憧憬 三 前半部
三
電車を降りて公民館や怜のアパートを通り過ぎ、幾つかの角を曲がり歩いて行くと、風見鶏の館が見えて来た―――――――。
存在感のある建物だと改めて真白は思う。
「え、あいつ、勉強道具持って来いなんて言ったの?」
荒太が歩きながら嫌そうな顔をする。
「うん、期末試験対策だって。兄として面目躍如する、って言ってたから。剣護が昔使ってた教科書とか、持って来たの。重くない範囲で良いって力説してたけど、一応、五教科分は持って来た」
それを聞いて荒太が真白から学生鞄をひったくる。
(――――――十分、重いじゃないか。江藤の奴、言葉が足りないんだよ。三教科分だけとか言えば良いんだ)
ちなみに中間試験結果の学年順位は、一位が真白、二位が怜、三位が荒太だった。荒太が嫌な顔をしたのは、期末試験において、少なくとも怜には上を行かれたくないという思いもあってのことだった。
「………荒太君。鞄、返して」
「良いから。…何で江藤からアパートの鍵、借りないの?人の教材だと使い勝手が違うだろうに。中身だって多少変わってるだろ」
「私もそう言ったんだけど。……何だか、私には部屋に入って欲しくないみたいだった」
メールで、怜がやんわり真白の入室を拒否した文面を思い出し、真白は些か落ち込んだ。
「あー、成る程」
納得したような荒太の声に、真白が反応する。
「荒太君、理由が解るの?」
荒太の脳裏には、怜の部屋で着る服を物色していた際に見つけた、ウィスキーのボトルと日本酒の一升瓶が浮かんでいた。
(……あいつも優等生面してる割に、中々どうして曲者だよな)
嫌な親近感を覚えてしまう。
ここで暴露しても良いのだが、ピッキングで部屋に入った後ろめたさに加え、真白にばらしたら必ずあとから何がしかの報復があるだろう、という考えが荒太の口を閉ざした。
(ああいう奴の仕返しってのは大抵、陰険で性質が悪いに決まってるんだ)
「…いや。誰にでも、人に見られたくない物とかあるじゃない」
真白が眉を顰めて立ち止まった。
「………………エロ本とか?」
(――――――――しまった。そっちに行ったか)
真白の勘の鋭さは、たまに見当違いの方向に行く。
「ええと、いや、そういうのに限らず、何やかやと、」
どうして俺が尋問される羽目になる、と荒太は狼狽えた。
「―――――次郎兄は、そんなの見ないよ。…剣護は判らないけど。……荒太君は見るの………?」
何となく真白の中にある兄二人のイメージの察しがつき、荒太はうっかり剣護に同情しかけたが、他人事ではなかった。真白の疑惑の矛先は今、自分に向けられている。風見鶏の館まであと少し、というところで荒太は追い詰められていた。
「―――――――」
真白の焦げ茶色の瞳にじっと見つめられ、蛇に睨まれた蛙のように、荒太は硬直した。
(……返答に詰まるってことは、答えてるも同じことでは…)
そう考えた時、ふと名前を呼ばれた気がして、真白は振り返った。
〝決して振り返ってはなりませぬ〟
創世神話において、黄泉の国まで自分を追って来た夫・伊弉諾尊に、妻・伊弉冊尊が告げた戒めの言葉。
けれど伊弉諾尊は振り返り、妻を再び失うことになる。
なぜかその話が真白の頭をかすめた。
振り向いた先に待ち構えるのは、暗い陥穽。
取り返しのつかないことが起きる予兆を、真白は感じ取った。
そこには闇が広がっていた。
隣を歩いていた筈の、荒太の姿が消えている。
代わりに闇に立つのは―――――――。
一瞬、山田正邦かと思ったが、違った。
「…新庄先輩……」
「病は癒えたようだな、真白。随分と幼稚なお喋りで笑えたぞ」
口ではそう言いながら、竜軌は無表情だった。その口振りと顔つきに、真白は違和感を覚える。胸に生じた怯えを自覚した。
