憧憬 二 前半部
二
現れた木臣は、いつものような無駄口を叩かなかった。
すぐに真白の傍らに寄ると、額に手をかざして言霊を発する。
「癒し風の、そよそよと吹く。幸い夢のみ、寄りて来よ」
歌うようなリズムで言葉が流れる。そこに音階が見えるようだった。
空調とは明らかに異なる、清涼な風の気配に、市枝が室内を見回す。
真白も前回と同様、身の内の快い変化を感じた。
(身体が、軽くなる―――――――)
「…木臣、でも、この唱え言は―――――――」
同じ言霊で眠った時の、悲しい意識との遭遇が蘇る。
それに触れたこちらの胸が、痛くなるような。
今にも眠りに落ちそうな顔で、真白が不安そうに言いかける。
それを遮り、木臣が胸をはった。
「大丈夫ですわ。今唱えたのは、前回の言霊をバージョン・アップさせたものです。神とても、日進月歩しておりますの。悲しみや憎しみと言った負の感情が、真白様の夢と共鳴することもなく、悪夢を見ることもございません。…安心してお休みなされませ」
自信ありげに言う木臣の顔と、心配そうな市枝の顔が遠ざかっていく。
木臣の言葉を、真白は俄かには信じられなかった。
(嫌…。嫌だ。眠ればそこには、太郎兄の躯がある。次郎兄の、三郎の躯がある。――――そうでなければ、絶望に呑まれた魂の悲鳴が聴こえる。――――やめて木臣。私を、眠らせないで――――――――)
目を固く閉じた真白は、頬に穏やかな風を感じた。
その穏やかさに、そっと目を開ける。
さわさわと、風が吹いていた。草が適度に生い茂り、木々がまばらに立っている。
空は青く、静かに晴れ渡っていた。
近くに、人の気配がある。
決して自分を傷つけることのない、慣れ親しんだ彼の気配。
陶聖学園の制服を着た剣護が、真白の横に座っていた。
(剣護。…剣護がいる。大丈夫だ、怖くない)
ホッと息を吐く。強張っていた身体から、力が抜けた。
剣護はひどく寛いだ表情をしている。
しかし彼が着ている制服に、真白は違和感を覚えた。
真白を見て、剣護が笑いかける。
〝起きたのか。寝坊助だな、しろ〟
いつも通りに優しく、少しからかうようなカラリとした声。
剣護は何かに気付いた顔をすると、真白に呼びかけた。
〝ほら、真白。あそこ〟
指差されるまま、前の木立に目を遣ると、見知らぬ少女がそこにいた。
こちらに向かって歩いて来る。
剣護同様、陶聖の制服を着ていた。
(あれ?でも、やっぱりこの制服って――――――)
首を傾げる真白に、少女が微笑む。
〝こんにちは〟
〝…こんにちは。―――――私、あなたとどこかで会ったことがありました?〟
少女が更に深く微笑む。
〝いいえ、一度も。………でも、あなたがそう思うのも、無理は無いわ〟
〝――――どうして?〟
尋ねる真白に、剣護と少女が悪戯っぽい視線を交わした。
少女の黒髪を、風が揺らす。
少女が口を開く。
〝だって私は、あなたの―――――だから〟
風が吹く。
木立が揺れる。
(ああ、そうだったのか…道理で)
懐かしいとも、感じる筈だ。
目から鱗が落ちる思いがした。
優しい風が、吹き渡る。
彼女の存在が嬉しくて、真白は少女に笑いかけた。
そんな真白に、少女も微笑みを返す。
剣護の穏やかな表情に見守られ、真白と少女は手を取り合った。
なぜか微かな悲しみを感じるくらい、優しい夢だった。
眠る真白の顔に苦痛の色が無いのを見て、市枝はホッとした。
先程までと違い今の真白は、十六歳の少女らしい、あどけない寝顔を見せている。
「……さっきまでより全然楽そう。…ありがとう、木臣。恩に着るわ」
噛み締めるように、殊勝な表情で言う市枝を、木臣が不思議そうに眺めた。
「私は、理の姫様の御命令に従っただけですわ。…もちろん、私自身、真白様をお助けしたいと思ったのも、事実ですが」
木臣の目が、優しく真白に向く。
何でも出来る力を持ちながら、不器用な少女。
真白の周りに人が集うのは、何も神つ力に惹かれてのみのことではないと木臣は思う。
「私も助けられちゃったわ。真白に、耳に痛いことを言われたところだったから」
市枝が、静かな表情の中に苦笑を滲ませる。
