再会 三 後半部
不法侵入は良くない、というお話。
夕刻になると、荒太が見知らぬ男子中学生を連れて、風見鶏の館にやって来た。
これまでの経緯は、剣護から既にメールで知らされている。
荒太が二階の、怜が寝ている部屋に入り、まず最初に目にしたのは、近くにある丸椅子にも座らず、直にペタリと床に座り、ベッドの端に腕を置いて怜を見守る真白の姿だった。
(―――――――江藤の奴、呑気に寝とるし。しかも、真白さんを枕元にはべらして)
怜が非常に危険な怪我を負った、という事実を束の間忘れ、なんやこいつずるい、と思ってしまう。
こっちは怜を探して、彼のアパート近辺を夜中に捜索したり、血溜まりを消すべく人手を呼んだりして、ろくに寝てもいないというのに。一徹、二徹してもそう響かない頑丈な身体とは言え、決して消耗していない訳ではないのだ。
「理性を保てよ、荒太」
後ろからついて来た剣護が釘を刺さなければ、嫉妬丸出しの言葉を真白にぶつけていたかもしれなかった。
そんな醜態を彼女に晒す訳にはいかない。
「荒太君…」
そう言って、振り向いた真白が微かな笑みを見せた。
その笑みで、荒太の強張った感情がやや緩んだ。
「ありがとう。昨日の夜、次郎兄の為に、色々頑張ってくれたんでしょう?剣護に聞いたよ」
感謝の念が滲み出るような、柔らかい声だった。荒太は、その声と言葉で、だいぶ報われた気がした。
「―――――ああ、大したことやないよ。…江藤、無事で良かったな」
口ではそう言いつつ、怜の姿が消えた時はそれなりに心配もした荒太だったが、むしろ今は首を絞めてやりたい気分だ、と頭の中で考えていた。
「うん」
コクン、と真白は童女のように頷いた。
(……くそ。ええな、江藤は。心配してもらえて。無事を、こない喜んでもらえて)
果たして自分が怪我や病気をした時も、同様にしてくれるだろうか、などと不謹慎な考えが頭に浮かぶ。
「若雪、じゃなかった、真白様―――――!!昨夜は僕も頑張ったんですよ、褒めてくださいーっ!」
そう言って、真白に抱きつこうとしたのは、陶聖学園中等部の制服を着た男子だった。
剣護たちに比べると体格もまだまだ華奢で、目はぱっちりとして可愛い。
「こら待て、ガキ」
彼が真白に飛びかかる前に、その首根っこを剣護が掴んだ。「うぎゃっ」と、猫が尻尾を踏まれた時のような声が上がる。
「…おい、荒太。何だ、この図々しくて騒々しい小僧は?」
「どうもすんません。こいつは嵐下七忍の一人で、今生では来栖遥って名乗ってます。前生では――――」
「―――――凛?」
真白が呟いた。
「あなた、もしかして、凛?よく、嵐どのにうるさいって言われて、拳骨を貰ってた……」
凛は嵐下七忍でも最年少だった。忍びの中においてもひどく身軽で、小刀の扱いに長け、無邪気で明るい少年―――――――。多少、賑やか過ぎる嫌いがあったが。
再び遥のテンションが上がった。ぱっちりした目は若干、涙目になっている。
「うわーん、真白様、判ってくれたあ―――――!!思い出され方がいまいちだけど――…!そうです、僕、凛です!」
言いながら再び真白に抱きつこうとするのを、今度は荒太の手が遥の頭をガッと掴んで止めた。
遥の両手が空しく宙を掻く。
「お前な、大概にせえよ」
「だって荒太様ってば、いきなり夜に連絡してきたと思ったら、血溜まりを消せとか無茶振りするし――――僕、まだ中学生なんですよお?」
「お前、そないな小細工は平気でしてのけるやろが。真白さんの前やからいうて猫を被るな」
「猫被りは荒太様の専売特許ですよーだ」
「……血溜まり?」
その言葉に、真白が過敏に反応した。
眉間に皺を寄せている。
遥の頭を、荒太の拳骨が襲う。
「いったあ~~~~!」
あ、この光景、デジャヴだ、と思いながら、聞き逃せない言葉を真白は追及した。
「荒太君、血溜まりって…」
荒太が苦りきった顔で答える。
「………江藤の出血のあとや。でももう、心配無いんやろ?過ぎたことや」
真白が剣護の顔を見た。ほぼ同時に剣護が顔を他所に向ける。
「黙っていたな」と言わんばかりの真白の視線を、剣護は極力避けた。
一つ溜め息を落とし、真白は眠る怜の顔をちらりと見る。
ともかくこの騒がしさでは、彼を起こしてしまいかねない。
「―――――あの、ごめんなさい。とりあえず、皆、部屋から出て。あまり騒ぐと、次郎兄が起きちゃうかもしれないから」
