再会 四 後半部
「じゃあやっぱり…、剣護に呪詛を放ったのは、あなただったの……」
〝もうすぐ、懐かしい顔に出会えるよ。尤も彼は、〟
そうだ。チャコールグレーのスーツの男は、確かにそう言っていた。
今生にて再会する相手が、必ずしも慕わしい存在とは限らない。
〝―――――尤も彼は、君が憎くて仕方がないようだがね〟
「ふん、気付いておったか。その通り。私が魍魎と手を組んだのも全て、憎きお主らをこの手で殺さんが為。…――――二番目の兄が、深手を負うたようじゃな?死に至らなんだとは、実に残念」
真白は目を見張ったまま、尋ねた。
「―――――若雪のしたことを、それ程に恨んでいるの?…あなたの足の腱を切ったのは、若雪にとっても悩んだ末の、ギリギリの選択だったのに―――――――…」
正邦の顔が、一層皮肉げに歪む。
ここまで歪んでしまっては、喜怒哀楽のどれを表現したいのかすら判らない。
「ああ、ああ、私の命を奪うことで、己の手を汚さぬ為の、最良の選択であったな、確かに!!あのあと――――お主に命じられた通り、国造様に御師職と室を返上したのち、妻と子と郎党を連れ私は出雲を去った。されど、つき従ってくれた僅かな郎党も、……不具の身となった私を次第に見捨て、一人二人と離れて行った」
ギリッと正邦は歯軋りした。
「何より、出雲大社の御師という立場を失った私には、妻子や家臣を養うたづきが無かった。妻は、私や娘を喰わせる為に、私に隠れて――――身を売ろうとした。……私は、私はそれを斬った。そして…娘も病で死んだ時、私もまた、発狂して果てたのじゃ――――――………。今生にてその経緯を思い出した私は、小野若雪、お主とお主の兄弟に、必ず復讐してやると誓った」
真白は、ただただ茫然としていた。
「どう…して、自分の奥さんを、斬ったの?」
ギロリ、と正邦が目を上げた。
「知れたこと。あれが、沙耶が、不貞を働こうとしたからじゃ」
「不貞って……それは――――、でもそれは、あなたや娘さんの為でしょう?」
「それでもじゃ!沙耶が、他の男の慰み者になるなど、耐えられよう筈も無い!!」
「―――――――だから殺したの」
真白の言葉に、正邦の血走った目が震えるように揺れた。
(……こんな人でも―――――、奥さんを愛してたのか。こんな人でも、奥さんのことが…、娘さんのことが…、大事だったんだ―――――――……。…驚くことじゃない。若雪だって、その可能性は何度も考えた)
その末の苦渋の選択は、しかし正邦を生き地獄に突き落とした。
真白は、わななく唇を一度引き締めたあと、口を開く。
(頭が痛い――――痛い。何てひどい、頭痛)
「…どうして、自分の大事な人を殺してしまったの。自分の一部を殺すのと同じことなのに――――…」
「黙れ。私の舐めた辛酸を知らぬお主が、したり顔で物を申すな。お主が所業の果てであろうが。お主が望んだことであろうが!!」
真白は無言で首を横に振る。
(望んでない。望んでなんていなかった。そんなこと―――――――)
訊かずにはいられなかった。気付けば口が動いていた。
「私は、あなたを殺していたほうが良かったの?」
誰か他人が喋るもののように、真白は自分の声を聴いた。
〝アナタヲコロシテイタホウガ―――――〟
正邦が即座に答えを返す。
「ああ、その通りじゃ。いっそ、ひと思いにな……」
真白は、正邦を真正面から見つめた。
―――――釈迦の月は隠れにき 慈氏の朝日はまだ遙か――――――
釈迦の死後、弥勒菩薩が衆生を救うまでの約束は遠い先の世。
五十六億七千万年の先。
救いの手が人に及ぶまでには、余りに遠い―――――――。
(遠い………。神仏が、人の苦悩に追い付くには)
唇から、言葉がこぼれ落ちる。
「…勝手だわ」
「――――何?」
「あの時、私があなたを殺していれば、残された奥さんや娘さんは、まだ幸せだったの?突然、何の前触れも無く夫を、父親を殺された彼女たちが、耐え難い苦しみを負わないとでも思うの?」
正邦を、睨み据える。
「―――――――私は思わない。だって若雪は、突然、前触れも無く父を、母を、兄弟を皆殺されて、ものすごく苦しんだもの!死んでしまいそうなくらい、気が狂いそうになるくらい、悲しかったもの」
それは未だに夢に見る程の、喪失感。
嘗て十四歳の若雪が、全てを失った瞬間―――――――。
(今の私より、若雪は幼かったのに)
「………そう仕向けたのは、他ならないあなたでしょう。………あなたはまだ、自分が若雪にした仕打ちの意味も、奥さんたちの思いも、まるで解ってない―――――……」