「…失礼ながら、聴いておりましたわ。真白様は、責めると言うより、嘆かれておいでのようでしたけど」
「うん…。それがまた、ちょっと痛かったかな」
参ったわね、と言いながら市枝が額を掻く。
「……私このあとは、真白様の兄上様のもとに参るよう仰せつかっておりますの」
「江藤のとこ?ああ、そうしてもらえると有り難いわ。江藤が早く治れば、真白もきっと喜ぶから」
木臣の薄青い瞳が、納得したように頷く市枝を見る。椿の花弁を思わせる唇が開いた。
「…お市の方。あなたは大層、真白様を大事に想ってらっしゃるのですね。前生よりの、お付き合いゆえですか?」
木臣の言葉に、市枝もまた彼女を見る。
〝前生よりの、お付き合い〟―――――――。
ふ、と市枝が淡い笑みを浮かべた。
「…そうね。市は、出来ることなら、若雪と共に生きて…死にたかったの。けれどその望みは叶わなかった。立場と状況が、それを許さなかったのよ」
乱世の波に、抗いながらも流されて。
最期は燃える城の中で、ただ若雪の幸福だけを願い、息絶えた。
無念と言えば、これ以上無い程に無念だった。
(けれど自害を選んだのは、確かに私自身。…真白には、私を責める権利があるわ)
――――――責めてくれるなら嬉しい、とも密かに思う。それだけ若雪が、市の存在に執着していた証になるのだから。
〝ゆめ忘れるな、若雪――――――〟
季節外れの蛍が迷い込んだ、文月の夕暮れ。それが二人の別れとなった。
眠る真白に視線を戻してから、市枝が木臣に語りかけた。
「ねえ。花守って、カラオケに行ったり、映画観に行ったりとかしないの?」
「……しませんわねえ。基本的に、騒音の激しいところは、姫様も私共もあまり好みませんし。明臣あたりは、どうか判りませんけど。水臣なんかは論外ですわ」
顎に手を当て、木臣が考えながら答える。
市枝が面白そうに笑った。
「やだ、それって真白と同じ。神様気質ってやつかしら?…でもね、この人の世の、女の子たちは、そういうところに行ったり、ケーキバイキングに行ったりして楽しむのよ。私、この戦が終わったらまた真白を連れて、色んなところに引っ張り回してやるの。無粋な男抜きで。他愛ないけどね、女子高生の楽しみよ。木臣も来る?」
くすくすと笑いながら尋ねられ、木臣が小首を傾げる。
「……考えておきますわ。でも真白様は、この先、荒太どのと御一緒する時間が増えるのでは?」
二人して同時に、眠る真白の左手首を見る。
そこには金色の細いチェーンがある。その半ば程にポツリと転がる、青紫の雫型の石。
(…成瀬から貰ったとは聞いてたけど、つけてるとこは初めて見た)
悔しいけれど真白に良く似合う。
―――――――悪い夢を見ない、お守りのつもりでつけたのだろうか。
(子供みたい)
それでも市枝はふふ、と不敵に笑う。
「甘いわね、木臣。まだまだ、成瀬なんかには負けないわよ。女同士の絆も、伊達じゃないんだから」
青紫の雫も、市枝の自信を退けるものではなかった。
男女の仲とはまた異なる、静かな伏流水のような真白との繋がりを、確かに市枝は信じていた。柔らかく細く、しなやかな繋がりを――――――――――。
真白が寝込んでから三日目、陶聖学園は、迫る期末試験と夏休みの空気に、生徒たちは皆落ち着きなく行き交っていた。
そんな中、三年D組に居座る、普段は誰も近付こうとしない新庄竜軌を呼び出す強者がいた。
剣護は、誰かに頼み呼んでもらうことなく、教室の入り口から直接彼に呼びかけた。
「おい、新庄。話がある。ちょっと来いよ」
大きく響いた声に、D組の空気がざわめく。「陶聖学園の門倉」と「陶聖学園の新庄」は、全く正反対の意味で近隣の他校にも有名だった。今までまるで接点が無いと思われていた二人の、片方がもう片方を名指しで呼び出す、ということに、まずその場に居合わせた生徒は驚いた。
机の上で足を組んでいた竜軌が、ちらりと剣護を見た。
話しかけるな面倒臭い、と顔全面に書いてある。
周囲に緊張が走った。
「うざい」
一言、吐き捨てる。
「ああ、そりゃ悪かったな。あんた、耳が良いだろ。そのことで話があるんだ。良いから来いって」