「――――――」
荒太はその言葉に複雑そうな表情を見せたが、黙って従った。
部屋が再び怜と真白の二人になったところで、怜の目がパチリと開いた。
「あ……、ごめん、次郎兄。起こしちゃった?」
「いや……専らうるさかったのは、成瀬の連れて来た中学生だけだったから。真白が謝ることじゃない。やたらテンションの高い奴だったな。――――真白、今日、ずっとここにいるつもり?」
「うん。おばあちゃんたちに言い訳が通る時間まで。本当は、ここに泊まりたいくらいなんだけど」
今の真白には、傷を負った怜しか見えていない。一心に見つめてくる瞳は、怜を失いかけた不安を、まだ引き摺ってのことだ。
怜はそんな真白を見て、それから天井を見た。
(………そんなにしがみつくなよ、真白)
荒太に向けて、手放しにくくなる。
「…真白、成瀬にはあとでもう少しフォローしといてあげなよ。あいつは多分、昨夜長い間、俺の為というより、真白の為に動いてたんだ。魍魎とも、戦ったあとだろう。体力馬鹿な奴でも、身体的に結構きつかったと思うよ。そうまでしたのは、俺と同じように、成瀬も真白の泣き顔を見るのが嫌だったからだよ――――――。だからもう少し、労わってやったほうが良い」
「――――――私の言い方、きつかった?」
心配そうに真白が尋ねた。
怜が優しく目を細める。
「そうじゃないよ。ただね、あいつは真白の言葉一つに、莫迦みたいに一喜一憂するところがあるから」
「……そんなこと、ないと思うけど」
怜が微笑む。
「あるんだよ」
一階のキッチンに置かれた椅子に座る荒太は、ひどく不機嫌だった。彼を取り巻く空気全体が、「面白くない」と強く叫んでいる。
ちなみに荒太の顔を初めて見た舞香は「惜しいっ。ちょっと甘過ぎる!」と唸り、遥に対しては一瞥をくれただけで「育ちが足りない…。評価基準を満たしてないわ」と呟いていた。
剣護は向かいの椅子に座り、そんな荒太を困ったもののように眺めた。
「おい、荒太。機嫌直せよ。――――今の真白は、しょうがないよ。……あいつは前生でのトラウマで、身内を亡くすってことにえらく敏感なんだ。今朝もひどい取り乱しようだった。だから、次郎が生きてるって解って、今はその事実で頭が一杯なんだよ。他に対応する余裕が無い。お前と次郎のどっちが大事とかいう話じゃなくてな」
「…………」
頬杖をつき、剣護の取り成しにも何も答えない荒太に、舞香が唐突に話しかけた。
「ねえ?あなたの誕生日って、もしかして九月?」
「―――――?はあ。そうですけど」
無愛想に答える。
「ははあん?」
「何ですか」
訝しむ表情の荒太に対して、舞香がにやにやして腕を組む。
「真白にね、ステンドグラスの作り方、教えてあげるって言ったの。絵のモデルになってもらう代わりにね。そしたらあの子、九月までに作れるものってあるだろうか、って私に訊いたのよ。さて、これってどういうことかしら?」
「――――――……」
それを聞いた荒太の顔から、明らかに険が取れた。釣り上がっていた眉が下がる。
〝た、宝物だから〟
荒太から貰ったブレスレットを指し、そう言った真っ赤な顔の真白が蘇る。
(冠婚葬祭…)
ついでにその四文字熟語も思い出し、荒太はうっかり笑いそうになった。
剣護たちが自分の様子を窺っている気配を感じたので、表情が緩まないように努める。
そして首を巡らせ、静かに立っている要を見て、声をかけた。
「……久しぶりやな」
「―――ああ―――――――」
言葉だけ見れば実に素っ気無い。
要は、荒太が家に入って来た時から話しかける機会を窺っていたのだが、荒太はそれどころではない様子で、素知らぬ顔をしていた。荒太は剣護から、彼が智真であるということを予め聞いていた。
――――――――聞いていたからこそ、安心してぞんざいな態度が取れたのだ。
智真は嵐にとって、気の置けない唯一の友人だった。
「なんで元僧侶が、ミッション系の大学院生になってんねや。生まれ変わったら宗旨替えか?」
荒太の突っ込みに、要が苦笑じみたものを見せた。
「ハーフに生まれついて、イギリスで子供時代を過ごしたんや。しゃあないわ」
「お前、応用が利き過ぎやろ」
「まあな」
そこまで言葉を交わすと、立ち上がって拳で軽く要の胸元を突き、荒太はにやりと笑った。要も、荒太に対しては悪戯めいた笑いを見せた。
