憧憬 四 後半部
「…嘘。元枝どの―――――!?」
「あなた!!」
真白が声を上げるのと、坂江崎美里の一喝が響くのは、ほぼ同時だった。
エプロン姿で腰に両手を当てた妻の怒声に、一磨が回覧板を取り落しそうになり、そろりと振り返る。夫婦の力関係を、如実に物語る仕草だった。
「おう、美里。…どうした」
アスファルトを力強く踏みしめた美里の口から、夫を諌める言葉が放たれる。
「どうしたじゃないわよ。回覧板をどこまで遠くへ持って行ったかと思ったら、若者たちの青春に首を突っ込んでるなんて……。良い大人が、出歯亀なんてするもんじゃないわ。とにかくあなた、回覧板、早く届けてください。私、碧を置いて来てるんですから。…ごめんなさいね、真白ちゃん、剣護君、…剣護君のライバル君?時には拳を突き合わせたって、良いと思うわ。若いんですもの。存分に、青春の続きをしてちょうだいな。さ、行きましょう、あなた」
小柄な美里にTシャツを引っ張られ、一磨は剣護たちに手を振った。
「…まあ、そういう訳だから、感動の再会話はまた明日にでも」
「こら、もう。若い子たちのことは放っておいてやりなさい」
カア、カア、と烏がまだ鳴いている。
残された真白たちは、呆気に取られていた。
「元枝どのって、恐妻家だったっけ……?」
真白が、妻に追い立てられる一磨の後ろ姿を見ながら、目を瞬きさせている。
荒太が唸るようにして真白に答えた。
「いや、八重花どのはもっと控えめで、清楚な感じだった。…あの奥さん、どうなんだろ。八重花どのだとしたら、変われば変わるなあ。魂の神秘と言うか」
真白と荒太の会話に、剣護はついていけない。
「…何か、いまいち締まらない再会に見えたんだが、坂江崎さんちの旦那さんが、何だって?…碧の、――――三郎の父親ってだけじゃないのか?」
差し挟まれた剣護の疑問に対して、真白が我に返り、剣護の身体にしがみついたままだということに気付く。
これでは美里に誤解されても無理はない。
しかし真白は、剣護から離れようとしなかった。剣護に説明しようと言葉に出したことで、改めて竜軌への恐怖が蘇ったのだ。
黒い一対の瞳――――黒い光。思い出すだけで再びブルッと震えが走る。物心ついた時から慣れ親しんできた、優しい緑の眼差しとはまるで違う―――――――。
「ええと、真白。とりあえず兄ちゃんの身体を、一旦解放してくれないか」
「……………」
それでも真白は離れようとしない。剣護の身体が救命ボートであるかのように、懸命にしがみついている。
(…駄目だこりゃ)
次第に暗くなる空に向け、剣護が諦めの息を吐いた。
「荒太、大体事情は解ったから、お前はもう帰れ」
「―――――――――はい」
「怨念の籠った目で俺を見るな、俺を。敵は本能寺だろうが」
「…真白さん。ブレスレット、速攻で作り直すから、待ってて」
荒太の言葉には熱と力があった。
剣護にしがみついたままの真白が頷く。
「ごめんね」
「良いって」
結局、剣護はしがみつく妹の身体を引き摺るようにして、そのままズルズルと真白の部屋まで上がった。
祖母たちが真白の様子を心配して、剣護に上がっていけと勧めたせいもある。
「―――――しろ、とりあえず座ろう」
剣護が腕の中に呼びかけると、真白は小さく頷いた。
手足の長い剣護が胡坐をかくと、華奢な真白の身体はその中にすっぽりと収まる。互いの体温と体温がくっつき合い―――――――実際のところ、かなり暑い。しかしここで、暑苦しいと言って真白を突き放すことは、剣護には到底、不可能だった。
「おーい、真白。顔、上げてくれー」
真白が無言で首を横に振る。顔を見せたら良くないことが起こると、信じてでもいるかのような頑なさだった。
