面相 一 後半部
岩手県釜石市・片岸海岸。
土曜日の早朝、砂浜に大の字に寝転がる女性の姿があった。
薄い茶色のショートカット。白いタンクトップにジーンズを穿いている。妙齢の女性が取る行動としては、世間の常識とかけ離れている。
見開かれた薄茶の目は、晴天を映していた。
「…お姉ちゃん、何してるの?」
近くを通りかかった男の子が、不思議そうに尋ねる。
女は数秒の沈黙のあと、答えた。
「―――――本来なら私は、ここで生まれる筈だった。ここを含む東北・関東の、広い、広い地域で生まれ、あらゆるものを押し流し、呑み込む運命の筈だった……。多くの人の、嘆きを呼び。けれど、私はそのように生じることなく、人型を得た。……その理由を、考えている…」
彼女が口にする言葉の意味がさっぱり解らず、男の子は首を傾げると「変な奴ぅー」と言って走り去った。
そこにまた、別の声がかかった。低く、艶のある男の声。
「こんなところで何をしている、アオハ」
アオハと呼ばれた女性が視線を巡らせると、寝転がった頭の上方にチャコールグレーの色が見えた。
「…ギレン。潮騒に…訊いていた。地球の鼓動に。―――――私の、ルーツを」
「とりあえず起きろ。髪にも服にも砂が貼りつくぞ」
チャコールグレーのスーツを着た男性に腕を取られ、彼女はぼんやりと起き上がる。
「どうせ全ては仮初めなのに。ギレンは変なところに拘る」
「仮初めだからこそ、だ。粗末にするんじゃない」
諭すように男は言うと、持っていた煙草に火をつけた。
「………あと、何人残っているの?私たちの、同胞は?」
煙を吐いて男は答える。
「六十といったところだ。新たな姿の我らが兄弟にも、順応が思ったより早かった。花守にしろ、門倉真白たちにしろ」
立ち上る紫煙と、男性の顔を女性は見比べる。
「殺すことに慣れてきたということ?」
「そういうことになるかな」
淡々とした遣り取りだが、口にする言葉には剣呑なものが混じる。
「―――ギレン。どうして私は生まれたの。…災いを成す者として」
「……甚大な霊力の塊である吹雪が招く筈だった、災厄の成り代わりが私や、お前や、他の魍魎たちだ」
子供がむずがるように、女が首を横に振る。薄茶の髪も、合わせて揺れる。
「そんなことを訊いているのではない。どうして、私という意識が、アオハという形をもって存在する者に選ばれたのか、それを訊いている。この、心が、なぜアオハに選ばれたの?」
ギレンの瞳は宙の煙を追った。
「―――――それは私にも答えられない。同じ問いは、私にも言えることだ。存在の根源に触れる問いに、答えられる者はそうはいないよ、アオハ」
あどけなく、澄んだ瞳の女性が、顔を歪ませて呟く。
「……同胞が、死ぬのは嫌」
「ああ――――――そうだな」
けれど、とギレンは煙草を吸いながら目を細める。
(魍魎の数が減るということは、すなわち花守や門倉真白らが、殺人を犯す域により近付くことを意味する。透主を含め、我々が全て壊滅された時には、奴らも立派な殺戮者だ。その事実を、どう受け止めるかな―――――――)
ギレンは寄せる波を見つめ、目を細める。
最初から、敗北が見える戦いだった。
肝要なのは戦いが終わったのち、勝者側である彼らの胸に、どれだけ深い傷を残せるかということだ。心を抉るような、深い傷を。
忘れられない為にも。
海の彼方を見つめるアオハの隣に立ち、ギレンが考えるのはそんなことだった。
潮風に混じり、紫煙が流れて行く。
「おはよう、剣護君、真白ちゃん。どうぞ、入って」
一磨の声に迎えられ、真白と剣護は坂江崎家に足を踏み入れた。
勧められるまま、リビングの茶色い革張りのソファに座る。一階の間取りは門倉家とほぼ同じで、オープンキッチンの向こうでは一磨が慣れない手つきでコーヒーカップを並べている。
「コーヒーで良かったかな?」
