表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/102

憧憬 一 前半部

第五章 憧憬(しょうけい)


私の泣いた世界を

明るく照らした

あなただったから

ずっと一緒に

歩きたかった


     一


〝よお、相川(あいかわ)

 剣護が声をかけると、相手は振り向いた。

〝これ、今日の授業のぶんのプリント〟

 保健室のベッドに腰掛ける少女は、奇妙な生き物を見る目で、剣護を見た。

 彼女はいつも、剣護が顔を出すたびに、そんな顔をする。

 怪訝(けげん)そうな、探るような表情。

 自分は(だま)されないぞと言わんばかりの、厚意への疑い。

 余りにそれが解りやすくて、剣護はつい苦笑してしまう。

 本当に警戒するのなら、警戒しているという素振(そぶ)りさえ、相手に見せるものではない。

 少女のさらけ出す正直で不器用な面は、かえって剣護の目に好ましく映った。

〝……物好きだね、門倉君〟

〝よく言われる〟

 乾いた目をふい、と窓の外に向けて、少女は続ける。

〝私を構っても、良いことなんか無いのに〟

〝ああ?そりゃ俺の自由だ。相川に言われることじゃない〟

 まるで頓着(とんちゃく)せず言う剣護を、少女は理解出来ない、と言う目で見た。

〝―――――門倉君って、変〟

〝それもよく言われる。従兄妹(いとこ)から〟

〝…従兄妹?〟

〝うん〟

 剣護は頷き、に、と笑って白い歯を見せる。

 少女は()かれたように、その笑みを凝視(ぎょうし)した。


 目覚ましの音で起きた剣護は、今見た夢をぼんやり回想した。

 寝間着替わりのTシャツの背中は、じっとりと汗ばんでいる。

(―――――――相川?…って誰?……知らねーぞ)

 全く記憶に無い名前だ。

 試みに思い出そうとすると、頭がズキンと(にぶ)く痛んだ。

「ってえ。―――――――…何だぁ?」

 ぶら下がった電気の(ひも)が目に入る。先端には、昔、真白が海に行ったお土産にくれた、波に洗われて角の丸くなった緑のガラス片が結び付けられている。

 深い森のような緑。

〝剣護の目の色と、同じでしょう?〟

 得意そうに言う、今よりずっと幼い真白の笑顔が浮かぶ。

〝太郎兄、これ、どうしたの?〟

 怜が初めて家に泊まった晩、ガラス片を指して尋ねた。

〝ああ、それは――――…、どっかで拾った〟

「……………」

(あれ、何考えてたっけか。…忘れた)

 のっそりと身体を起こし、(ゆる)(くせ)()をガリガリ()く。

 ガラス片を軽く手で払うと、それは振り子のように、右に左に心許無(こころもとな)く揺れた。

 窓の外に広がる真っ青な空を見て、今日も暑くなりそうだと思う。


 制服に着替え、朝食を済ませてから真白の部屋を訪れると、荒太が座り込んだ体勢のまま、寝ていた。

 耳を澄ませば、すー、と静かな寝息が聴こえる。

寝相(ねぞう)の良い奴…)

 寝ている時ばかりは可愛(かわい)くも見える顔を、指先でつついてやりたくなる。

 服装にはうるさい彼だが、昨日は剣護が貸した草色の甚平(じんべえ)に、文句一つ言わず着替えていた。

(しかし………)