(この腕の中は怖くない。怖くない)
視野狭窄に陥っている今の真白にとって、兄の腕の中だけが安全地帯だった。
(………昔からそうだった。何かあったら傍にいて、慰めてくれた)
それが当然のような顔をして、常に剣護は真白を庇護する空気を纏い、立っていた。
真白の両親がイギリス勤務になってからは、剣護は真白にとって父代わりであり、母代りでもあった。
〝真白…。本当に、お母さんがいなくなっても大丈夫?〟
先にイギリス勤務をしていた父のあとを追うように、母もまたイギリスへの転勤が決まった。心配そうに尋ねてくる母に、真白は頷いた。
〝うん。だって、剣護がいるもの。剣護がいるから、大丈夫だよ〟
〝そう………?〟
複雑な瞳で微笑した、母の顔。
真白がまだ小学生、剣護は中学生の時だった。
剣護がいるから、大丈夫――――――――。
それは半分、強がりだったが、半分は本音だった。祖母二人も頑張ってくれたが、剣護がいなければ、両親不在の寂しさに耐え切れなかっただろう。
剣護の腕の中はいつも、温かなお湯に浸かるような安心感を真白にもたらす。
この腕が、前生のぶんまで取り戻そうと、ずっと自分を守って来てくれたことを、真白は知っている。怜もまた、同じように自分を守ろうと手を伸ばしてくれる。
それぞれに、負い目を感じているのだ。
(前生で私一人残されたのは、兄様たちのせいじゃないのに)
「剣護。剣護、剣護―――――――」
名前を呼べば落ち着いた。一回名を呼ぶごとに、自分の身体を温かな膜が包み、重なって層を成してゆくように感じた。酸素が増えて、呼吸が楽になるように思える。
「…悪かったな、いてやれなくて」
荒太に任せるのはまだ早かったか、と剣護は思案する。
妹が生まれて初めて味わったであろう恐怖を思うと、いたたまれない気持ちになった。
「―――――大丈夫だ、真白。もう誰にも、こんな真似は許さないから」
力強く、確固とした声が響く。
普段どんなにおどけたり、気ままな言動を取っていても、剣護は明言した事柄を必ず果たす。緑の瞳は、決して真白を裏切らない。
(それも私は知ってる。ずっと一緒にいたから)
「うん。…うん――――。剣護。私、…今日初めて、男の人を本気で怖いって思った」
くぐもっていても、真白の声からは恐怖が感じ取れた。
「そうか…」
暗に「男の人」の枠から除外された剣護は、やや複雑な心境だった。
真白の背中をポン、ポン、と叩きながら言う。
「…なあ、しろ。他に言いたいことはないか?何でも良いぞ。何でも聞いてやる。――――――――全部、ぶちまけちまえ」
真白の身体が、それまで以上にギュッと縮こまり、固くなる。
「……剣護。荒太君に、…見られた。絶対、あんな姿、見られたくなかったのに。………恥ずかしいよ。…恥ずかしくて死にそうだよ……」
最後は消え入るような声だった。真白の中では今更ながらに、激しい羞恥の念が込み上げていた。ボタンの取れたシャツの胸元を、露わになった肩を見た時の、荒太の目――――――――――。思い出す程に顔が熱くなる。次に彼に会う時、どんな顔をすれば良いのか解らない。
「気にすんな。今頃、あいつのほうが百倍は恥じ入ってるさ。お前をちゃんと守れなかったってな」
真白が、涙ぐんだ目を上げる。
「本当に…?」
「ああ。でなきゃ、男じゃねえよ」
真白の目を見ながら、剣護が頷く。
(…結局、何が狙いだった――――――織田信長。単に欲しいというだけで、安直に行動を起こすような奴じゃない)
また、真白はいつ、再び神つ力を操れるようになるのか。
雪華を呼べない状態で、真白を外に出すのは余りに危うい。
(学校を休ませるのが一番なんだが……)
