再会 四 前半部
四
そろそろ帰らなければ祖母たちに怪しまれる、という時間になっても、真白は中々怜の傍を離れようとはしなかった。
「こおら、しろ。いい加減、帰るぞ。ばあちゃんたちが待ってるだろうが」
「うん………」
剣護の言葉にそう生返事は返すものの、怜の枕辺に据えた腰を上げようとしない。
そんな真白を見て、怜が真顔で言う。
「――――真白、今日このまま泊まってく?」
「良いの!?」
「良くありません!!嫁入り前の娘がっ」
「阿呆言うな、江藤っ!それはいずれ俺が言うべき台詞や!!」
怜の言葉に喜色を露わにした真白に対し、剣護と荒太の二重奏が響いた。
お前でもねーよ、と剣護が荒太の頭をはたく。
「まあ、冗談は置いとくとして。俺は大丈夫だから、真白。もう今日は帰るんだ。太郎兄をあまり困らせちゃ駄目だよ」
「うん……。――――次郎兄、明日来たら、ドロンッて消えてたりしない?」
古い言い回しに、思わず怜は笑いそうになる。
「しないよ。物理的に不可能だ。それより俺は、期末試験のほうが心配だよ。陶聖に転入してから、まだ一度も真白に勝ててないからね。何とか兄として面目躍如しないと」
「うん……。あ、そうだ。明日、小太郎、連れて来ようか。かわいいし。ベッドで大人しくしてるしかない時とか、癒されるよ?」
真白の目が、良い案を思いついた、と言うように輝く。
「――――――いや。気持ちは有り難いけど、遠慮しとくよ」
「真白、男子高校生相手にテデイベアをごり押しするんじゃない」
ダメだこいつは、と剣護が真白の両脇に手を入れるとヒョイと持ち上げ、無理やり怜から引き離した。腕力と長身の成せる業だ。おおー、と遥が素直に感心した声を上げ、真白が宙で足をバタバタさせる。
「じゃあな、次郎。念の為、荒太がこの小僧を置いててくれるらしいから。………まあ、安心して休め」
言葉とは裏腹に、剣護の顔には、危ぶむ色がある。
こいつで大丈夫か、という顔で指差された遥は、些かふくれた。居並ぶ面々の中でもとりわけ幼い容姿が、一層、子供っぽく見える。怜の表情にも、不安と懸念が浮かんでいた。
「………中学生だろう?大丈夫なの。家の人が心配するんじゃ」
「ああ、その辺の心配はいらんで、江藤。そいつの家、大家族な上に滅茶苦茶、放任主義やから。こう見えてそれなりに腕も立つしな」
「こう見えてって何ですかー。それなりにって何ですかー」
遥が荒太の下す評価に、口を尖らせ不満そうな声を上げた。
まだ名残惜しそうな真白を引っ張るようにし、剣護は要と舞香に挨拶した。
「じゃあ、今日は、本当に御厄介になりました。…恐縮ですが、怜のこと、よろしくお願いします。あと、もう一人、余分な頭数増やしてすみません。また明日、様子を見に来ますんで」
そう言いながら頭を下げる。
「気にせんといてください」
微笑みながら要が言う。
「そうよお。あんな可愛い子の面倒なら、いつでも見てあげるわ。大歓迎よ。あのおまけの子も、ご飯はちゃんと食べさせるから。真白、モデルになる約束、忘れないでね」
「―――――はい。…頑張ります」
舞香の言葉に、手首をしっかり剣護に確保された真白が頷いた。
やだ頑張ることなんてないのよー、と舞香が可笑しそうに笑い、手を振った。
三人が電車に乗って揺られるころには、夏の長い日も落ちかけていた。真白を間に挟み、剣護と荒太はそれぞれ座席に腰を落ち着けている。
車窓からはオレンジ色の残照が見える。
「…………」
日が沈んで尚、空に残る夕日の光に照らされた真白の表情は、少し硬い。
瞳はぼう、として、心ここにあらずと言った風情だった。
恐らくまだ、怜のことで頭が一杯なのだ。
〝前生のトラウマで、家族を亡くすってことにえらく敏感なんだ〟
(それは解るけど―――――――)
荒太としては、存在を忘れられているようで、悔しいような寂しいような気分になる。
彼女の気を逸らすべく、口を開く。
「…真白さん、舞香さんに、ステンドグラス、教えてもらうんやて?」
その問いかけに、夢から覚めたような顔で真白が荒太を見た。
「―――――うん」
「ふうん………」
荒太が、何気ない風を装い相槌を打つ。
そこで真白は、どこか躊躇いがちに口を開いた。
「あの、荒太君は、…その、―――――ガラスは、好き?」
(どういう質問だ、そりゃ)
黙って聞いていた剣護が、ズリ、と脱力した。
荒太は頷きながら真面目に答える。
「うん。結構、好き」
(……………何だ、この会話)
どうにも聞いてると突っ込みを入れたくなる、と思い、剣護は、こいつらの声は音楽だ、バックミュージックだ、と自分に言い聞かせた。加えてこの場においては、自分の存在がひどく野暮なものになっている気がした。
(俺ってもしかしてすげー邪魔者?)