 やはり少しサイズが大きかったな、と寝姿を見て思う。相手はまだ発育途中の十五歳だ。

 真白はベッドの上で、タオルケットにくるまっている。彼女の寝顔を確認した剣護は、少しホッとした。

「―――――――ご苦労さん」

 寝ている荒太に(ねぎら)いの声をかける。見ている間にカクン、と荒太の頭が落ちた。

「―――――…剣護?…」

 真白がゴソゴソと半身を起こす。髪は少し乱れ、まだ寝惚(ねぼ)(まなこ)だ。

「おう。しろ、気分はどうだ?」

「うん……。なんか、頭が熱くて、ぼんやりする…」

「ちょっとおでこ貸せ」

 中腰になってチョイチョイ、と手招きする。

 寝起きだからか、真白は素直に従う。

 荒い息を吐く様子は、見るからにきつそうだった。

 ペタリ、と彼女の額に手を当てた剣護は、眉を寄せる。

「――――やっぱり、結構熱出てんな。今日も学校は休め」

「え……。じゃあ、次郎兄のところには…?」

「無理だよ。あいつだって、具合の悪いお前が見舞いに来ても、心配するだけだろ」

「――――――…」

 (もっと)もな意見に真白が黙って(うつむ)く。明らかに意気消沈(いきしょうちん)している様子が哀れだった。

「大丈夫だよ、次郎は逃げたりしないから。その内、お前より先に元気になって、逆に見舞いに来るかもしれねーぞ?」

 剣護の励ましに、真白は微かに笑った。

「そうだね――――。剣護…。私、荒太君に負担かけちゃった。疲れてただろうに、一晩中、私の言うことの相手してくれて……」

 剣護も真白も、眠る荒太を見た。二人共、彼を起こさないように、声のトーンを落として話している。

「………あいつがそうしたかったんだよ。あまり気に病むな。お前もよく眠れてないだろ。学校行く時間まで、ついててやるから寝ろ」

 真白の目は、昨日と同じくまだ赤い。

 ――――――一晩中、荒太を相手に泣き明かしたのだろうか。

「…真白、お前さ、あんまり泣くなよ。(うさぎ)から元に戻れなくなるぞ」

 彼女にもどうしようもないこと、と解っていながら、つい口を出してしまう。

 剣護に言われて、目に手を()ろうとした真白の手首を(つか)み、「こら、触るな」と注意する。その手を真白がじっと見た。

「…うん。あのね、剣護。私、もう少し、強くなるように、もっと頑張るから。…お願いが、あるんだけど」

「何?」

 美しくも痛ましい、真白の剣舞を思い出す。無理はするなと言ってやりたかった。それが言えないならせめて、真白の願うことを何でも叶えてやりたいと剣護は思った。

「……手、握ってても良い…?」

「―――――――良いよ」

 そう答えると、真白は目に見えて安心した顔になる。

(そんなことか)

「…お前、莫迦(ばか)だな」

「どうして?」

 反発するでもなく、真白が不思議そうな顔をする。

「………良いんだよ。寝ろ」

 ベッドの傍らにどっかりと座り込み、剣護はタオルケットの中から差し出された白い手を握った。

 自分に比べるとあまりに頼りない、華奢(きゃしゃ)な手。どうかすると、すぐに折れるのではないかと心配になる。

(―――――何でだろうな。お前ばかり…こんな、小さな手で)

この手が、雪華を握らずに済む未来を、剣護は願った。

(乗り切れよ、真白。その為なら、何だってしてやるから)

 心の声が聴こえたかのように、真白が子供のように澄んだ瞳で剣護を見上げてきた。

 若雪だったころから彼女は、時々、そんな目を見せた。余りに透き通ったその眼差(まなざ)しに、剣護は理由も無く不安を覚える。

 妹が遠くに行ってしまうような、錯覚(さっかく)(おちい)るのだ。

握った手に(すが)っているのは、果たしてどちらだろうか―――――――――。

 一度、二度、と(まばた)きしたあと、真白の淡い色の唇が小さく動く。

「ごめんね…」

「何を謝ってんだよ」

「うん…。ごめん」

 言葉と一緒に、細い手が剣護の大きな手をキュッと握り締めた。

(…珍しいな。こういう甘え方をするなんて。―――――――いや、そうじゃない―――――――こいつ―――――――)

 真白は〝生きている兄の手〟を握って安心したいのだ。

冷たく固まった手ではなく、温かく、脈打つ手を。

そうでもしないと、正邦の出現によって再び胸に浮上した、兄を失うのではないか、という不安を(ぬぐ)えない――――――。

〝俺ら、死なんようにしましょうね〟

 荒太の言葉が蘇る。

(死なない覚悟と、……殺す覚悟か………)

 それが、今の自分たちに最低限必要とされる条件だった。

 剣護は真白の手を握る手に、柔らかく力を籠めた。


 剣護はその日、学校が終わると、風見鶏(かざみどり)(やかた)に直行した。

 荒太は昨日、制服姿のままで風見鶏の館や真白の家まで動いたので、幾つかの教材(きょうざい)を他のクラスで借りれば無難(ぶなん)に授業を遣り過ごすことが出来た。(ただ)し、授業中の大半は寝ていたので、教師の不興(ふきょう)は買う結果になった。剣護と違い、今日は市枝を家まで送り届けたら帰って寝る、と宣言していた。