一磨の言葉に二人揃って「はい」と答えたものの、キッチンから聴こえて来るガチャ、ガチャン、バタン、といった騒音に、真白は不安を覚えた。
普段から、キッチンでテキパキと立ち働く従兄弟を見慣れているので、比較して台所仕事に慣れない人の動きだと、一目で判る。
思わず「私が淹れましょうか」と言いそうになるが、この場では差し出がましいかと思い、控える。
「奥さんと碧君はお出かけですか?」
剣護の問いにシンクの向こうから、一磨がひょっこり顔を出す。
「そう、デパートに買い物。来年は碧も小学生だし、色々と今から準備すると、家内は張り切ってるよ―――――えーと、ミルクと砂糖はいるかい?」
「お願いします」
「どこだったかな…」
今度は一磨からの問いかけに、剣護が答えた。
真白はブラック党なので黙っている。
少ししてから、一磨が覚束ない手つきで、コーヒーカップが載ったトレイを運んで来た。
リビング中央の、楕円形の明るい木目のテーブルに、カップを並べる。カップは小花が可憐に散る柄だ。美里の好みだろう。
「すまないね。いつもは美里がドリップ式で淹れてくれるんだが、僕はどうも不調法で、淹れ方がよく解らないんだ。インスタントで我慢してくれ」
いただきます、と真白と剣護がカップに手を伸ばす。
「…荒太君も来るんですよね?」
真白がちらりと一磨の顔を窺うように見る。
「…ああ、嵐どのだな。うん。十時頃に来ると言っていたから、じきに来るだろう。剣護君にはその前に、自己紹介をしておこうか」
一磨の改まった声に、剣護がミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーを飲む手を止め、カップを置く。
「私は嘗て、石見国は邑智郡、温湯城主だった小笠原長雄の次男、小笠原元枝と称した者だ。父の代より石見銀山との関わりが深かった為、堺の豪商・今井宗久どのと、毛利に隠れて銀と諸物資の取引をしていた。若雪どのとは、その交渉役として石見に参られる以前よりの知己でな。若雪どのを我が館まで迎えに来られた嵐どのとも、昵懇の間柄となったのだ」
一磨の口調は、中世戦国の時代人そのものだった。
剣護は彼の語る独特の空気に釣られ、自分まで出雲大社・神官家の嫡男だった小野太郎清隆に戻った気がした。
「剣護君は、若雪どのとはどういった間柄だったのかな?前生でも浅からぬ関わりがあったと見受けられるが」
一磨の目は、近所の男子高校生を見る目ではなかった。一人の人間の人格を、重みを測ろうとする、上に立つ者特有の目だ。
「――――――俺の前生は、出雲大社の神官家・小野家の嫡男、小野太郎清隆。……小野若雪の一番上の兄にあたります」
「ほう、成る程。兄上どのだったか。もう一人、最近、門倉家に出入りしている彼は?ここ数日、姿が見えないけど」
怜のことだ。
「あれは、次男です。小野次郎清晴。今生の名前を、江藤怜と言います」
一磨が腕を組む。
「ははあ。それで、うちの碧と君たちとは、どういう関係になるのかな?」
「碧は、三男…末弟です。若雪の弟に当たります。前生名は小野三郎」
「…元服名が無いな」
一磨の指摘に、剣護も真白も、痛いところを突かれた面持ちになる。
「―――――――三郎は、元服名がつく前に亡くなったので」
得心が行った、という顔で一磨が軽く頷いた。
「そうか。若雪どのの家族は皆、山田正邦の雇う刺客の凶刃に斃れたのであったな……。そうか………あの子が。…奇縁よな」
実際、小野家の末弟が、前生で若雪と縁の深かった、小笠原元枝の転生者の息子としてこの世に生を受けたのは、奇縁としか言い様が無かった。
物思う顔つきになった一磨に、剣護が尋ねる。
「あの、坂江崎さんは、どうして真白が若雪だと判ったんですか?…碧と俺たちとが関わりがあるって」