「何か―――用ですか。私、次郎兄のところに行くんです。この結界、解いてください」
「自分で解いてみたらどうだ。神の眷属・門倉真白」
竜軌の意図が読めなかった。
とにかくここで立ち往生している訳にもいかない。
きっと荒太も心配している。
「……幽世の大神、憐れみ給い恵み給え、幸魂奇魂、守り給い幸い給え」
「大国主に頼るか。さすがは出雲大社・御師の娘だな」
しかし結界は少しも揺るがなかった。
真白は他の祓詞も試したが、闇はただ、闇のままだ。シン、と静まり返っている。
(どうして――――――)
竜軌がそんな真白をおもむろに見て、口を開いた。
「自覚が無いようだから教えてやる。お前はな、今、神つ力を行使出来ない状態なのだ。心身に受けた打撃が未だ尾を引いて、力を操るバランスに欠いている。熱が引いただけで回復したと思い込むとは、浅はかにも程がある。花守では補いきれなかったようだな。…実に無防備だ。太郎清隆、あれだけ近くにいながら気付かないとは大したうつけよ。今のお前には魍魎一匹倒せまい。そんなお前が俺の創り上げた空間にいるということが、何を意味するか解るか?」
いつもの竜軌と違う、と真白は思った。自分の言葉に大笑いした彼ではない。魍魎に対する姿勢を諌め、忠告してくれた時のような親しみが、今は微塵も感じられない。
冷え冷えとしていて、身を低くして構えた獣のような威圧感がある。
真白は竜軌の問いには答えず、無意識に一歩、後ずさった。
しかし距離を取る前に、パシ、と左手首を掴まれる。青紫の雫が揺れた。
「――――――――放して」
目の前にある、黒い一対の瞳が怖かった。どこまでも黒く光り、底が知れない。
(暗くて深い―――――怖い)
真白の制服のネクタイに、竜軌の指がかかる。その意図を悟り、真白の腕に鳥肌が立った。
「嫌だ、放して!!雪華っ!雪華、来て!!」
叫ぶが、美しい懐剣が姿を現すことはない。
「雪華が泣いているぞ。お前の呼びかけに応じられずに」
竜軌が淡々と語る。
(―――――――雪華が呼べない―――――――?)
真白が衝撃を受けている間にも、ネクタイが取り外され闇に投げられた。
「―――――――!」
真白の振り回した手が、竜軌の頬に一筋の血を走らせる。
竜軌は全く怯む気配を見せない。
シャツブラウスのボタンにかかる手を必死に払おうとするが、腕力で敵うものではなかった。
竜軌が、今気付いたように青紫の雫に目を遣る。
彼が無造作に右手を振りかざした次の瞬間、引き千切られたブレスレットが地に落ちた。
「あ…………っ」
真白がそれを追って伸ばした腕も、阻まれる。
コン、コロンと小さな音を立て、雫型の石が転がった。真白の目には、荒太の笑顔も一緒に遠ざかったように見えた。
(あんなに、喜んでくれたのに)
大きな手が、はだけたシャツから見える、真白の首筋から肩にかけての肌に、直接触れた。地面に手荒く押さえつけられる。
(痛っ―――――――)
押さえつけられた皮膚の痛みに涙が滲む。
〝雪白が良く似合う〟
(どうして――――新庄先輩)
獲物を捕らえた虎狼の目が、上から迫る。
「―――――…嫌っ!荒太君!!荒太君、荒太君!!」
生理的な嫌悪と恐怖に、真白は激しく叫んだ。焦げ茶色の髪が乱れる。
(剣護、助けて、次郎兄―――――――。こんなのは嫌だ。嫌だ――――――)
竜軌の動きが不意に止まった。
「奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ、宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず、奇一奇一たちまち感通、如律令!」
咒言のあとに姿を現した荒太は、肩で息をしていた。両膝に手をついている。