正邦の目は忙しなく動き、返す言葉を探していた。
その時。
耳をつんざくような大きな音が響き、車内の空間に突如、亀裂が走った。
真白が首を巡らせる。
「おいてめー、山田正邦。俺の妹、苛めてんじゃねえよ。勝手な理屈ばっか抜かしやがって、ふざけんな」
剣護が上半身だけ亀裂から出して、正邦に対し吠えるように言う。
その後ろから、荒太も顔を覗かせた。
「痛い。俺の足踏んでます、先輩。この異空間を破ったんは俺ですよ。抜け駆けせんといてください」
「剣護…。荒太君」
剣護と荒太が、先を争うように空間の裂け目から抜け出て、真白の前に着地した。剣護が正邦を見る目は燃えるようで、反対に荒太の目は氷のように冷たい。
「―――私は、間違っていない」
唸るように正邦は言い、その場から姿をかき消した。
「どの口がほざく…待ちやがれ、この野郎」
「剣護っ」
泥のような皮膚。一つ目の化け物の拳が、剣護を襲った。
「――――――またこいつか!」
紙一重でそれを避けると、剣護は臥龍を呼ぼうとした。しかしそれより早く「雪華!」と叫ぶ声が響き、その魍魎の手首から先がスッパリと切り落とされた。
魍魎が激しい叫び声を上げ、あたりに濃い腐臭が満ちる。
振り返った先には、雪華を構えた真白がいた。
瞳は、底光りしている。
「剣護。荒太君。手を出さないで」
静かな声だったが、剣護も荒太も、その声に動きを封じられた。
従わざるを得ない静やかさだった。
音を立てず、圧倒的に降り積もる白い雪のような。
もう一体の魍魎の、襲い来る腕をすり抜けながら、その胸に雪華を突き立てる。
「私がやる。――――――呪詛返しはしない。直接、斬る」
そう宣言すると、返す刃で三体目の胴を薙いだ。
白く細い腕が俊敏に見せる閃きは、美しい。
真白の動きは、さながら流麗な舞だった。
(肉を斬り払う感触。斬る感触。あの時も。正邦の足を斬った、あの時も)
雪華を振るいながら、真白は泣いていた。
〝私は、間違っていない〟
(違う!そんなことない。間違っていないのは、私だ。私のほうだ―――――)
旋回するような身ごなしで、涙を散らしながら二体目の喉を掻き切る。
(私のほうが、間違っていない。――――――返り血が飛ぶ。構うものか)
一体目の肩を削ぐ。
今生において、真白はこれまでどこか戸惑いつつ、本能のままに雪華を繰っていた。
それが、どのように動けば相手が斬れるか、皮肉なことに今では良く理解出来た。
理解出来れば、その先は呆気ない程に容易い。
心は泣きながらも、真白の剣筋は冴え渡っていた。
(私は、間違ってない。間違ってない。間違って、いない)
溢れる涙で、魍魎の姿がぼやけたところで、意識が途切れた。
電車の中で真白の姿が忽然と消えたあと、荒太が魔を祓う秘文を唱えて空間を切り開くまで、しばしの時を要した。その間も、真白と山田正邦の遣り取りは、二人の頭に直接響くように傍受されていた。
魍魎を倒し切ったところで倒れた真白の手と顔は、返り血に塗れていた。それを見て取った剣護は、すぐさま彼女と空間に伊吹法を施した。
電車からバスに乗り換え、真白を家まで運ぶ間、剣護も荒太も無言だった。
沈黙したまま、気を失った少女を背負う剣護と一緒に歩む荒太は衆目を集めたが、二人共それを気にも留めなかった。
もう日はとうに落ち、どこからともなく虫の音が聴こえてくる。人が夏の暑さに対応しようとする横で、既に秋は近付いて来ているのだ。
剣護が、バスから降りて少し歩んだあたりで、背中の真白が何か呟いた。
「…てない…」
剣護と荒太がハッとして真白を見る。
「―――――しろ?」
剣護が背に向けて呼びかけた。
「…たし、まちがって…い……たろ、あに?」
それは夢現でこぼれた呟きだった。
「――――――ああ、お前は間違ってないよ。真白」
すう、と再び真白が静かになる。
背負う妹の身体は既に熱を帯びて、剣護の背中までじわりと温めていた。
耐え切れないように剣護が、低い怒声を発する。
「ふざけるな…。くそっ」
剣護にとって正邦は、前生で自分を、若雪を除いた家族皆を、殺した相手だ。それを少しも省みるところのない正邦に、怒りが込み上げるのは当然だった。その上正邦は、勝手な理屈で真白を逆恨みし、再び自分たちを殺そうと目論んでいる。気を失い、魍魎の血と、涙に濡れた真白の顔を見た時に剣護の胸に込み上げたのは、山田正邦に対する紛れも無い殺意だった。
荒太は、しばらく黙って剣護と真白の二人を見ていた。
