憧憬 一 後半部
真白の家の玄関前に立つ市枝は、焦りと苛立ちに駆られていた。
夏至をとうに過ぎたとは言え、陽が落ちるのが遅い季節である。
頭上にある空はまだまだ青く、市枝の足元にも濃い影が出来ていた。
(蝉がうるさい…。うっとうしいったらないわ。少しは鳴き止めば良いのに。暑いし)
庭に植えてある桜の樹が、今は青々とした葉を茂らせているのが見える。
この季節は、いつもなら帰宅してすぐにシャワーを浴びるところだが、今はそれどころではない。長い髪が覆う、首にかいた汗の不快感も無視する。
(真白。また寝込むなんて――――――)
労咳に伏せる若雪の姿が、嫌になる程鮮やかに、脳裏に蘇る。
(――――――しっかりしないと。肺結核なんて、現代の医学があれば高い確率で治る。そもそもは、ただの風邪だろうし―――――――)
逸る気持ちを抑えてチャイムを鳴らそうとしたところ、その直前に玄関の戸が開いた。
慌てて、手を引っ込める。
「じゃあ、僕はこれで」
「はい、どうもありがとうございました。奥様によろしくお伝えください」
長身の男性が、中から出て来た。市枝にぶつかりそうになり、危うく避ける。
「おっと…。ごめんね」
「いえ、こちらこそ」
双方で、一瞬場所を譲り合った。
「あら、市枝ちゃん?来てくれたの?」
真白の祖母の言葉に、男が市枝の顔を見る。
「―――――真白ちゃんの、お友達かな?」
にこりと笑う。翳りが全く無い、さらっとした笑顔が印象的だ。
「はい」
「そう」
男は笑顔のまま頷くと、向かいの家に入って行った。
「お久しぶりね、市枝ちゃん。ますます美人になっちゃって」
市枝を玄関先で出迎えた真白の祖母は、にこやかに言った。傍らに置かれた紙袋からは、粒の大きな葡萄が顔を覗かせている。
市枝は折り目正しく頭を下げる。
「こんにちは、塔子さん。…今の人は」
「お向かいの、坂江崎さんとこのご主人よ。奥様のご実家が葡萄を作ってらっしゃるの。今日は早めに仕事が終わって、おすそわけを奥様から言付かってらしたんですって」
(坂江崎さん…。碧君の―――三郎の、今のお父さんか。爽やかな感じだったな。いかにも体育会系な)
一呼吸置いてから尋ねる。
「―――――あの、真白の具合はどうですか?」
一日中、この質問だけが頭を占めていたのだ。
市枝の言葉に、祖母の眉尻は下がる。同時に落とされる、溜め息。
「…昨日から熱が下がらないわ。何か悩み事があって、横になっててもあまり眠れないみたいで…私たちも心配してるの。さ、とにかく上がってちょうだい?」
「はい。お邪魔します」
少しだけ冷やしたスポーツドリンクのコップを盆に載せ、真白の祖母は市枝を伴って真白の部屋の前まで来た。軽くノックする。
「真白ちゃん?市枝ちゃんが、お見舞いに来てくれたわよ」
返事はない。
そっと戸を開けると、ベッドに横たわった真白の目は、閉じられていた。
それを見た市枝は、真白の祖母から盆を受け取り、あとは自分が引き受ける、と目線で伝えた。
祖母が階下に向かうと同時に部屋に入り、小テーブルに盆を載せる。
「………真白?」
静かな呼びかけに、返事は無い。
白い顔の額には、細かな汗がうっすらと浮いている。
そんな顔であっても、一目見ると少なからず落ち着くものはあった。闇雲な心配に、歯止めがかかる。
市枝は空調のリモコンを見つけると、窓を閉めて冷房の弱のスイッチを押した。
安らかとは言えない、寝顔を縁どる髪を見る。
(――――相変わらず、髪の毛サラサラ……。若雪より、色が薄いけど)
若雪の髪は、見事に黒々としていた。対して真白の髪は、従兄弟である剣護と同様、栗色よりは深い焦げ茶、ダークブラウンだ。
〝そなたの髪は、梳りやすそうで良いの、若雪〟
〝そうですか?〟
何気に言った市の言葉に、あまり考えたことも無かった、と言う顔で若雪が答えた。
若雪は、真白以上に自分の容姿に無頓着だった。
市は若雪のそうした性分を、呆れながらも好ましく見ていた。
