憧憬 一 前半部
第五章 憧憬
私の泣いた世界を
明るく照らした
あなただったから
ずっと一緒に
歩きたかった
一
〝よお、相川〟
剣護が声をかけると、相手は振り向いた。
〝これ、今日の授業のぶんのプリント〟
保健室のベッドに腰掛ける少女は、奇妙な生き物を見る目で、剣護を見た。
彼女はいつも、剣護が顔を出すたびに、そんな顔をする。
怪訝そうな、探るような表情。
自分は騙されないぞと言わんばかりの、厚意への疑い。
余りにそれが解りやすくて、剣護はつい苦笑してしまう。
本当に警戒するのなら、警戒しているという素振りさえ、相手に見せるものではない。
少女のさらけ出す正直で不器用な面は、かえって剣護の目に好ましく映った。
〝……物好きだね、門倉君〟
〝よく言われる〟
乾いた目をふい、と窓の外に向けて、少女は続ける。
〝私を構っても、良いことなんか無いのに〟
〝ああ?そりゃ俺の自由だ。相川に言われることじゃない〟
まるで頓着せず言う剣護を、少女は理解出来ない、と言う目で見た。
〝―――――門倉君って、変〟
〝それもよく言われる。従兄妹から〟
〝…従兄妹?〟
〝うん〟
剣護は頷き、に、と笑って白い歯を見せる。
少女は惹かれたように、その笑みを凝視した。
目覚ましの音で起きた剣護は、今見た夢をぼんやり回想した。
寝間着替わりのTシャツの背中は、じっとりと汗ばんでいる。
(―――――――相川?…って誰?……知らねーぞ)
全く記憶に無い名前だ。
試みに思い出そうとすると、頭がズキンと鈍く痛んだ。
「ってえ。―――――――…何だぁ?」
ぶら下がった電気の紐が目に入る。先端には、昔、真白が海に行ったお土産にくれた、波に洗われて角の丸くなった緑のガラス片が結び付けられている。
深い森のような緑。
〝剣護の目の色と、同じでしょう?〟
得意そうに言う、今よりずっと幼い真白の笑顔が浮かぶ。
〝太郎兄、これ、どうしたの?〟
怜が初めて家に泊まった晩、ガラス片を指して尋ねた。
〝ああ、それは――――…、どっかで拾った〟
「……………」
(あれ、何考えてたっけか。…忘れた)
のっそりと身体を起こし、緩い癖っ毛をガリガリ掻く。
ガラス片を軽く手で払うと、それは振り子のように、右に左に心許無く揺れた。
窓の外に広がる真っ青な空を見て、今日も暑くなりそうだと思う。
制服に着替え、朝食を済ませてから真白の部屋を訪れると、荒太が座り込んだ体勢のまま、寝ていた。
耳を澄ませば、すー、と静かな寝息が聴こえる。
(寝相の良い奴…)
寝ている時ばかりは可愛くも見える顔を、指先でつついてやりたくなる。
服装にはうるさい彼だが、昨日は剣護が貸した草色の甚平に、文句一つ言わず着替えていた。
(しかし………)
やはり少しサイズが大きかったな、と寝姿を見て思う。相手はまだ発育途中の十五歳だ。
真白はベッドの上で、タオルケットにくるまっている。彼女の寝顔を確認した剣護は、少しホッとした。
「―――――――ご苦労さん」
寝ている荒太に労いの声をかける。見ている間にカクン、と荒太の頭が落ちた。
「―――――…剣護?…」
真白がゴソゴソと半身を起こす。髪は少し乱れ、まだ寝惚け眼だ。
「おう。しろ、気分はどうだ?」
「うん……。なんか、頭が熱くて、ぼんやりする…」
「ちょっとおでこ貸せ」
中腰になってチョイチョイ、と手招きする。
寝起きだからか、真白は素直に従う。
荒い息を吐く様子は、見るからにきつそうだった。
ペタリ、と彼女の額に手を当てた剣護は、眉を寄せる。
「――――やっぱり、結構熱出てんな。今日も学校は休め」
「え……。じゃあ、次郎兄のところには…?」