「ああ……何となくね。僕が前生の記憶を思い出したのはまだ学生の時だったが…。今生で歳を重ねるにつれ、判るようになったんだよ。こちらに引っ越して来てからすぐ、真白ちゃんが若雪どのだと気付いたよ。前生で直接の関わりがあった人間は、それと判りやすいらしい。理屈では言えない勘のようなものが働くんだ。もちろん、全員が全員、判る訳ではないがね。それからね、目を凝らすと糸のようなものが見えるんだ」
「――――糸?」
「そう。碧と、真白ちゃん。それから剣護君たちの間を繋ぐ、うっすらと光る糸のようなものが。それは僕と真白ちゃんの間にもある。例えるなら、そうだな。蛍の光跡のような。だから君たちとうちの子に、何か縁があったらしいと考えた。赤い糸という言葉も、そう莫迦にしたものではないものかもしれないね。君たちもその内、今よりも明確に、出会う人との前生における縁の有無が判るようになるよ」
一磨の語る経験と知識は、先達を持たない真白たちにとって頼もしいものだった。
そこまで話した時、チャイムの鳴る音が響いた。
一磨に案内されて、リビングに入って来た荒太を見た瞬間、真白は隣に座っていた剣護の背に隠れるようにしがみついた。
一磨と荒太が目を丸くする。
理由の解る剣護は、どうしたものかと考えた。
「…真白。気持ちは解るが、お前がそのままだと、話が一向に進まないぞ」
剣護の言葉に、真白は恐る恐る座り直したが、左手は兄のシャツの裾を掴んだままだった。決して荒太と目を合わせようとしない。
理由が解らないままに避けられた荒太は、困惑の表情で二人の向かい、一磨の隣に腰を下ろし、これまでの話の流れの説明を受けた。
「荒太君、コーヒーを飲むかい?オレンジジュースもあるけど」
話が一段落したところで、一磨が尋ねた。
「じゃあ、オレンジジュースをお願いします」
一磨がキッチンに立つ間も、真白はずっと荒太から目を逸らし続けている。
(おー、睨んでる、睨んでる)
とりあえず荒太は、苛立ちの矛先を剣護に向けることにしたようで、仏頂面の眼差しは剣護に注がれた。八つ当たりの的ととなった本人は、やれやれと思っている。
オレンジジュースの入ったコップを手に戻って来た一磨は、荒太と真白に親しげな笑みを向けた。
「前生で、嵐どのと若雪どのが我が館を再訪してくれた時は、真に嬉しかった。天正十一年に祝言を挙げられたとは聞いたが、そののちに逢えるものとは、夢にも思うておらなんだゆえな。あの折に、若雪どのの懐妊も判ったのであったな。……お二方共、実に幸せそうで。嵐どのも若雪どのも、それまでに見たことのない顔をしておられた……」
荒太も真白も、その言葉を聞いて一磨の顔を見た。
荒太は、幸福な記憶を真白とも共有したいと思い、彼女の顔に目を遣ったが、真白はまだ頑なに荒太の顔から目を逸らしていた。荒太の中で、何かがぷつり、と音を立てて切れた。
「―――――――剣護先輩、あとの説明、よろしくお願いします。俺、真白さんに話があるんで。一磨さん、ちょっと失礼します」
荒太は立ち上がると、向かいに座っていた真白の右手を掴み、強引に引っ張った。
「―――――――嫌だ、剣護」
しかし剣護は、シャツを掴む真白の左手を、柔らかく振りほどいた。
「…話をして来い、真白。このままじゃ、ちょっとばかし荒太が気の毒だ。―――――泣かせるなよ」
最後の一言は、荒太に対してだった。
「お邪魔します!」
勢い良くそう言って、荒太は真白の手を掴んだまま、門倉家に上がり込んだ。
「あら、成瀬君。……どうしたの?」
普段から着物姿でいることの多い、おっとりした祖母の絵里が、二人の様子に目を丸くしている。
「ちょっと真白さんに話があるんで、二階に上がらせてください」
「あらまあ、どうぞ?…乱暴は控えてちょうだいね?」
「解ってます」
そのままダダダダッと二階に上がる荒太と、彼に引っ張られる孫娘の後ろ姿を、見送る絵里に声がかかる。