 実際、荒太には体力の充電が必要だった。

「ええ、真白、今日は来られないの?」

 相変わらず、アトリエ然としたリビングで待ち構えていた舞香は、当然落胆(とうぜんらくたん)した。つまらないわとこぼし、がっくりと肩を落とす。右手には早くも鉛筆が握られていた。イーゼルには白いキャンパスが立てかけられ、その向こうには木製でビロード張りの、座り心地の良さそうな丸椅子が置いてある。真白をモデルに描く為に準備万端(じゅんびばんたん)、諸事整えられた様子を見ると、剣護も恐縮(きょうしゅく)するものがあった。

「ちょっと熱を出してしまって。元々、あいつはあんまり丈夫(じょうぶ)じゃないもんだから…。すみません」

 剣護が申し訳なさそうに言うと、逆に舞香の目は光った。

「――――――あの子、やっぱり病弱(びょうじゃく)なの?」

「…はあ、まあ」

「素敵………」

「はい?」

 うっとりとした声で響いた言葉に、聞き間違えただろうか、と剣護が訊き返す。

「色白で、病弱で、細くて、儚げで、美形。素晴らしいわ。私の思い描く、理想の少女像そのもの…。大正のジャパーン。ああ、サナトリウムが見えてくる……っ」

「すんません、ほんまにすんません。姉さんに悪気は無いんです。ただちょっと好みが(かたよ)ってて、自分に正直過ぎるだけなんです」

 要が必死になって姉を弁護し、謝る。

「はあ………」

 マニアックな御趣味ですね、と言おうとして剣護は止める。

 世の中には色んな人間がいるものだ。


 二階で寝ていた怜は、剣護が一人で来たと見ただけで、異変を察した。

「真白に何かあったの、太郎兄?」

 傷の痛みを(こら)える顔で、半身を起こして聞いてくる。目が(けわ)しい。

(…全く、兄妹揃って敏感(びんかん)でいやがる)

 それは剣護にも言えることで、また、前生での経緯(けいい)を考えれば無理も無かった。

 いつも心のどこかで、再度の別離(べつり)懸念(けねん)している。

「――――――ちょっとな。お前はどうなんだ、熱は?傷の具合は?」

「今日は、少しだるいだけだよ。傷も悪化はしてない。それで、何があったの?」

 怜にしては性急(せいきゅう)な口調だった。

 剣護は、ちらりと窓際に立つ遥を見る。

「僕、お腹空いたんで、下でおやつでも(もら)って来ますねー」

 さすがに察しは良いらしく、遥はそう言って部屋を出て行った。

「―――――――山田正邦に、会った」

 剣護の言葉に、怜が身じろぎした。秀麗な面持ちに張り詰めた空気が漂う。

「…どういう状況で?」

「昨日、ここからの帰りの電車内で、あいつ、空間を切り離しやがった。真白が一人で、あいつと対峙(たいじ)する羽目になって。多分最初から、しろに(ねら)いを(しぼ)って衝撃を与えるつもりだったんだ。――――――正邦は、妻を自分の手で斬り、娘を病で失い、自らは狂い死にしていた。そしてその全てを若雪のせいと押し付け、若雪を逆恨みしてたんだ。真白のことも、それに連なる俺たちのことも。……憎くて仕方がないって様子だったよ」

 怜の瞳に動揺(どうよう)が走ったのは最初だけだった。

 今はもう、冷静に思考する顔つきだ。

「じゃあ、やっぱり呪詛(じゅそ)も?」

「ああ、あいつの仕業(しわざ)だった。真白に、どうして自分をひと思いに殺さなかったのかと言って、責めていた」

 ざわっ、と怜の身体から怒気(どき)が立ち(のぼ)る。

「―――――――勝手なことを!」

 剣護が深く頷いた。

「そうだ、身勝手だ。真白も、そう言っていた。口ではな。理屈では真白だって正否(せいひ)の判断はついてる。――――――ただ、今はまだ気持ちがついていかないんだ。あいつは、今生ではまだ、十六歳の女の子だ。揺らがないほうがおかしいんだよ。今は熱を出して寝込んでる。…秋山の時よりひどい」