そう思ったが、まあ良いか、当分は邪魔してやれ、と開き直る。
「そっか」
真白が微笑む。
「……あの、お家でコースターとか、使ったりする?」
「――――――うん。すごく、よく使うよ。しょっちゅう」
荒太の肯定には力が入っていた。
「そっかぁ……」
安堵したように笑う真白を見て、顔には出さないものの、剣護は複雑な気持ちになった。
(…解りやす過ぎる……)
素直と言えば聞こえは良いが。
大丈夫か俺の妹は、と思わず心配になる。
舞香からの情報も合わせれば、荒太の誕生日プレゼントに、ステンドグラスで作ったコースターを贈ろうと考えている、と丸わかりだ。
「―――――剣護先輩って、誕生日は…」
「俺?四月。四月八日。何だ、別に今更プレゼントはいらんぞ」
ふと今気付いたように、荒太に訊かれて答える。剣護は現在、十八歳だ。
「いや、せやのうて、真白さんから何貰うたんですか」
「革製のブックカバー。俺様に相応しく、知的なチョイスだろ」
ふふん、と自慢げに剣護は笑みを浮かべる。
「剣護、今年は受験生だし、そういうのが良いと思ったの」
「へえ……」
補足して説明する真白の微笑みに、荒太は面白くなさそうな顔をする。
剣護は笑いをかみ殺していた。
「江藤は?」
「次郎兄は、まだだいぶ先。十二月だったよね、剣護?」
「うん、確か」
「じゃあ、あいつ俺より年下の期間があるんや」
少し愉快そうに、荒太が言う。
「そう、私よりもだよ。次郎兄なのに、何だか変な感じ。荒太君も、今はまだ私より年下だね」
「…まあね。――――――何笑うてるんですか、剣護先輩」
「いや別に?」
まだ含み笑いをしている剣護に、真白はずっと気にかけていた問いを口にした。
「ねえ、剣護。…次郎兄の御両親に、連絡とかしないで良いのかな?…もう大丈夫って言っても、ひどい怪我をしたんだもの」
これに剣護が答える。笑みが引っ込み、少し考える面持ちになった。
「ああ…、それがあいつ、今、親御さんとは半ば絶縁状態で――――。その代わり、あいつを赤ん坊の時からずっと可愛がってくれてる祖父さんがいて、学費や生活費なんかは、その祖父さんが出してくれてるらしい。だから連絡するとすりゃそっちが先なんだが…お年寄り相手に、無闇に心配かけるのもな……。まあ、そのへんは次郎が自分で判断するだろ」
「へえ…」
荒太が新事実を聞いた、という顔をする。
真白もこの話は初耳だった。
(お母さんに、〝親不孝者〟って泣かれた、って言ってたものね。……次郎兄には、本当に、私たちと、そのお祖父さんしかいないんだ―――――――………)
彼の孤独を、真白は思った。
怜は誰より、前生の記憶を一途に思っている。
けれどその一途さは、どこか哀しい。
(何が正しいと、言えるものでもないけれど……。次郎兄は、あんなに何でも出来て大人っぽいのに、見ていて危なっかしい気持ちになる時がある。私がそう感じるくらいだもの、剣護は、きっともっとそう思ってる。…私が次郎兄の為に出来ることがあれば、何だってするのに)
真白が考え込んでいると、突然わしゃわしゃ、と髪を荒っぽくかき回された。
「わ…、何、剣護!?」
「―――――あんまり考え過ぎんなよ。次郎はあれで芯が強い。何たって俺が、この世で一番信頼してる男だからな。…多少の問題は、自分で向き合って何とかしてみせるさ」
「……うん」
髪の毛を押さえながら真白は、安心させるように笑いかける剣護の顔を見た。
緩む気持ちに、自分が思い詰めていたと知らされる。
(…剣護はいつも、こうだなあ)
頼もしい長兄。優しい次兄。そしてまだ幼い末弟。彼らの為なら、理屈抜きにどんなことでも頑張れると真白は思う。
(それに、今はもうそれだけじゃない。大事な人が、たくさん増えた。多分これからも―――――――)
電車が停車し、乗って来た中年のサラリーマンが向かいの席に座った。
顔はずっと俯きがちで表情も見えないが、どことなく陰気な印象を受ける。
ガタンガタン、と電車が揺れる。
一瞬、目に見える光景が暗転したような間があった。
(――――――あれ?)
気付けば、電車に座るのは真白とそのサラリーマンだけだった。
いつの間にか剣護も荒太も姿を消し、他の乗客の姿も見当たらない。
(え、どうして)
慌てて周囲を見回す。
ガタンガタン、と電車が揺れる。
「………久しいな……」
向かいに座る、男が言った。
低く、湿り気を帯びたような声だった。
(え――――――?)
「久しいな、小野若雪」
そう言って顔を上げた男の左顔面は、焼け爛れたあとの、ケロイド状になっている。
真白の喉まで、悲鳴が出かかった。
クッと男が笑う。
「醜いか?これは、お主の兄が所業よ。かくも非情なるは、前生における血筋ゆえか?」
ここに至り、真白もようやく悟った。
この場は、通常の空間ではない。何らかの手段で、剣護や荒太と切り離されたのだ。
雪華を呼ばなくては、と思う。
「――――――あなた、誰」
「つれないな、小野若雪。前生で私から全てを奪ったお主が、涼しい顔で私の素性を問うとは!私は片時も忘れなんだと言うのに――――――。その、善良ぶった、白い顔。私の足の腱を切り、御師としての回国を不可能にした、忌まわしき白い手!!」
唾を飛ばし、激した様子で男は言い募る。
そこまで聞けば、もう男の正体は明らかだった。
くらり、と目眩がする。
「…あなた…山田、正邦………?」
(血の匂いがする―――――違う、あれは過去だ。もう遠い、過去の話。過去の傷)
しかし今、現に目の前にいる存在は。
ビジネス・スーツの男は、歪んだ笑みを片頬に浮かべた。
――――――忘れてしまいたい過去の具現者。
悪夢のような再会だった。
ガタンガタン、と電車が揺れる。