「どうしたの?」
「ああ、塔子さん。今ね、真白ちゃんと成瀬君がお二階に上がって行ったんだけど。何だか成瀬君、思い詰めた様子だったから。大丈夫かしらと思って」
同じく真白の祖母である塔子は、深い色の唇に笑みを形作る。
「――――――心配無いわよ、絵里さん。真白ちゃんもお年頃ってこと。このぶんだと剣護離れも、そう遠くはないかしら?あの子、寂しがるわね、きっと」
二階の真白の部屋では、真白が座り込み、項垂れていた。荒太はその正面に正座している。
向かい合って座る二人を、飛翔する鷹の写真が見下ろしている。
「…………何で俺のこと避けるの、真白さん」
荒太の声音には、彼の混乱する内面が表れていた。
「……………」
「…昨日のこと?俺が、真白さんをちゃんと守れなかったから、怒ってるの?」
真白が首を横に振る。
「……俺のこと、嫌いになったの?」
これにも、真白は激しく首を横に振った。
「…じゃあ、どうして?」
真白が畳を見つめたまま、かろうじて聞き取れる声で言った。
「…荒太君に…、荒太君にあんな格好、見られたから………」
その言葉で、ようやく荒太にも合点が行った。
また、真白にしてみれば勝手だろうが、僅かに、嬉しいという思いが心に生じた。
真白が竜軌によって乱された姿を、荒太に見られて強い羞恥を覚えるということは、それだけ荒太を、特別な好意を向ける相手として見ているに他ならないからだ。
(――――俺の配慮が、足りなかった)
そっと口を開く。想いが届くように祈りながら。
「真白さん。俺、真白さんのことすごく好きだよ」
真白が少し顔を上げる。
「…すごく、すごく好きだよ。多分、真白さんが想像してる数倍は。嫌われたくないから、今はまだ全然、良い子ぶってるけど」
続きを口にするかどうか、荒太は迷った。
「……真白さんが許してくれるんなら、真白さんの全部、今すぐにでも欲しいくらいだ」
それは真っ正直で飾らない、荒太の本音だった。
真白の目と荒太の目が合った。
荒太がホッと息を吐く。
「やっと、こっち見てくれたね」
赤面した真白が小さく尋ねる。
「荒太君…。…あの、今、言ったこと――――――――」
「…うん。嘘じゃないよ。でも怖がらないでね。真白さんが嫌がることは、絶対しないから」
竜軌と荒太は違う、ということを、真白は心に刻んだ。
「――――――あんな姿見られたから、今日、どんな顔して会えば良いのか、判らなくて」
「うん」
「………ごめんなさい…嫌な思いさせて」
荒太は何も言わず、真白を抱き締めた。
温かくて柔らかくて、心許無い程に細い身体を抱き締めながら、こうすることだけで、いつまで自分は満足していられるだろうかと考えていた。
「あのね…荒太君…」
耳元をかする真白の吐息にも、自分が刺激されるのを荒太は感じた。
「…キ………」
キスなら、と言う蚊の鳴くような声を聴いた瞬間、荒太の理性が飛んだ。
真白の顔を両手で包み込み、仰向けると深く口づけた。そのまま、真白の唇を貪るような勢いは止まらず、舌を入れ込む。真白の身体がビクン、と動くのを感じた。
真白が赤い顔で、必死に応じようとする姿が愛しかった。
(欲しい。欲しい。欲しい。欲しい)
焼けるような衝動に尚一層、舌を深く動かし、彼女の内側を探ろうとする。
そこで限界に至った真白が、唇を離した。
乱れた髪の下、垣間見える顔は赤く、肩で息をしている。ここまで荒太が激しい動きに出るとは、真白は予想していなかったのだ。兄たちの示す緩やかで穏やかな愛情に比べ、荒太の熱情はひどく切羽詰まっていて、真白は顔が火照る思いがした。荒太の内側には、満たされた思いと、未だ残る欲求とが渦巻いていた。
(―――――やばい…。止まらなくなるところだった)
嵐もそう堪え性があるほうではなかったが、長い年月、良く耐えたものだと改めて思う。
自分には到底、真似出来そうもない。