熱も下がり、ようやく登校出来ると喜んでいた真白が聞くだろうか。
ふと気が付けば、腕の中がやけに静かだ。
「…おーわー」
(こいつ、寝てやがる――――――俺をホールドしたまま。…コアラかよ)
そっと振りほどこうとしても、腕が離れない。
祖母に助けを呼ぶ声を上げようとした時、真白が眠ったまま呟いた。
「太郎兄――――――」
剣護がギクリとして真白の顔を見る。閉ざされた睫の下には涙があった。
黙ってそれを凝視した剣護は、がっくり項垂れる。負けた、と思った。
(何ともまあ、俺の泣き所を押さえた奴だよ。全く―――――――)
はあ――――――、と大きく溜め息を吐いて、妹の頭をいつもより丁寧に撫でる。
「お前は最近、泣いてばっかだな……」
気が休まらないよ俺は、とぼやく。
平穏な日々が、ひどく遠くに感じられた。
カーテンが開け放たれたままの、窓の向こう側に散る夜空の星を、数えるともなしに数える。
(そんなに高望みしてる訳でも、ないと思うんだがな)
「信じられんっちゅーねん!!」
荒太が机をバンバン、と叩いてスマートフォンに向けて怒鳴った。
『はあ、開口一番そればっかり聞かされてる、俺の身にもなってもらえると助かります』
「お前は女遊び出来るくらい暇やろが、兵庫っ。これぐらいの愚痴、付き合えや」
『うっわ、暴言。荒太様、まさかお酒入ってないでしょうね』
「―――――少しだけや」
荒太の机の上には、缶チューハイが置いてある。
『少しでもお酒はお酒ですよー。今は現代で、自分は未成年ってこと、忘れないでくださいねー』
「口を開けば剣護剣護剣護、それやなかったら次郎兄次郎兄次郎兄、ああ、舌がもつれるっ。あの、シスコンブラザーズの名前ばっかりやっ!真白さんが呼ぶんは!!」
噛みつくような勢いで、まくしたてる。
『まあ、真白様も立派なブラコンですから。………前生が前生です、無理ないですよ』
「……兵庫。ここに天秤があるとしてや」
『はあ』
ひどく気の無い相槌を打つ。
駄目だ脈絡が無い、立派な酔っ払いだ、と兵庫は内心思っていた。酒豪だった嵐も、若雪がらみで何かあった日には少量の酒で酔うことがあった。
「片方に俺。もう片方にブラザーズとしたら、真白さんはどっち取ると思う?」
『ものすごい面倒臭いんですけど。これ、答えないといけないんですか?』
「答えろ」
『ブラザーズ』
無慈悲に返ってきた答えに、荒太が肩を落とす。
「……マジで?」
『冗談ですって。真白様にはちょっと選べないでしょうね。酷ですよ、それを訊くのは。そんなしょうもないこと考えるより、御自分の、今日仕出かした失態をもう少し反省したらいかがですか?』
シニカルな口調に宿る、刃のような鋭さ。
「――――――――」
『青春エンジョイ、大いに結構だと思いますよ。でもそれで真白様を危うい目に遭わせて、どうするんですか。荒太様はまだ、心構えが甘いですよ。人一人守るってのがどれだけ難しいか、前生で骨身に沁みたんじゃないんですか。学習能力ゼロですか』
流れる水のように発せられる兵庫のダメ出しに、荒太が机にパッタリと上半身を載せた。
誰より自分自身が痛感していることだけに、指摘されると言葉が刺さる。
「相変わらずよう回る口やな…。……よし。真白さんに引き合わせるの、当分先にしたる」
『ふっふっふ。荒太様のことだから、きっとそう言われると思いました』
「なんやお前、気色悪い」
『実は今、真白様の自宅近くに来ちゃってるんですよねー』
「はあ!?」
『だって荒太様、焦らして会わせてくれないじゃないですか。実力行使、あるのみでしょ』
「…まさかお前、真白さんの部屋に忍び込もうとか考えたり――――――――」
『しますよ。だって俺、忍びですから』