竜軌の言葉を一顧だにせず剣護はさらっと受け流し、尚も手招きした。
室内の生徒たちが、ハラハラした顔で二人を見守る。中には「おい、門倉。止めとけよ」と剣護に囁きかける男子もいた。
竜軌はしばらく黙っていたが口を曲げてふん、と息を吐くと、億劫そうに立ち上がった。
「俺を易々(やすやす)と呼びつけるとは、偉くなったものだな。門倉剣護」
屋上で仁王立ちした竜軌は、気分が良くない、と言う表情だ。低く、良く通る声も若干の苛立ちを含んでいた。黒々とした目が放つ光は、それだけで気の弱い人間に圧を加えるであろう力がある。
剣護と竜軌が屋上に上がった時、そこにはたむろしていた学生たちもいたのだが、竜軌の顔を見ると蜘蛛の子を散らすように皆、屋上から消えた。
(憎まれっ子世に憚る…)
剣護はそんな諺を思い出し、退散した生徒たちに済まなく思った。
屋上では蝉の声が一際大きく響き、絵に描いたような入道雲が空に浮かんでいる。
「あんた、いつまで織田信長でいるつもりだよ。平成だぜ、今は」
剣護が呆れた顔をした。
最初から、竜軌の眼光を物ともしていない。
竜軌も平然と言葉を返す。
「前生の兄妹同士で、未だ馴れ合ってる奴が何をほざく。お前ら、見ていて多少気持ちが悪いぞ」
「………」
「さっさと用件を言え」
熱を孕んだ一陣の風が吹き、竜軌の黒髪と、剣護の焦げ茶の癖っ毛を揺らした。
「―――――新庄。あんた、巫だろう。それも、聞くのは神の声だけじゃない、魍魎、妖や、神つ力を持つ者たちの声もだ。………巫ゆえに、何か、あんただけが知ってることがあるんじゃないか?俺たちにはまだ、話してない―――――――」
は、と竜軌が軽く笑う。
可笑しそうに目が細まった。赤いピアスが、顔の動きに合わせて光る。
「妙なことを言うな。そうだとして、なぜお前たちに話してやる必要がある。俺は一度も、そちらに与すると言った覚えは無いぞ。次男坊が傷を負い、とち狂ったか。…それとも、答えれば俺に真白を寄越すか?」
竜軌の最後の台詞に、剣護の表情には怒りよりも怪訝そうな色が浮かんだ。
「………笑えない冗談だな、それ。仮定の話だとしても有り得ない条件を提示するなんて、あんたも存外、莫迦だ」
竜軌の眉が、ピクリと動く。
彼を取り巻く空気が硬化するのを、剣護は感じた。蝉の声が大きく響く。
剣護が溜め息を吐いた。右手をひらひらと振る。
やめたやめた、という態度だった。
「ああ、俺が間違ってた。…ちょっと、焦っちまったみたいだ。市枝ちゃんの兄貴だしって考え方も、甘かったな。時間取らせて悪かった」
そう言ってあっさり立ち去ろうとする剣護と、丁度通り過ぎる瞬間に、竜軌が言った。
「――――――小野太郎清隆。お前、女は斬れるか?」
不意を突かれた顔で剣護が振り向く。試すような竜軌の視線と視線がぶつかった。
竜軌は相変わらず仁王立ちのまま、腕を組んでいる。
見るからに傲岸不遜な態度が、良く似合う男だった。
重ねて、竜軌が問いかけた。
「女が斬れるか、と訊いている。どうだ?」
黒い眼差しを受けて、緑の目が眇められる。
「………敵と判断すれば、斬るしかない」
静かだが、明確な声音で剣護が答える。
竜軌は、剣護を貫くような目でじっと眺め遣った。
「ほう。…敵と判断すれば、な」
口角の片方を釣り上げる。
「―――――なぜそんなことを聞く」
竜軌がそのままの表情で言葉を返した。
「さあな。…お前の言葉を借りるなら、巫ゆえに、というところか」
剣護が去った屋上で、竜軌は一人佇んでいた。
屋上の暑さをものともしない無表情で、剣護の言葉を反芻する。
〝敵と判断すれば、斬るしかない〟
(―――――甘い答えだ。思考の詰めが、甘い。何よりあれでは、敵の定義が未だ判然としていまい。それでは真実を知った時に、揺らぎもしよう。太郎清隆。であれば……)
天を仰いで尋ねる。白く眩しい陽光が、竜軌の上から降り注ぐ。
「やはり儂が、透主の願いを叶えてやるしかあるまい…六王?」
でなくば、と言葉を続ける。最後はポツリとした呟きになった。
「………透主が哀れよ…」
返ってくる答えを、竜軌だけが確かに聴き取っていた。