面相 二 中
陶聖学園高等部の新校舎と旧校舎は、二階の渡り廊下で繋がっている。
旧校舎のほうは美術室や音楽室、主に文化系の部室に使われていた。
月曜の早朝、まだホームルームも始まる前に、渡り廊下を新校舎側から歩みを進める竜軌の向かいから、静かに歩いて来る怜の姿があった。
着崩した制服に赤いピアス、赤いエクステが黒髪の一部から浮き出る竜軌と、シャツのボタンをきっちり一番上まで留め、ネクタイを端整に結んだ怜の外見は正反対の印象を持つ。
二人共、声をかけ合うこともなく、表情に浮かぶものも、何もない。
すれ違うまで5メートル、3メートル、1メートルと互いの距離が縮まる。
二人がすれ違った次の瞬間、竜軌の右頬がパックリと裂けた。深い傷口から流れる血を荒く拭い、竜軌が舌打ちする。
怜が唱え言の刃を、一瞬の内に放ったのだ。
秀麗な面持ちに、氷のように冷たく冴えた目をして、怜はそのまま通り過ぎて行った。
「釈明なされませ。兄上」
昼休み、竜軌を空き教室に呼び出した市枝は、腕組みをしてそう言い放った。長い睫を備えた目は、据わっている。並みの男であれば萎縮するであろうその眼差しに、しかし竜軌は億劫そうな視線を返しただけだった。右頬には長方形の薄いガーゼのようなものが、狭くない面積を占め貼り付けられている。
「お前らは真白の親衛隊か?煩わしいことこの上ないな」
「………それが兄上の御返事ですか」
「どうとでも取るが良い」
市枝は形の良い眉を顰めた。
「なぜですか。……前生のころより、兄上はあれ程、真白には気を掛けておられましたのに。何ゆえこたびのような狼藉を働かれたのです」
竜軌は片眉を上げ、ふふんと笑う。
「奇妙なことを申すな、市。決まっておろう。欲しいと思うた。ただそれだけのことよ。前生では年が離れ過ぎて、食指も動かなんだが。儂は猿め程、年に盲目にはなれぬゆえな。…したが今生であれば、真白を手に入れるに支障は無い。荒太にあの雪の肌は勿体無いわ」
好色な竜軌の物言いに、市枝が信じかねる、と言う表情を見せた。
金茶の髪を、一度だけ後ろにかきやる。細めた双眼に宿る光に、肉親への情は無かった。
「――――よう、解りました。ならば市は、真白の為に百花の刃を兄上に向けましょう。…兄上がそれを、真に望まれますならば」
竜軌の返事は短かった。
「好きに致せ」
一年A組の教室の窓際中程の席に、昼食をとる為に集まった面々の空気は、和やかとは言えなかった。
「信じらんない、あの莫迦兄!エロ兄!スケベ兄!!昔はあんなんじゃなかったのにっ」
嘆かわしい!と、尚も市枝が気勢を上げる横で、怜は静かにサンドウィッチを食べている。荒太も黙々と弁当を平らげるのに集中して、二人の間の机に弁当を広げる真白は、笑みを浮かべて黙っている。――――――この真白は、真白本人ではない。嵐下七忍の内、〝七化けの水恵〟の異名を持つくノ一・水恵の扮装である。真白が神界に赴いている間の身代わりとして、門倉家や高校での時間を過ごしているのだ。慣れない状態への戸惑いを抱きつつ、市枝たちは必要と思われる演技をすることで、周囲の目を誤魔化していた。
教室の窓の外には、今日も青々とした空が広がっている。人々を疲弊させんばかりに太陽が熱を放ち輝く日が、このところ続いていた。
「なあ、夏休みに入ったらさ、海に行かね?」
呑気な声を発したのは、三年なのになぜか一年の教室に紛れ込んでいる剣護だった。真白に扮した水恵の、斜め後ろの机に腰かけている。上級生である、ということに加えて存在感が強く、何かと有名人である彼がいると、教室にいる生徒の注目は嫌でも集まる。ビジュアルの面から見ても人目を引く顔ぶれだったが、そこはかとなく発生される近寄り難い空気に、クラスメートたちは遠巻きにして彼らの様子をちらちらと窺っていた。
市枝がキッと彼を睨む。
「今、そんな話してないわよ、剣護先輩」
「わーかってるけどさ。ほら、最近色々あったからちょっとカリカリしてるだろ、皆。期末試験が終わったら、ここらでリフレッシュしたらどうかと思ってね。人間、たまにはガス抜きも必要だぜ?俺、夏期講習は受けるけど、スケジュールのやり繰りしたら、一日空きを作るくらい簡単だし」
兄の言葉に、怜が応じる。
「なら、いっそのこと要さんや舞香さんも誘ったらどうかな。真白の気分転換にも丁度良いだろう」
荒太の箸を動かす手が止まった。
「海か…」
ポツリと呟く。その左頬には鮮やかな青あざが出来ている。拳を振るった張本人である怜は、涼しげな顔で昼食を進めている。誰もが暑さに閉口している時節に、汗一つ浮かべていない。荒太があまり怜を好かない点は、こういうところのせいもあった。ネクタイを緩めて「あっちー、あちー」と言いながら、〝増田町ふれあい商店街〟と印刷された団扇をハタハタと動かしている剣護のほうが、余程、親しみが持てるというものだ。荒太の青あざは、怜にしてみれば、自ら付き添いを志願しておきながら、大事な妹を危険に晒した彼に対する当然の報いだった。荒太も、今回は甘んじてその拳を受けた。