「無理だよ。あいつだって、具合の悪いお前が見舞いに来ても、心配するだけだろ」
「――――――…」
尤もな意見に真白が黙って俯く。明らかに意気消沈している様子が哀れだった。
「大丈夫だよ、次郎は逃げたりしないから。その内、お前より先に元気になって、逆に見舞いに来るかもしれねーぞ?」
剣護の励ましに、真白は微かに笑った。
「そうだね――――。剣護…。私、荒太君に負担かけちゃった。疲れてただろうに、一晩中、私の言うことの相手してくれて……」
剣護も真白も、眠る荒太を見た。二人共、彼を起こさないように、声のトーンを落として話している。
「………あいつがそうしたかったんだよ。あまり気に病むな。お前もよく眠れてないだろ。学校行く時間まで、ついててやるから寝ろ」
真白の目は、昨日と同じくまだ赤い。
――――――一晩中、荒太を相手に泣き明かしたのだろうか。
「…真白、お前さ、あんまり泣くなよ。兎から元に戻れなくなるぞ」
彼女にもどうしようもないこと、と解っていながら、つい口を出してしまう。
剣護に言われて、目に手を遣ろうとした真白の手首を掴み、「こら、触るな」と注意する。その手を真白がじっと見た。
「…うん。あのね、剣護。私、もう少し、強くなるように、もっと頑張るから。…お願いが、あるんだけど」
「何?」
美しくも痛ましい、真白の剣舞を思い出す。無理はするなと言ってやりたかった。それが言えないならせめて、真白の願うことを何でも叶えてやりたいと剣護は思った。
「……手、握ってても良い…?」
「―――――――良いよ」
そう答えると、真白は目に見えて安心した顔になる。
(そんなことか)
「…お前、莫迦だな」
「どうして?」
反発するでもなく、真白が不思議そうな顔をする。
「………良いんだよ。寝ろ」
ベッドの傍らにどっかりと座り込み、剣護はタオルケットの中から差し出された白い手を握った。
自分に比べるとあまりに頼りない、華奢な手。どうかすると、すぐに折れるのではないかと心配になる。
(―――――何でだろうな。お前ばかり…こんな、小さな手で)
この手が、雪華を握らずに済む未来を、剣護は願った。
(乗り切れよ、真白。その為なら、何だってしてやるから)
心の声が聴こえたかのように、真白が子供のように澄んだ瞳で剣護を見上げてきた。
若雪だったころから彼女は、時々、そんな目を見せた。余りに透き通ったその眼差しに、剣護は理由も無く不安を覚える。
妹が遠くに行ってしまうような、錯覚に陥るのだ。
握った手に縋っているのは、果たしてどちらだろうか―――――――――。
一度、二度、と瞬きしたあと、真白の淡い色の唇が小さく動く。
「ごめんね…」
「何を謝ってんだよ」
「うん…。ごめん」
言葉と一緒に、細い手が剣護の大きな手をキュッと握り締めた。
(…珍しいな。こういう甘え方をするなんて。―――――――いや、そうじゃない―――――――こいつ―――――――)
真白は〝生きている兄の手〟を握って安心したいのだ。
冷たく固まった手ではなく、温かく、脈打つ手を。
そうでもしないと、正邦の出現によって再び胸に浮上した、兄を失うのではないか、という不安を拭えない――――――。
〝俺ら、死なんようにしましょうね〟
荒太の言葉が蘇る。
(死なない覚悟と、……殺す覚悟か………)
それが、今の自分たちに最低限必要とされる条件だった。
剣護は真白の手を握る手に、柔らかく力を籠めた。
剣護はその日、学校が終わると、風見鶏の館に直行した。