(………そんな時も、あった)
夢物語のように過ぎた日々も。
ハンカチで真白の額の汗を、柔らかく拭う。
同時に、真白の身体がビクンッと跳ねるように動き、市枝もギョッとする。
「―――――真白…?」
恐る恐る名を呼ぶと、真白が目を開けた。
「市枝…あれ…?どうして……門限が、」
「――――今日は、真白に勉強の個人指導してもらう、って言って来てるから大丈夫よ。あと、塔子さんにはもう許可貰ったけど、今晩、泊まってくから」
見れば市枝は学生鞄の他に、花柄のボストンバッグを横に置いている。
「え―――――、でも私、教えてあげられる状態じゃないよ…?」
真白は本気で困惑している。
市枝の顔が、もどかしそうに歪んだ。
「口実に決まってるでしょ、そんなの!―――――何で、こんなにボロボロになってんのよ、真白。成瀬や剣護先輩は何してたのよ……!江藤も江藤だわ、心配かけて。男共が、こんなに頼りにならないなんてっ」
市枝の目尻に光るものを見て、真白は驚いた。
「市枝―――――――」
市枝が自分の額に手を遣る。
「ああ、もう、情けない。―――――――自分が一番情けないわ。真白の為になることが、全然出来てない。今生こそは、一緒に生きるって決めたのに」
そう言って、ボフッと真白にかけられたタオルケットに顔を埋めた。
真白がおろおろしながら身を起こす。
「……そんなこと言わないで。市枝らしくないよ。ちゃんと、市枝にも助けてもらってるよ。…若雪には姉はいなかったけど、私は市枝のこと、お姉さんみたいに頼もしい友達だって思ってるもの――――――。……私は市枝だって、守りたいんだよ」
市枝の長い髪を、覚束ない手つきで撫でながら、真白がたどたどしく言う。
「…真白の莫迦」
タオルケットに顔を埋めたまま、市枝のくぐもった声が響く。
「え、何で!」
市枝がガバリと身を起こす。金茶の髪が、ふわりと舞い上がる。
「良いわよ、じゃあ守りなさいよ、守ってもらおうじゃないの!!だからもっとふてぶてしく元気でいなさいよ。考え過ぎなのよ、悩み過ぎなのよ。もっと楽に生きなさいよ、面白可笑しく!良いじゃない、前生では散々苦労したんだから、そのくらい。世間の女子高生は、毎日もっと笑って過ごしてるわよっ。今の真白って歯痒いし、心配だし、見てるほうは堪んないわ。……勉強も手につかないし」
一息にそう言って、再びタオルケットにボスンと顔を埋めた。
「――――――ごめんなさい」
真白は心底謝ったが、一言付け加えるのも忘れなかった。
「…でも、最後のは私のせいじゃないでしょ。前からでしょ」
ガバリと市枝が再び身を起こす。
「それくらい、大目に見てよ。石頭!」
華のある美人の怒り顔は迫力がある。猫科動物が威嚇する時の顔にも似ていて、真白は首を竦めた。
「…ご、ごめん。ねえ、でも市枝、学校から一人で家まで来たの?危ないよ。次郎兄のことがあったすぐあとなのに」
この上、市枝にまで何かあってはと思い、真白は必死になって声を出した。
それに対して市枝は、全く問題無い、という表情を見せる。
「兄上に頼み込んで送ってもらったから、大丈夫よ。成瀬も疲れてるみたいだったから、願ったり叶ったり、って顔して飛んで家に帰ってたわよ。解りやすい奴」
「織田様を足に使ったの!?」
驚きに声を上げる真白に、市枝が眉を寄せる。
「人聞きの悪い…。ちょーっと真白の家まで送って~ってお願いしただけよ」
「………タクシーで?」
「うん」
無邪気に頷く友人を、真白は空恐ろしい思いで見つめた。
つい熱のある頭の中で、メーター幾らとして、と換算しそうになり止める。触らずにいたほうが良い物事が、世の中にはある。
(新庄先輩って、市枝には甘いというか、ちょろいんだろうか…。確かに前生からそういう傾向はあったけど…)
竜軌は――――信長は、良くも悪しくも大器ではあった。奔放で、捉えどころが無く、激しい。――――――孤独な人だった。それを顧みない強さを持ち合わせてもいたが。彼でも兄馬鹿ということがあるのだろうか、という疑惑を抱いた時、ズキン、と頭が痛んだ。