「くそ…陰陽師でもない癖に、やたら面倒臭い結界、張りやがって………!」
竜軌は、変わらない無表情のままで荒太を見た。
真白を押さえていた手の力が緩む。
荒太もまた、地に仰向けになった真白を見た次の瞬間、ふっと表情が消えた。但し内奥に潜む激情が感じられる点で、竜軌とは異なる。
「彼女から離れてください、信長公。………真白さん、こっちに来て」
声は怖いくらいに平淡だった。
(―――――――――荒太君)
真白は渾身の力で竜軌の身体を突き飛ばすと、荒太のもとに駆けた。
飛び込んできた彼女の身体を、荒太が一瞬だけ強く抱き締め、素早く背後に回す。
地に落ちたブレスレットに、ちらりと視線が行った。
押し殺した声が、闇に響く。
「――――――信長公、一度だけ訊きますよ。…何の、つもりですか」
信長の表情は変わらず、荒太の問いにも答えない。
「お前が来たか……」
ゆっくり立ち上がると、ただそれだけを言った。
荒太の身体が発するざわりとした殺気が、背後の真白にも感じられた。
「飛空、ここだ」
常より低音の呼びかけに現れる、飾り気の無い腰刀。その鞘を、少しの迷いも無く荒太が払った。
白い刀身が輝きを放つ。
ここで初めて、竜軌が薄い笑みを見せた。
「長い付き合いだが、お前とは初めて刃を交えるな。面白い。―――――起きろ、六王」
竜軌の声に応じて現れたのは、剣ではなく素槍だった。漆黒の柄に、螺鈿の装飾が美しい。3メートル程はあろうかというそれを、竜軌は軽々と手にした。
剣よりも間合いの長い槍を一瞥して、荒太が背後の真白を見る。
「真白さん、出来るだけ離れてて」
言われた真白は、荒太のシャツに手をかけた。
「待って――――――待って、荒太君。…多分、新庄先輩は本気じゃなかった。何かを試したかっただけだよ。……刀を、収めて」
けれどそう言う真白の声も、荒太のシャツを握る手もまだ震え、顔色は蒼白だった。
荒太の温もりが無くなることが怖かった。
(手を握ってて欲しい―――――抱き締めてて欲しい。離れないで、側にいて)
今の真白はただそれだけを、切に願っていた。
荒太がボタンの千切れた真白のシャツの、胸元を見る。露わになった白い肩を見る。ギリ、と言う歯軋りが、真白の耳にも聴こえた。荒太の視線を受けて、真白は慌ててはだけたシャツを直した。
「出来ない。狙いが何かあったにせよ、これは許容範囲を超えてる」
彼の目は、既に目の前に立つ竜軌だけを捉えている。
「―――――――――」
行かないで、という言葉が出なかった。喉の奥でつかえたかのように。
竜軌が、風の唸り声と共に二回、三回と六王を高く掲げて回転させ、構えた。
それを見届ける間も無く、荒太が駆ける。
飛空の初太刀を受けた六王が空気を横に薙ぐ。
それを避け、宙に跳躍した荒太の飛空が、竜軌の頭に迫る。
半身でかわした竜軌が、更に六王を繰り出す。一突き、二突き。荒太はそれを巧みにかいくぐり、飛空で内側から六王に斬りつける。
闇の空間に、激しい剣戟の音が響き渡る。
(どうしよう。どうしよう。今の私では止められない。あの二人が本気でこのまま戦ったら――――――どちらかが死ぬかもしれない。どうしよう。剣護も、次郎兄もいないのに)
考えている間にも、六王の切っ先が荒太の肩をかすめる。血は出なかったものの、真白は悲鳴を上げかけた。
こんな自分は知らない。無力に震え、ただ見ているだけしか出来ないことなど、今までに無かった。力は常に、当たり前のように真白の身に備わっていた。
何も出来ないということが、これ程人を打ちのめすものだとは思いもしなかった。
恐怖、悔しさ、絶望。そして屈辱。
それらの感情が、ないまぜになって真白の内側を支配する。
(剣護。剣護。次郎兄――――――助けて。誰か。誰か。誰でも良いから)
彼らを止めて――――――――。