しかし切り替えの早い荒太の頭の中では、それも今やとうに昔の出来事だった。
海と言えば水着である。女らしいスタイルの市枝や、豊満なボディの舞香の水着姿も魅力的だろうが、真白の水着姿を前にして、果たして自分は冷静でいられるだろうか、と荒太は考えていた。冷静でいられなかった場合には、拳どころではなく、今度は臥龍と虎封による制裁が下るだろう。
テレビアニメのように、〝成瀬荒太ここに眠る〟という墓標が波打ち際に立つイメージが、やけにリアルに想像出来た。またそれが、笑い話や冗談で終わりそうにないのが怖いところだった。
(それに、真白さんが水着を着てるところ、他の野郎には見られたくないしな……)
悩みは尽きない。
「…海かあ」
もう一度、呟く。
そんな荒太をちらりと見下ろし、剣護が口を開く。
「………どんな妄想してるか大体想像つくけどな、荒太。真白は多分、水着は着ないぞ?」
「どうしてっ!!」
言外に、有り得ない、と言う顔で目を剝いた荒太の左頬を、剣護が団扇の柄の先でつつき、「いてえっ」と言う悲鳴が上がる。
「あいつ、身体が丈夫じゃねえもん。今まで何回か、門倉両家の家族ぐるみで海に行ったけど、真白は大体、砂浜を散歩したり、スケッチしたりで大人しく過ごしてたぞ。主治医の先生に相談してみないと判らんが、今回も多分そうなるだろう」
荒太が、あからさまに落胆した顔を見せる。
真白の水着姿における考察で悩みはしたものの、実際には拝むことが出来ない、と知らされると、やはりがっくりくるものはあった。
「―――――今、俺の中で海の存在価値が消えて無くなりました」
「…世の漁師さんが聞いたら泣くぞ、それ」
剣護が白々(しらじら)とした顔で言う。
怜が荒太に向ける視線は冷ややかだった。
「それでも、ナンパを追い払うガードはいるだろ。俺が真白の散策なりスケッチなりに付き合うよ。真白の水着姿しか興味無い成瀬は、ビーチで寝てたら?」
荒太も負けじと口を開く。
「どうしてそうなる。真白さんの行動には俺が合わせる。江藤の出番は無いよ。お世話になった舞香さんや要と親交を深めろよ」
「それはまた別の話だ。そもそもお前、人のアパートに不法侵入した挙句、一晩で冷蔵庫の食糧を食い尽くすってどういう了見なの?どんな胃袋してるのか、見てみたいよ」
こいつやっぱ、根に持つ性質だ、と荒太は改めて認識しながら怜に反論する。
「…緊急事態の非常措置だろうが。お前を捜したりして駆け回る為にも、エネルギーが必要だったんだよ。腹が減っては戦も出来ないだろ。その代わり、部屋を片付けてやったんだから、文句言うなよな。それで、真白さんのガードは絶対に俺がするから!」
反論しながらも、話はしっかり海に戻っている。話の本筋を見失わない執念はある意味、見上げたものだった。
自力で動き回れる程度に身体の回復した怜が、風見鶏の館からアパートに数日振りに帰還した際、彼を待っていたのは空になった冷蔵庫と、最後に見た時よりも綺麗に整理整頓された部屋だった。
「成瀬のガードね…」
「何か問題でもあるかよ」
含みのある怜の口調を、荒太が追及する。
「問題と言うより疑惑かな。…お前に真白を守らせるって、狼に羊の番をさせるような気もするんだよね」
身に覚えのないこともない荒太は、ペットボトルから冷えたお茶を一口飲んで、表情を繕った。頭の中で、怜を好きになれない理由の項目に、〝嫌に鋭い〟という事項が加えられる。
「…………なあ、お前らさぁ、そういうのはジャンケンで決めたら?」
会話の終着点が見えない怜と荒太の二人に、面倒臭そうな顔で剣護が言った。
その日の晩、受験勉強に励んでいた剣護は、感覚に引っかかるものがあり、顔を上げた。
部屋の窓に近付き、カーテンを開ける。隣家の庭を見れば、仄かな光がともっていた。
(――――――戻ったか)
家族も皆寝静まった深夜なので、物音を立てないように家を出て、真白の家の庭に入り込む。槇の樹の生け垣の向こうに、緑の葉を茂らせる桜の樹が立っていた。
淡々(あわあわ)とした仄白い光は、次第に人の形を成してゆく。先程まで賑やかだった虫の音が、今では静まり返っている。
光が収まった時、そこには静かに佇む妹の姿があった。華奢で細い身体から、侵し難い気品のようなものが感じられる。
降臨、という言葉が、剣護の頭に浮かぶ。
(しろ…、だよな)
見間違えようのない風貌だが、どこか今までとは異なる気配に、剣護は軽い戸惑いを覚えた。真白の焦げ茶色の髪は、心なし、坂江崎家で別れた時より伸びたように見える。
「…真白」
サラサラと髪をそよがせて、こちらを向く白い貌。
淡い色の唇がほころんだ。
「剣護―――――ただいま」