込んだ。焦げ茶色の瞳が瞬く。
「――――――どの指に嵌めたい?」
試すような物言いに、真白が微笑んで答えた。
「……左手の、小指」
「ピンキーリング?」
「そう」
少しだけがっかりしながら、荒太は指輪のサイズ調節をして、真白の左手の小指にそれをそっと嵌めてやった。白い手を持ち上げるだけで、柄にもなく鼓動が早まるのを感じた。真白が目を細める。
「…ありがとう。これでもう、壊れる心配が無いね」
そう言って真白は、小指に嵌まった指輪を、大切そうに撫でた。
「真白を荒太に任せて良かったのか?」
ビーチパラソルの下で寝転び読書する怜に、海でひと泳ぎしたあと、ブルッと頭を一振りしてから剣護が尋ねた。跳ね飛んで来た海水を、怜が片手を上げて防ぐ。本が濡れるのは困るな、と思う。
彼は先程まで女子大生と見える二人連れにしつこく誘われ、ややげんなりしていた。水着を穿きながら海に泳ぎに出るでもなく、パーカーを羽織り本を読む姿が、余程、暇そうに見えたのだろう。剣護や要も海辺を訪れた女性たちの目を引き、「御一緒しませんか」と言う呼び声が頻繁に降りかかった。一目でハーフと判る彼らの外見は、海水浴場と言う名の、出会いの場に来た女性たちにとって、格好の標的となった。怜を残して、二人は早々に海中へと避難したのである。怜は何となく泳ぐ気になれず、文庫本を手にパラソルの下に留まり、荷物番をしていた。もちろん、異性に声をかけられるのは市枝や舞香も例外ではなく、その都度、剣護たちが群れる男共を追い払った。
「真白は、そのほうが喜ぶ」
「お前なあ、人に譲り過ぎだって。どこまでお利口さんなんだよ?ジャンケンの結果は、神様の思し召しだろうが。子供時分を真白と過ごせなかったお前が、今、少しぐらい取り戻したって罰は当たんねーよ。――――――お、戻って来たな」
海辺の向こうに見える松林の間から、真白と荒太が姿を現した。
「ああ、やっぱり良いわねえ、海は!」
メリハリのきいた、素晴らしく豊かな肢体を空気に晒しながら、舞香が海から上がって来る。
「姉さん、泳ぎ過ぎや……。遠泳やないんやから」
舞香に付き合わされたらしい要が些かぐったりした様子を見せる横で、市枝もまた、チェックの柄のビキニに包まれた、見応えのあるプロポーションを浪間から披露した。舞香が大きくカールした金髪を一つに結わえているように、市枝も長い髪が邪魔にならないよう、一本の三つ編みにまとめていた。
「戻ったのね、真白」
市枝が笑みを浮かべる。身体からポタポタと落ちる雫が、陽光に煌めく。通りかかる男たちの視線は、彼女らの水着姿にかなり露骨に注がれていた。
「市枝はやっぱりスタイル良いね。羨ましいなあ」
真白が無邪気な声を上げた。
「よおし、じゃあスイカ割りだ、スイカ割り!トップバッター、俺なっ」
母親の許可をいただき、剣護が持参したスイカは大きかった。模試における、志望校の合格判定Aの結果が、こういうところで効いてくる。親も安堵の為に気前が良くなるのだ。
砂浜の上にシートを敷き、スイカを置く。目隠しをして十回、その場でグルグルと回る。
他の海水浴客も、剣護たちに注目しながら通り過ぎて行く。
「剣護、そのまま、まっすぐ!」
「剣護先輩、左よ、左っ。ああ、行き過ぎたぁー」
「違うわよ、剣護、後ろに下がりなさい!」
波の打ち寄せる音を背景に女性陣の出すはしゃいだ声の、一体どれが正しいのやら判らず、剣護は目が見えないまま途方に暮れてウロウロと彷徨った。足裏に感じられる、サラサラとして熱い砂の感触だけが確かだ。しかも、男性陣が自分を助けようとする声は、全く聞こえて来ない。
(薄情な奴らめ…)
その時、天の助けのように、要の声が響いた。
「剣護君、そこや。そこで棒を振り下ろすんや」
剣護の持った木の棒が、スイカの端のほうを叩き崩す。
「あぁ~、惜しい。先輩、意外と下手ですね」
目隠しを取った剣護が顔を顰める。荒太と怜がちゃっかり真白を挟んで座っているのだ。油断も隙も無い。
「何だとお。じゃあ今度は、荒太か次郎がやれよ」
そう言って、自分もまた真白の隣を確保する作戦に出る。
兄の次にスイカ割りに挑戦した怜は、見事にスイカを真っ二つにした。切り口にも、あまり乱れが無い。おお…、と言う歓声が周りから上がる。
真剣で切ったんじゃあるまいし、と剣護が呆れる。
「つまらん!次郎、お前、エンターテイナー性に欠けるぞっ」
「そう言われてもね…。これで目的は達成でしょ」
「解ってねーな。スイカ割りは合理的にする行事じゃないんだよ。むしろ非合理性の追求にこそ、その醍醐味があるんだ!」
その後は、皆で切り分けたスイカにかぶりつき、口からシャクシャクとした音を響かせた。
ぎらついた太陽の光が、スイカ割りの為にパラソルから少し離れた彼らの頭上より、燦々(さんさん)と降り注ぐ。
ラフィアの帽子を被った真白は、スイカの一切れを食べたあと、黙って顔を俯けていた。
そこでふ、と剣護の顔が真白に近付く。
「―――――どうしたの、剣護」
「お前、今、具合悪いだろ」
緑の目が真剣になっていた。真白が視線を泳がせる。
「……ちょっと、気分が良くないだけ」
困ったように笑いながら言う。真白の額を、サッと大きな掌が覆った。その場にいる全員の注目が集まる。
「…熱は出てないな」
剣護が、少し考えると市枝に尋ねた。
「市枝ちゃんちの別荘って、もう入れる?」
「入れるわよ。管理人の人が、今日には使えるようにしてくれてるわ。ガスや電気なんかも、全然問題無い。鍵も、私が預かって来たから。―――――――真白、先に中に入りましょう。潮風に、当たり過ぎたかしらね。日は照ってるけど、今日の風は少し冷たいから」
荒太は行き交う会話を聴きながら、散歩中、真白の体調不良に気付かなかった自分を恥じていた。
(剣護先輩は気付いたのに)
怜に束の間、託された信用も、これで失墜したことだろう。
後悔に暮れる荒太の顔を、怜がじっと見ていた。