短編 紅葉思慕
短編 紅葉思慕
天正十八(1590)年の秋、望月若雪は堺の桜屋敷で、三十三年の生涯を終えた。
静かな顔で永眠した彼女の周囲には、養父である今井宗久を始め、若雪の夫・嵐の異母妹である茜、若雪が堺を訪れてよりずっと彼女の母親代りを自認してきた志野、志野と同じく若雪を慕い、屋敷に勤めていた蓬、そして嵐下七忍の斑鳩、凛、黒羽森、山尾、水恵が集っていた。屋敷で働く二人の下男の姿も部屋の隅にある。
若雪の娘である小雨は、亡くなった母の身体を覆う夜具にしがみつき、泣きじゃくっていた。自らも泣き顔の志野が、その小さな背中に手を添えている。
「お母様…、お母様…、お母様ぁ!」
宗久もまた養女の死に項垂れ、若雪の枕辺で両手を畳につき、涙を落としている。
「―――――堪忍や、若雪。堪忍――――――。結局儂は、そなたを助けてやれなんだ。…何が会合衆や。何が豪商や。――――――娘の病一つ、治してやれんで」
若雪の部屋に集った人々は皆涙を流し、彼女との永久の別れを惜しみ、悲しんでいた。
そこに駆け込んで来た僧侶の姿があった。
大きく響いた足音に、皆が一斉にそちらを振り向く。
「……智真様…」
涙声で、志野が声をかける。
智真は陣僧として豊臣秀吉の小田原攻めに同行し、戦の終わったのちも小田原に留まっていた。
「…小田原で、若雪どのが危篤いう報せを受けて、………」
使いの人間が智真の居所を探し当てるまで時間がかかり、嵐からの報せを受け取るのが遅れた。報せを受けてから、取る物もとりあえず堺に駆け付けたのである。
彼の額に流れる汗と弾む息が、ここまでの道のりをどれだけ必死で急いで来たかを物語っていた。旅装も解かぬまま、茫然として若雪の枕辺に近付く。
若雪の顔は生前より尚白く、安らかだった。
閉ざされた唇は、最早永遠に言葉を発することはない。
まだ息の整わない智真の目に、涙が浮かぶ。
(これが――――――最期か―――――――これが)
〝智真どの〟
桜散る明慶寺で、初めて出会った十四歳の若雪の姿が蘇る。
もう二度と、彼女が自分に呼びかけることは無い。
この先の人生を、闇が閉ざしたように感じた。
「……………若雪どの…」
涙が止めどなく溢れ、幾粒も若雪の横たわる床に染みを作った。
(――――――嵐がおらん)
最もこの場にいるべき、若雪の夫である嵐の姿が、部屋のどこを見渡しても見つからない。
「……嵐はどこです?」
涙を拭いながら誰にともなく発した智真の問いに、志野が答える。
「…解りません。姫様が亡くならはってから、お姿が見えんのです」
智真は、今年で八歳になる小雨の泣く顔を見た。面差しがやはり、若雪に似ている。
母を亡くした小雨の傍に、父親である嵐こそがついているべきだ。
そう思った智真は、部屋を出て彼の姿を探した。しかし広い桜屋敷のどの部屋にも、嵐の姿は見当たらない。
「嵐!嵐っ!…どこや!!」
若雪の眠る部屋に続く広縁を引き返す途中、ふと桜の大樹が目に入る。庭に降りると、ちらりとはみ出した着物の端が見えた。
桜屋敷の名の由来となった、立派な樹の幹の向こう側に座り込む人影があった。
(嵐――――――。…お前)
こんなところで泣いていたのか。
独りで――――――娘の傍にいてやることさえ出来ずに。
智真がかける言葉を失くしていると、向こうから声がかかった。
「………智真か…。小田原から、戻ったんか?」
「―――――――ああ。けど、…間に合わんかった…」
そう言って、智真は赤く染まった裏山を見た。
天は青く、澄んでいる。吹き過ぎる秋風に、時折赤い葉が混じる。
(――――…こないな日に、亡くならはったんか…。若雪どの)
