憧憬 四 前半部
四
変化に敏くすばしっこい遥が、いつもとは異なる真白たちの様子に、気付かない筈がなかった。キッチンの隅で、荒太がぼそぼそと声を出す。
「良いな、遥。江藤が寝てたのは好都合だ。あいつが起きたら、勉強道具だけ渡して、真白さんは具合が悪いんで帰ったって言うんだ。まだ本調子じゃないんだって尤もらしく言い張れよ」
遥は頭の後ろで手を組んで、荒太の指示に異を唱えた。
「ええ~。絶対、嘘だってばれますよ、それー。僕、荒太様と違って、嘘吐くの得意じゃないし。江藤先輩って、すごく勘が良いもん。もし信長公にリベンジするんだって言って飛び出されたら、止める自信無いですよ。…って言うか、真白様、大丈夫なんですか。僕もそっちの護衛に回りたいんですけど」
遥の目は純粋に真白を案じている。
「…僕だって、七忍の端くれなんですよー?」
しかし返す荒太の言葉は容赦なかった。
「お前がいて、どうこう出来る相手じゃない」
「ごめんね、遥。今はまだ、次郎兄についててあげて。私は荒太君に送ってもらうから、心配しないで」
真白に両手を合わせて頼み込まれた遥は、そう来られては、と言う表情で眉尻を下げた。
「むー。…でも荒太様、この件、絶対、どうしたって兵庫さんの耳には入りますからね。また耳に痛いこと、言われちゃいますよ」
「仕方ないな。今回ばかりは、俺にも落ち度がある。…剣護先輩に、幾らか殴られるくらいの覚悟も出来てるしな」
「それは駄目だよ!!」
荒太の言葉を聞いて真白の上げた大声に、遥も荒太もビクッとする。
「―――――何でそうなるの?男の子って、どうしてそんな簡単に殴ったりするの。もし剣護が、本当に荒太君を殴ろうとしたら、私が止めるよ。荒太君は悪くないじゃない」
遥と荒太は顔を見合わせて沈黙する。
そういう問題では無いのだ、と言う空気が、二人の間に流れている。
その様子を見て、真白は不安を覚えた。
(……男の常識と女の常識って、やっぱり違うのかな)
彼らの後ろから舞香がヒョイと顔を出す。
「そうよお。これ以上、真白に心労かけるような真似、止めなさい?ああ、私、要が喧嘩っ早い弟じゃなくて良かったー。温厚な草食系で良かったわー。じゃあね、真白、……気を付けて。こら坊や、今度こそしっかり真白をボディーガードするのよ?」
(坊や…)
荒太はややムッとしたが、頭を下げた。
「はい。今日は、どうもお世話になりました。…色々と、ありがとうございました」
真白も一緒に頭を下げる。
(ふうん。まともな挨拶は出来るのね)
舞香は微笑ましく思いながら、荒太を見た。気持ちの赴くまま、暴走するタイプにも見えるが、今、自分が取るべき態度は何かということを、弁える思慮深さはあるようだ。
ただ危なっかしいだけの子供ではない。
自分一人の力では、及ばない物事を経験で知る、目をしている。思い返せばそれは、剣護にも怜にも、そして真白にも当てはまることだ。まだ若い身でありながら――――――。
(…不思議な子たち)
玄関先まで二人を見送り、リビングに引き返そうとした舞香は、要が立ったままじっと動かないことに気付いた。
黄緑の瞳は魅入られたように閉まったばかりの玄関ドアを見つめ、手にはレモンイエローのシャツを握っていた。
「―――――要?どうしたの?」
「…いや、上手く誤魔化せたかな、思うて」
「何を?」
「ええんや。何でもない」
要が笑って言うのを、舞香は訝しむ目で見た。
それにしても、と腕を組む。
「……警察に通報しなくて本当に良かったのかしら?いくら未遂で、顔見知りの人間とのトラブルって言ったって。同じことがまた起きないとも限らないじゃない」
「ああ。……真白さんたちにも、真白さんたちの考えがあるみたいやから」
内情を知る要としては、他に言い様が無い。
舞香は案じる顔つきで頭を斜めに傾ける。