要の姉である舞香は、この会話が理解出来ていない。そもそも関西で暮らしたことのない弟が、なぜ関西弁を喋るのか、という疑問は昔からあった。弟のこんな表情は初めて見た、とも思う。
その時、真白が二階から遠慮がちな足取りで降りて来た。
荒太と目が合うと、少し気まずそうな顔をする。
「…あの、荒太君…、ごめんね」
「何が?」
「……次郎兄の為に頑張ってくれたのに、部屋から追い出しちゃって。…感じ悪かったよね」
荒太が笑顔を向ける。
「そないなこと、ええよ、別に。全然気にしてへんし」
荒太の鷹揚な言葉に、剣護が呆れた表情をした。
(嘘つけこいつ。―――――案外、現金な奴だな)
「でもさ、真白さん、大丈夫?」
「何が?」
「いや、最近色々あったし、五行歌、あんまり詠めてないんやない?」
五行歌を嗜む真白は、新聞の投稿欄の常連であり、学校でも「女流歌人」のあだ名で通っている。確かに最近、他に気を揉むことが多く、新聞への五行歌の投稿も止まっていた。
若雪は、和歌も連歌も今様も、教養として身に付けていた。
真白が「女流歌人」と呼ばれることは、荒太にとっても心楽しいことだったのだ。
「あ―――――…うん。でも、今日、舞香さんの作品とか見せてもらって刺激を受けたから、良い歌が作れそうな気がする」
そう言って真白が無邪気に笑う。
その笑顔は、怜が無事であった為に生まれた笑顔だ。それでもまだ、ちらりと真白の面をかすめる憂いを、荒太は見逃さない。万が一、怜が命を落とすようなことにでもなっていれば、彼女の笑顔はきっと永遠に失われていただろう。
(そんで、見てるほうがしんどうなるくらい、泣くんや。ずっと、ずっと)
――――――――それは嫌だ。
怜のことは正直、虫が好かない奴だと思っている。
そこは多分お互い様だろう。
だが、泣き続ける真白など見たくない。
真白が、剣護や怜に向ける親愛の情の深さを思い、荒太は微妙な気分だった。
(男として負けてるとは思うてないけど)
真白と、その兄たちとの絆の強さには、時々入り込めないものを感じてしまうのは事実だった。前生で突然に引き裂かれたからこそ、今生で強まる連帯感もあるのだろうが。
(俺がしがみつくとこて言うたら、前生で若雪どのの亭主やったことと、娘がいたこと、くらいやもんな。―――――――いや)
若雪は、嵐と出会い続ける為に、神として在る道を捨て、苦悩を抱きながらも人として転生し続ける道を選んだではないか。これ程確かな、愛情の証は無い。
〝また逢えて、嬉しい〟
今生において、初めて真白にそう言われた時の喜びは、今も胸にある。
また逢えて嬉しい――――――。
それは、荒太自身にも当てはまる言葉だった。
この先何度でも、生まれ変わるたびに、逢えた喜びは互いの心にきっと刻まれてゆく。
(俺にとっての一番は真白さんで…真白さんにとっての一番は俺や。自信、持て――――――)
「そういや荒太、お前、結局昨日はどこで寝たんだ?」
「江藤のアパートですよ。にこにこコーポ。ついでにあいつの服も借りました。あとシャワーも。…ああ、あいつ、もうちょっと冷蔵庫に食い物入れとくべきですわ」
剣護の疑問に、荒太があっさり答える。最後の言葉に、剣護は不穏なものを感じた。
そして根本的な疑問が浮かぶ。
「……鍵はかかってなかったのか?」
「まさか。かかってましたよ」
剣護がますます怪訝そうな顔になる。
「…お前、あいつの部屋の合鍵でも持ってんのか?」
荒太が顔を顰め、目の前で手を振る。
「やめてくださいよ、気持ち悪い。鍵がかかってたから、開けて入っただけですよ」
「いやいや待て待て、どうやって開けたんだよ、鍵!」
「―――――剣護先輩、俺、これでも忍びやったんですよ?」
「だから?」
胡散臭いものを見る目で、剣護が訊く。
「そんなん企業秘密に決まってるやないですか」
「荒太様、ピッキング得意ですもんねームガッ」
「…お前、そこまで口が軽いて、忍びとしてどうなんや」
身も蓋もないことを言った遥の口を、乱暴に塞いだ荒太が睨め付ける。
真白が、目を丸くしている。
「うわー。こえー。お前、一歩間違えば犯罪だからな、それ。俺はコソ泥に妹を任せたりはしないからな」
こっち来なさい真白、と彼女の両肩に手を置き、剣護が一歩、二歩と荒太から遠のいた。
「今回みたいな非常事態やないとやりませんよ」
しれっとした顔で荒太が言う。
「どうだかなー」
そう言って剣護が荒太を見る目は、疑惑の眼差しだった。