相応しいと言えば、相応しい日に思えた。そして自分はこの日を、目の前の景色を、一生忘れることは無いだろう。
「智真…。二人分や」
「え?」
唐突な嵐の言葉の意味を測りかねて、訊き返す。
「俺は今日からこの先、若雪どのの分と合わせて、二人分の力で小雨を育てたらなあかんねや。………若雪どのに、そう頼まれたさかい」
(嵐―――――――)
若雪のその言葉を、彼はどんな思いで聞いたのか。
「…ああ………。…お前やったら、出来るやろ」
自分でも無責任な言葉だ、と智真は思ったが、他に言い様が無かった。
微かに、鼻を鳴らすような笑いが聴こえる。続いた声音に力は無い。
「どうやろな……」
結局その日、嵐は智真の前に姿を現さず、桜の幹越しの会話だけで終わった。
翌日の朝、明慶寺に仮住まいする智真を、嵐が訪ねて来た。
今年で三十一になる嵐の顔はまだ若々しく、二十代のころとそう変わらない。
洒落者の嵐だが、彼の心境を表わすように、身に纏う上衣も袴も暗色だった。
濃い嘆きの気配が未だ漂う嵐と、智真は久しぶりに方丈の客殿で顔を合わせた。
「――――若雪どのを明慶寺で?」
「せや。弔うてやって欲しい」
嵐が頷く。翳りを帯びた顔は、以前よりやつれて見えた。
智真は戸惑い気味に口を開いた。
「せやかて……、若雪どのは生家が神官家でいはったやろ。…寺での弔いで、ええんか?」
「若雪どの自身がそれを望んだんや。…病が重うなり始めてから、俺に言うた。思い出深い明慶寺で、眠らせて欲しいて」
〝思い出深い明慶寺で〟
智真は再び胸に込み上げてくるものを、必死に留めた。
あの春の日の邂逅から、若雪と嵐、智真の三人の関わりが始まった。
思い出す、泣いていた若雪の髪にくっついた桜の花びら。
彼女の密やかな嘆きを守ろうとむきになった嵐は、まだ十二歳だった。
(若雪どの……。私の歩みもまた、この寺で、あなたと逢うてから、始まりました)
若雪に出逢わなければ、今の自分も無かった。
「―――――解った。和尚さんには、私から話しておく」
嵐はじっと智真を見てから目を伏せた。
「…頼むわ」
その後は、沈黙が続いた。語り合うことは多くあるように思えるのに、二人の口からは何も出て来ない。黙ってただ向かい合い、どのくらい時が経ったのか――――――――。
先に口を開いたのは、嵐のほうだった。
「お前、また小田原に戻るんか?」
「いや――――――。もう、あの地で私がすべきことは無い。今や関白殿下の世の中や。陣僧も要らんようになる。…私も、お役御免や。当面は堺に留まって、今後の身の振り方を考えよう思うてる」
語る智真を興味深げに見て、嵐が腕を組んだ。
「ふうん…。坊主も悪うないかもな。俺も出家しよかな」
「――――は!?」
嵐の言葉に、智真が目を剝く。僧侶ほど嵐に向かない勤めは無い。
嵐が少し笑って、目を逸らした。
「冗談や……」
明慶寺の境内で智真と別れた嵐は、中門にさしかかったあたりで来た道を振り返った。
そこには、どこか空の一点を見つめるように、動かない智真の後ろ姿があった。
方丈の建物近くに植わった楓の樹から、赤く染まった葉が幾枚も、風に吹かれて舞い落ちている。幾枚も幾枚も―――――――――――――――。
風に乗って流れる、目に染みるような紅の色。
智真の纏う墨染の衣が、落葉に紛れて、一瞬、赤い衣に見えた。
それが嵐の目には、智真の静かで深い嘆きの表れのように映った。
(言葉が無い――――――――。…智真。俺は、お前にかける言葉が無い)
嵐は前に向き直り、明慶寺をあとにした。
離れゆく暗色の着物の背中と、墨染の着物の背中は、同じ存在を想って泣いていた。