「でもねえ…。剣護は確かにしっかりしてると思うけど、皆、子供であることには変わりないわ。自分たちだけで判断するにも、限界があると思うのよねぇ…」
溜め息を吐く舞香に、一理あると要も思う。
せめて彼らの内情を知り、手助け出来る大人がいれば、剣護の負担ももっと軽くなるだろう。彼は今年、受験生だと聞いた。背負うものを少なくして、将来のことを考えるのに今は専念したほうが良い。院生の自分では、まだそこまでの助けにはなれない。
(大人の協力者がいてたら―――――――)
そう思わずにはいられなかった。
「真白さん、手を」
風見鶏の館を出た荒太は、そう言って真白に手を差し出した。
真白がその手を見る。
「握ってて―――――――。…俺が、安心したいんだ」
荒太は真剣な顔だった。
そっと重ねられた真白の右手を、荒太の左手が包む。
「もう、いなくならないでね」
荒太の声は真剣で、迷子のような心細さを含んでいるようにも聞こえた。
こんなことがずっと昔にもあった、と思う。桜が終わるころ、春の堺で。
まだ若雪と嵐は、出会って間も無かった。
〝若雪どの。手、繋いでもええか〟
それは単に利便性を考えて発せられた言葉だったが、若雪は嬉しかった。嵐の、ほんの少しの気遣いが、そこには感じられたから。
(…手を繋いで安心するのは、私のほうなのに)
〝怖いわ〟
いつもは気丈な、市枝の言葉を思い出す。
(荒太君。荒太君も、怖いの―――――…?私が、二度もあなたを置いて逝ったから)
失くすことで泣く辛さに、怯えているのだろうか。
今にも落ちようとする夕日に照らされた彼の背中に、口に出して訊くことは憚られた。
代わりに、荒太に預けた右手に力を籠めた。
家に辿り着くころには、もう日も暮れていた。烏がどこかへ飛び去る姿が、二、三、見える。
暮れたあと、空に滲む薄紅色は美しかったが、今の真白の目には入っていない。
真白の頭の中は、今は竜軌の仕打ちより、どうすれば剣護にそのことに気付かれずに済むかで一杯だった。
(どうしよう…。今まで、隠し事して剣護にばれなかった例が無いし。何より荒太君に隠す気が無いんじゃ、剣護に知られずにいる筈が無い)
考える程に、荒太の左手を握る右手に力が入っていくことに、本人は気付いていない。
荒太がそんな真白の顔と、ぎゅうぎゅうに握り締められる自分の左手を黙って見ていた。
打開策が浮かばずに真白が悩んでいると、真白の家も間近に迫る街灯付近に至ったところで、荒太が呟いた。
「…剣護先輩」
「―――――え!?」
見れば真白の家の門柱に、確かに剣護が腕組みして寄りかかっている。Tシャツにハーフパンツ、という簡単で涼しげな格好だ。足にはサンダルを引っかけ、緑の目は退屈そうに泳いでいる。
こちらに気付くと、やっと来たかと言うように笑いかけた。
「よお。御両人」
「……剣護先輩、今時そんな言い方しませんよ」
「おっとぉ。お前そんな憎まれ口、叩くか?今日の送る役を代わってやったんだから、もっと有り難く思えよ。市枝ちゃんが呆れてたぞ。次郎の様子はどうだった?教科書はあれで良かったか?」
その問いには答えず、真白が逆に訊き返す。
「――――――剣護、どうしたの?」
「ん?いや、お前らの帰りが遅いから、保護者として心配して…」
剣護がにこやかな顔で真白を見る。
「こんなとこにずっと立ってたら、蚊に喰われちゃうよ。早くお家に入って」
荒太の手をほどいた真白が、グイグイと剣護の背中を押す。
(気付かれないようにしないと――――――)
そればかりが頭を占め、真白は焦っていた。また、剣護の顔を見ていると気が緩み、再び泣けてきてしまいそうになる自分を抑える必要もあった。
「何だ、しろ。冷たいな。……この手、どうした?」
背中を押していた真白の、左腕を剣護が掴んだ。
竜軌に捕まれた手首に、赤い痣が出来ている。気付いた真白が腕を引こうとするが、剣護の手はピクリとも動かなかった。
灰色がかった緑の目が鋭くなる。