「…………」
気が緩むと、すぐに頭痛がぶり返す。
こめかみに手を当てて目を閉じた真白に、市枝が心配そうな顔になる。
「――――きつい?……ごめん。病人相手に、喚き過ぎたわね。喉、乾いてない?飲み物あるわよ。お向かいの坂江崎さん、の、旦那さんのほうから、塔子さんが葡萄をいただいてたから、頼んで貰って来ようか?」
差し出されたコップから、ちょびちょびと舐めるように、真白は水分を摂取した。
「そっか…。碧君のお父さんが」
熱に潤んだ瞳でぼんやりと言う。
「あの人、落ち着いた大人の男性って感じで、良いわよね」
「……既婚者だからね?」
「解ってるわよ、そのくらい」
「…頭、熱い…」
ぼう、とした表情で真白が呟く。そうでしょうとも、と市枝が頷いた。
「お薬飲んで、そのまま寝ちゃいなさいよ。まだ熱があるんだから。――――ほら、小太郎もいるし」
市枝の指差す先、枕元にちょこんと座るテディベアを真白は見る。
それから、壁にかかった、飛翔する鷹の写真の入った額を見た。
普段はそれで和む心が、今は固く硬直している。
「――――寝たら、嫌な夢、見るから……」
あまり眠りたくないの、と真白が顔を顰める。
「そんなこと――――――」
言ってる場合じゃない、と言いかけたが、夢の内容の切実さを知る為に、言葉は半ばで途切れた。
「………市枝?」
「…変よね、真白。私たち皆、また逢いたくて、一緒に時を過ごしたくて…転生を望んだ筈なのに――――――失くすことばかり、怖がってる。変よ」
「市枝、怖いの?」
「怖いわ」
「……でも若雪は、お市の方を置いては逝かなかったよ。…置いてけぼりにされたのは、若雪のほうだった…。あなたが、自害したと聞いた時の気持ちは、今でも忘れない」
最後のほうの声は、微かに震えた。
〝小谷の方様は御夫君共々(ごふくんともども)、御自害なされた由にございます〟
嵐下七忍の一人、黒羽森が低い声でそう告げた時、若雪は表情を変えることなく、何も言わなかったが、それが嘆きの浅さを表わしている訳ではなかった。
「――――――…」
市枝は返す言葉が出ずに、口を閉ざした。
半ば熱に浮かされて紡がれる、決して責める口調ではない声が、市枝の胸に大きく、重く響いた。共に過ごした日々を夢物語と感じたのは、自分だけではなかったと悟る。
(楽しかったのよ、真白――――――。若雪と他愛ないお喋りをする時間が、私にとってもかけがえのない安らぎだった。…陽だまりみたいな、時だった)
自分たちはそんなささやかな幸福に焦がれて、生まれ変わりを繰り返すのかもしれない。何度も何度も、たったそれだけのものが欲しくて、忘れられなくて、懸命に手を伸ばす―――――――――。
不意に泣きそうになる気持ちを強いて堪え、タオルケットを掴む手に力を入れた。
「―――……幾らでも、あとで聞くわ。恨み言なら。だから、お願いだから今は寝てちょうだい、真白…」
「……―――――無理だよ。私だって、怖いもの―――――。失くす夢を見るのは」
真白は頑なだった。
(…駄目。私じゃ真白を安心させてやれない。若雪の兄弟と違って、市は自分で死を選んでしまったから――――――肝心なところで、信用されない。自分の取った行動が、今になって跳ね返って来るなんて)
いつまでも眠りが足りないままでは、治るものも治らない。
(どうしよう。このまま、どんどん症状が悪化したら―――――――)
市枝はその可能性を考え、ヒヤリとした。
「…花守って、こんな時、来ない訳!?役に立たないんだから!」
不安に耐えかねた市枝が八つ当たり混じりの声を上げると、それを見計らったかのように、ふわりと部屋の空気が揺れた。甘い香りが漂う。
「―――――――心外ですわね」
若草色の、ふわふわとした髪。微かにグレーがかった薄い水色の開襟シャツに、揺れる濃紺のフレアースカートを穿いた美女は、蜜のように甘い声で一言不満を述べると、市枝を軽く睨んだ。