けろりとした答えに、荒太は机に身を乗り出す。
「おい、今日はやめとけ!真白さん、怯えるに決まっとる。そんくらい解るやろが」
『兄上様が御一緒ですし、大丈夫だと思いますよ』
「剣護先輩が一緒―――――!?猶更あかん、お前殺されるでっ!本能寺の次は、門倉家を死地に選ぶ気かっ、洒落にならんわ!!」
『ははは。だーいじょーぶでーすよー。じゃあ、荒太様。お酒は程々に。若い内から飲み過ぎると、肝臓痛めますよ』
そして途切れた通話は、二度と繋がることは無かった。
思えば兵庫との遣り取りで、一方的に切られなかったことは、今までにほとんど無い気がする。
空になったチューハイの缶をメキョッと片手で握り潰しながら、あいつほんまに俺の配下やろか、という疑問が荒太の頭をよぎった。
机の端、広げたハンカチの上に置いた、ブレスレットの残骸に目を遣る。
〝た、宝物だから〟
〝一度つけると、外せなくなっちゃって〟
〝ごめんなさい、荒太君〟
真白がこのブレスレット一つに、一喜一憂した顔が蘇る。
(今生では結構、表情豊かやんな――――――)
そのぶん、泣き顔も鮮明に記憶に残る。
〝つけて来るんじゃなかった〟
真白の涙声が、耳の奥でこだました。
思い出すと同時に、信長ぶち殺す、という思いが腹の底から湧き上がる。あんな顔を見る為に、あんな声を聴く為に、真白にブレスレットを贈った訳ではない。喜んで欲しかっただけだ。彼女の笑顔が、見たかっただけだ。点数稼ぎをしたいという下心が、全く無かったとは言わないが―――――――。
(…挙句、フォローする役、剣護先輩に全部持ってかれて)
男がすたるというものだ。
「……………」
軽く息を吐くと頭を一振りし、引出しから工具と材料を取り出す。
(兵庫に会うて…真白さんが喜ぶなら、それでええか)
身動きを封じられた剣護は、じっと座って耐えていた。
暑い―――――――。
窓は閉められたままで、空調のリモコンには手が届かない。おまけに真白の体温が密着している。三重苦だった。耳に届く虫の音だけが、やたら涼しげだ。こめかみに浮く汗をTシャツの袖で拭う。
(苦行してる坊さんってこんな感じかな…)
彼に忍耐を強いている張本人は、今では夢の中である。
(よく暑くねーな、こいつは。それにしても、ばあちゃんたちも真白も、俺を信用し過ぎじゃねーか?血縁上は従兄弟だぞ?結婚だって出来るんだぞ?有り得ないけど。…俺ってあんまり男らしく見えねーのかな。んなこと無いよな)
一晩中このままの体勢はさすがにきつい。腰痛になること確実だ。ぐるぐると、自由な首だけを回してみたりする。だがその程度では、血流の滞りは如何ともしがたい。
せめて単語帳が欲しい、と受験生らしく考えていた時、部屋の窓が外からノックされた。
コンコン、という音にギョッとする。
窓の外に見知らぬ男性の姿を見た剣護は、反射的に真白の身体をより引き寄せた。
中から見て取れる男の体勢からして、一階の屋根を足場にしていると察せられる。
「――――――剣護…?」
目を覚ました真白は、緊迫した表情の兄の顔をそこに見た。急に意識が覚醒する。
窓の外の男の唇が動く。
「い・れ・て・く・だ・さ・い」
莫迦を言うな、と剣護は思った。
結界がある以上、男はそれ以上屋内には入り込めない。入るには真白の承認が要る。
男が自分を指差し、更に唇を大きく、ゆっくり動かす。
真白も剣護と同じく、その動きを見つめた。
「ら・ん・か・し・ち・に・ん・ひょ・う・ご」
そこまで動きを読んだ時、真白が剣護の腕の中から、そろっと立ち上がった。
「――――――兵庫?」
真白の表情をガラス越しに確認した男は、にっこり笑って右手を振った。