「……あのブレスレットが無いな。良く見りゃ目も赤い。――――――おい、荒太。何があった?」
口を開こうとする荒太を、真白が遮る。
「何も無いよ、剣護。…本当に、何も無い!」
必死の形相だったが、努力が報われることはなかった。
(…解りやすい)
荒太も剣護も同時にそう思う。
「真白、先に家に入ってろ」
厳しい表情になった剣護に対して、真白は早口で言い募る。
「そうしたら、荒太君に何もしないでくれる?なら、家に入る」
「―――――つまり、例えば俺が荒太に手を上げざるを得ないような、何かがあったと」
「…………」
真白は言葉に詰まった。口を開けば開く程、隠そうとするものが明るみになる。
「二、三発は覚悟してます」
荒太の言葉に剣護が目を細める。
「荒太君………!」
「へえ?」
身を乗り出した剣護に、真白がしがみついた。
「止めて、剣護。荒太君は助けてくれたの、新庄先輩から―――――――」
「――――――新庄?」
剣護が思いがけない名前に目を見開く。
「…風見鶏の館に行く途中、荒太君と切り離されて…、新庄先輩の作った結界から、私、抜け出せなかったの……。祓詞も、効かなくて。そうしたら、先輩から言われた。今の私では、神つ力が、使えないって。力のバランスが取れなくて、無理なんだって、…。本当に、雪華を、呼べなかったの。それで。…それで、ネクタイを、…解かれて――――――」
それ以上は言葉にならなかった。話す内に浮かぶ涙を、真白は堪え切れなかった。
剣護は予期せぬ話に唖然としている。しがみついた真白の肩は、震えていた。
〝俺に真白を寄越すか?〟
(まさか本気だったのか、あいつ―――――?)
「――――――解った、真白。もう良いよ。もう喋るな。荒太を殴ったりもしないから、安心しろ。どうやら、俺にも非があるっぽいしな。…但し、次があった時は殴る」
ひとまずホッとした真白は、より一層、剣護にしがみついた。その頭を、柔らかい手つきで剣護が撫でる。
「剣護―――――――」
「ああ、もう大丈夫だから。俺がいるから、安心しろ」
その光景を見る荒太は渋面だった。
明らかに今の真白は、自分の腕の中にいた時より安堵しているように見える。相手が剣護では、無理も無いことかもしれないが―――――――。
(殴られたほうがましだった気がする…)
その時、不意に第三者の声が響いた。
「こらこら、君たち。こんなところで女の子を泣かせるのは感心しないな。御近所様の目もあることだしね」
適度な重みがありつつ、さらっと乾いた爽やかな声音。長身の作る長い影。広い肩幅。体格がしっかりしているので、Tシャツにジーンズというありふれた格好も様になる。
「坂江崎さん…」
剣護が名を呼ぶ。
「やあ、剣護君。こんばんは。回覧板を持って行こうとしたら、君たちの深刻そうな声が聴こえたもんで、つい立ち止まってしまったよ。…若雪どのはどうしたんだい?」
真白はまだ剣護にしがみついている。坂江崎一磨の声が響いてからは、隠れるようにして背中に回った。朗らかな問いかけに、どう答えたものかと考えた剣護は、ふと静止する。
――――――〝若雪どの〟?
荒太に目を遣ると、彼もまた一磨を凝視していた。
「あんた……」
一磨が荒太に向けて右手を挙げる。
「久しいな、嵐どの。息災なようで何より。―――――――私が判らぬか?嵐どのは見事、私に、満たされた天の器を見せてくれたではないか」
聞き覚えのある言葉だ、と荒太は思った。記憶の海にたゆたうものを探り出す。
〝星の輝く天の器が真に空であるならば……〟
〝満たされた天の器とやらを、見てみたいものだな〟
あの時、独り言のように彼はそう言った。
石見国。彼の館で、酒を酌み交わした晩――――――。
智真の他に、嵐が友人と思えたもう一人の人物。
「――――――そうか…、元枝どの。小笠原元枝どのか……!」
荒太の声に、一磨の笑みが大きくなった。