荒太は昨日、制服姿のままで風見鶏の館や真白の家まで動いたので、幾つかの教材を他のクラスで借りれば無難に授業を遣り過ごすことが出来た。但し、授業中の大半は寝ていたので、教師の不興は買う結果になった。剣護と違い、今日は市枝を家まで送り届けたら帰って寝る、と宣言していた。
実際、荒太には体力の充電が必要だった。
「ええ、真白、今日は来られないの?」
相変わらず、アトリエ然としたリビングで待ち構えていた舞香は、当然落胆した。つまらないわとこぼし、がっくりと肩を落とす。右手には早くも鉛筆が握られていた。イーゼルには白いキャンパスが立てかけられ、その向こうには木製でビロード張りの、座り心地の良さそうな丸椅子が置いてある。真白をモデルに描く為に準備万端、諸事整えられた様子を見ると、剣護も恐縮するものがあった。
「ちょっと熱を出してしまって。元々、あいつはあんまり丈夫じゃないもんだから…。すみません」
剣護が申し訳なさそうに言うと、逆に舞香の目は光った。
「――――――あの子、やっぱり病弱なの?」
「…はあ、まあ」
「素敵………」
「はい?」
うっとりとした声で響いた言葉に、聞き間違えただろうか、と剣護が訊き返す。
「色白で、病弱で、細くて、儚げで、美形。素晴らしいわ。私の思い描く、理想の少女像そのもの…。大正のジャパーン。ああ、サナトリウムが見えてくる……っ」
「すんません、ほんまにすんません。姉さんに悪気は無いんです。ただちょっと好みが偏ってて、自分に正直過ぎるだけなんです」
要が必死になって姉を弁護し、謝る。
「はあ………」
マニアックな御趣味ですね、と言おうとして剣護は止める。
世の中には色んな人間がいるものだ。
二階で寝ていた怜は、剣護が一人で来たと見ただけで、異変を察した。
「真白に何かあったの、太郎兄?」
傷の痛みを堪える顔で、半身を起こして聞いてくる。目が険しい。
(…全く、兄妹揃って敏感でいやがる)
それは剣護にも言えることで、また、前生での経緯を考えれば無理も無かった。
いつも心のどこかで、再度の別離を懸念している。
「――――――ちょっとな。お前はどうなんだ、熱は?傷の具合は?」
「今日は、少しだるいだけだよ。傷も悪化はしてない。それで、何があったの?」
怜にしては性急な口調だった。
剣護は、ちらりと窓際に立つ遥を見る。
「僕、お腹空いたんで、下でおやつでも貰って来ますねー」
さすがに察しは良いらしく、遥はそう言って部屋を出て行った。
「―――――――山田正邦に、会った」
剣護の言葉に、怜が身じろぎした。秀麗な面持ちに張り詰めた空気が漂う。
「…どういう状況で?」
「昨日、ここからの帰りの電車内で、あいつ、空間を切り離しやがった。真白が一人で、あいつと対峙する羽目になって。多分最初から、しろに狙いを絞って衝撃を与えるつもりだったんだ。――――――正邦は、妻を自分の手で斬り、娘を病で失い、自らは狂い死にしていた。そしてその全てを若雪のせいと押し付け、若雪を逆恨みしてたんだ。真白のことも、それに連なる俺たちのことも。……憎くて仕方がないって様子だったよ」
怜の瞳に動揺が走ったのは最初だけだった。
今はもう、冷静に思考する顔つきだ。
「じゃあ、やっぱり呪詛も?」
「ああ、あいつの仕業だった。真白に、どうして自分をひと思いに殺さなかったのかと言って、責めていた」
ざわっ、と怜の身体から怒気が立ち上る。
「―――――――勝手なことを!」
剣護が深く頷いた。
「そうだ、身勝手だ。真白も、そう言っていた。口ではな。理屈では真白だって正否の判断はついてる。――――――ただ、今はまだ気持ちがついていかないんだ。あいつは、今生ではまだ、十六歳の女の子だ。揺らがないほうがおかしいんだよ。今は熱を出して寝込んでる。…秋山の時よりひどい」