「…可哀(かわい)そうに」

 怜がポツリと呟く。普段はあまり感情が出ない面に、憂いが表れていた。

「うん。今もきっと、心の中じゃ戦ってる。正邦の言い分だけじゃない、過去の記憶とも」

 怜が、少し黙ったあとに言った。

「…太郎兄が(うらや)ましいよ」

「――――何で」

「真白に何かあれば、すぐ飛んで行ける間柄(あいだがら)で、距離だ。―――――俺には出来ない」

 怜がそんな弱音を吐くのは珍しい。同時にそれは、剣護の罪悪感をも刺激した。

自分だけが真白の傍に生まれつき、共に育って来られたことを、剣護はずっと負い目に感じていた。

(俺は何でも耐えられたんだ、次郎。お前と違って、真白が傍にいたから―――――)

 覚醒時(かくせいじ)の混乱と苦しみも、()()ごすことが出来た。

 寝ると悪夢にうなされノイローゼに(おちい)った幼い剣護は、もっと幼かった真白を抱き締めて幾晩も眠りに就いた。腕の中の妹の温もりが、前生における悲惨な最期(さいご)の記憶で、押し(つぶ)されそうな彼を救った。

(お前にはその温もりすら与えられなかった…)

 皮肉なことに、誰より前生を思う怜が、兄妹の中で最も孤独な環境にいたのだ。

 いつも()()ぐに前だけを見つめる緑の瞳が、下を向く。

「……すまない、次郎。お前を、長いこと独りにしちまった。俺が、早くお前を見つけてやるべきだったんだ」

 後悔の(にじ)む声に、怜が苦笑する。

莫迦(ばか)だな、太郎兄。今のはただの、俺の愚痴(ぐち)だ。―――――太郎兄は、何も悪くないよ。それぐらい、俺にも解ってる」

「……お前だって、俺の大事な弟なんだ」

「解ってるよ。でも俺は男だし、大丈夫だ。太郎兄は早く帰って、真白についててやってよ」

 笑顔で言い切る怜を見た。

(平気そうな顔で笑いやがって……)

本当は、自分がついててやりたいんだろう。

 剣護はそう言いたかった。()瀬無(せな)い思いだった。

「太郎兄」

 帰ろうとした剣護に、怜が声をかける。

「―――…あの子を、守ってくれよ。俺が羨ましいと思うぶんも含めて。悔しいけど、今の俺は動けないから。……頼むよ」

 怜の瞳は真剣だった。剣護もそれに真顔で答える。

「俺に出来る限りはするさ。言われなくても。ただ……参るのが、真白は真白で俺たちを守ろうと意気込んでるところだよな。あいつは、何でああなんだろうな。実際、そうするだけの力を持ってるのが余計に厄介(やっかい)と言うか」

 自分では守れないと悔し泣きした(かつ)ての次郎の思いが、今なら少し解る気がした。

 そこでちょっと語調を変えて、剣護は続ける。

「――――――でもな次郎、お前にだって力は備わってるんだ。加えて賢い頭脳もついてる。俺だけに(ゆだ)ねてないで、自分で守れよ。……早々と、諦めてんじゃねえよ」

 怜は真顔できっぱりと答えた。

「もちろん、それはそのつもりだよ。俺だってまだ、成瀬に今のポジションを譲る気は無いからね。――――――その為にも、まずはとっとと戦線復帰(せんせんふっき)しないと」

 形の良い唇に、力強い笑みが浮かんだ。


「真白さん、ほんまに大丈夫ですか?」

 剣護の帰り際、要が尋ねてきた。

 夕暮れの陽が差し込んで、西側の窓に立てかけられたステンドグラスが、床やイーゼルに鮮やかな色を投げかけている。その中に立つ要は、宗教画に描かれた聖人像のようだった。

 軽く(ひそ)められた眉の下にある黄緑の目には、真白を気遣う思いが宿っている。

 彼の物腰の柔らかさと、こちらを純粋に(おも)()る態度に、剣護は実際に何があったのか、全て話してしまいたい気分になった。

「……はい、少し寝たら復活すると思います。そしたらまた、こちらにお邪魔させてもらうんで。相手してやってください」

 要にはもう十分世話になっている。これ以上甘えるべきではないと、剣護は自戒(じかい)した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