「……真白さん、ちゃんと反論してましたね。自分が信じる正しさを、言うてた。怯まんと。…強かったですね。――――――綺麗な剣舞やった」
哀しいくらいに、と荒太が続ける。
「――――――どうして真白ばかりが、痛手を負わなければならない。人として転生し続ける道を選んだことは、許されないことなのか?どれ程の苦痛と引き換えなら、真白の選択と釣り合うって言うんだ」
滅多に無いことだが、剣護は静かに激昂していた。
先を行く剣護の表情は、荒太には見えない。
ここに至るまで剣護は、なぜついて来るのだ、と荒太に問いかけもしなかった。
その後ろ姿に、荒太は穏やかな声をかける。
「……剣護先輩。俺ら、死なんようにしましょうね」
「あ?」
唐突な荒太の言葉に、剣護が振り返る。
「今回の、江藤の件で、よう解ったでしょう。真白さんが一番泣くんは、俺たちが傷を負うたり、…死んだりした時です。真白さんを守るんももちろん大事ですけど、そこを忘れたら、彼女をほんまの意味では守り損なうて思うんです」
「………賢いこと言うな、荒太」
感心したような剣護の声に、荒太は少し笑う。苦いものの混じった笑みだった。
「賢い、ですかね。―――――俺、嵐の時に、一回やらかしたから。若雪どのが、死に近付いて行くんが怖あて、ちょっとおかしなっとったんや。自分の命を使うても、運命違えの術をやろなんて思うて。……結果、彼女を自害に追い込んだ。ほんまに阿呆やったわ………。真白さんのこと考えるんなら、一人も死なんと一緒に生きてくよう、思わなあかん。せやから俺は、石にかじりついてでも生きますよ、剣護先輩」
荒太の言葉のあと、剣護からの反応は中々返って来なかった。
虫が鳴いている。空には一つ、二つと星が瞬いて、もうすぐ真白の家が見えてくる。
「――――――荒太。お前の家って、外泊にはうるさいほうか?」
「え?いえ、前もって言うてたら、そないには……」
「じゃあ今晩、真白についててやれるか。多分こいつ、また寝込むだろう。…嫌な夢とか、見るかもしれない。お前が妙な真似しないって誓って約束するなら、ばあちゃんたちを俺が説得してやるよ。風呂や飯なんかは家で面倒見てやる」
振り向いた剣護の目は静かだった。
「どうだ――――――――?」
荒太の顔には最初、驚きの表情が浮かんでいたが、やがて真摯な目をして顎を引いた。
「約束します」
間違ってない。
間違ってない。
私は、間違ってない――――――。
ああ―――――でも、また魍魎を滅した。殺した―――――――――。
血を浴びて。血に塗れて。
生まれ変わっても、やはり私の手は血に染まるのか。
(…選んだのは、私だ)
間違ってない。
間違ってない。
真白は闇の中で、その言葉だけをひたすら、後生大事に胸の内で繰り返していた。
その言葉に縋りついていなければ、後悔の海に溺れて、沈んでしまう気がした。
もしも、あの時、違う決断をしていれば。
その考えに囚われてしまえば、もう終わりだ。
自分を信じられなくなる。
信じて生きていけなくなる―――――――――。
(だってあなたは、私から奪ったじゃないの)
父も母も、兄も弟も、世界の全てだった命を、奪っていったではないか。
(私を責めるなら、返してからにして―――――――)
時を巻き戻して、奪い去ったものを返してから物を言え。
あの血の海を無かったことに出来るなら。
「…真白さん」
躊躇いがちな声が、真白の意識を覚醒させた。
暗闇に、一条の光が差し込むように。
心配そうに覗き込む顔は兄ではなかった。
「………荒太、君」
(血の海が無ければ―――――嵐どのとは出会えなかった。荒太君とは、出会えなかった)
やり切れない思いに涙が溢れ、真白は布団に顔を押し付けた。
(どうしてこうなんだろう―――――――どうして。人の世は、どちらかを選択せずにはいられないように出来てる)
ベッドの上で身体を丸く縮めて、真白は泣いた。
「――――嵐どのに、荒太君に逢いたかったよ……っ」
「……知ってる」
「でも、太郎兄たちを亡くしたくもなかったの―――――――…!!」
「当たり前だよ。解ってる」
「荒太君のことが、好きだよ――――――」
「それも知ってる」
「私、――――魍魎を斬って、……ち、血で、汚れた……。―――――嫌いに、なった――――――?」
「ならない」
一晩中、真白は眠っては目を覚まし、荒太に何かを言ったり、問いかけたりした。荒太は真白の言葉に一つ一つ律儀に応じた。長い夜になった。そうして気が付けば空が白んで、また新しい一日が始まろうとしていた。