「…可哀そうに」
怜がポツリと呟く。普段はあまり感情が出ない面に、憂いが表れていた。
「うん。今もきっと、心の中じゃ戦ってる。正邦の言い分だけじゃない、過去の記憶とも」
怜が、少し黙ったあとに言った。
「…太郎兄が羨ましいよ」
「――――何で」
「真白に何かあれば、すぐ飛んで行ける間柄で、距離だ。―――――俺には出来ない」
怜がそんな弱音を吐くのは珍しい。同時にそれは、剣護の罪悪感をも刺激した。
自分だけが真白の傍に生まれつき、共に育って来られたことを、剣護はずっと負い目に感じていた。
(俺は何でも耐えられたんだ、次郎。お前と違って、真白が傍にいたから―――――)
覚醒時の混乱と苦しみも、遣り過ごすことが出来た。
寝ると悪夢にうなされノイローゼに陥った幼い剣護は、もっと幼かった真白を抱き締めて幾晩も眠りに就いた。腕の中の妹の温もりが、前生における悲惨な最期の記憶で、押し潰されそうな彼を救った。
(お前にはその温もりすら与えられなかった…)
皮肉なことに、誰より前生を思う怜が、兄妹の中で最も孤独な環境にいたのだ。
いつも真っ直ぐに前だけを見つめる緑の瞳が、下を向く。
「……すまない、次郎。お前を、長いこと独りにしちまった。俺が、早くお前を見つけてやるべきだったんだ」
後悔の滲む声に、怜が苦笑する。
「莫迦だな、太郎兄。今のはただの、俺の愚痴だ。―――――太郎兄は、何も悪くないよ。それぐらい、俺にも解ってる」
「……お前だって、俺の大事な弟なんだ」
「解ってるよ。でも俺は男だし、大丈夫だ。太郎兄は早く帰って、真白についててやってよ」
笑顔で言い切る怜を見た。
(平気そうな顔で笑いやがって……)
本当は、自分がついててやりたいんだろう。
剣護はそう言いたかった。遣る瀬無い思いだった。
「太郎兄」
帰ろうとした剣護に、怜が声をかける。
「―――…あの子を、守ってくれよ。俺が羨ましいと思うぶんも含めて。悔しいけど、今の俺は動けないから。……頼むよ」
怜の瞳は真剣だった。剣護もそれに真顔で答える。
「俺に出来る限りはするさ。言われなくても。ただ……参るのが、真白は真白で俺たちを守ろうと意気込んでるところだよな。あいつは、何でああなんだろうな。実際、そうするだけの力を持ってるのが余計に厄介と言うか」
自分では守れないと悔し泣きした嘗ての次郎の思いが、今なら少し解る気がした。
そこでちょっと語調を変えて、剣護は続ける。
「――――――でもな次郎、お前にだって力は備わってるんだ。加えて賢い頭脳もついてる。俺だけに委ねてないで、自分で守れよ。……早々と、諦めてんじゃねえよ」
怜は真顔できっぱりと答えた。
「もちろん、それはそのつもりだよ。俺だってまだ、成瀬に今のポジションを譲る気は無いからね。――――――その為にも、まずはとっとと戦線復帰しないと」
形の良い唇に、力強い笑みが浮かんだ。
「真白さん、ほんまに大丈夫ですか?」
剣護の帰り際、要が尋ねてきた。
夕暮れの陽が差し込んで、西側の窓に立てかけられたステンドグラスが、床やイーゼルに鮮やかな色を投げかけている。その中に立つ要は、宗教画に描かれた聖人像のようだった。
軽く顰められた眉の下にある黄緑の目には、真白を気遣う思いが宿っている。
彼の物腰の柔らかさと、こちらを純粋に思い遣る態度に、剣護は実際に何があったのか、全て話してしまいたい気分になった。
「……はい、少し寝たら復活すると思います。そしたらまた、こちらにお邪魔させてもらうんで。相手してやってください」
要にはもう十分世話になっている。これ以上甘えるべきではないと、剣護は自戒した。