再会 三 前半部
梨さん。
三人が打ち解けた雰囲気の中で紅茶を飲んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。要、あの子の様子はどう?トマトホール缶が安くなってたから、買って来たわよ。ついでにスポーツドリンクとか、梨なんかも買ってみたわ」
元気な声で喋りながら、リビングにドカドカと豪快な足取りで入ってきたのは、大きくあちこちにカールした長い金髪に、豊満な胸、そばかすの散った色白の顔の女性だった。Tシャツにジーンズというシンプルな格好だが、白いシャツには所々、絵の具で出来たような染みがついている。
何気ない顔で彼女が、真白たちのほうに目を遣った。
「あ、しもた」と、要が小さく呟く。
次の瞬間。
「きゃあああああああ」
女性が叫んだ。
何事、と思った剣護が、椅子から立ち、身構える。
そんな彼には脇目もくれず、彼女は一直線に真白の目の前に迫った。
「かっわいいいいいいい!!何、この子。誰、この子!?肌、すべすべ、髪、サラサラ。やだ、睫長いわ!要、あんた、中々彼女を作らないと思ったら、こういうのが好みだったのね、このロリコン!でも、趣味は悪くないわよ!!むしろ、良いっ!ねえ、あなた、私の絵のモデルになってくれない!?」
「姉さん、ひとまず落ち着いて……」
息継ぎせず言い切った女性を前に、目が点になっていた真白は、その言葉で我に返った。
「…お姉さん?」
要が、やれやれ、という顔で紹介する。
「彼女は僕の姉で、柏木・クラーク・舞香。聖ヨハネ大学院でステンドグラスと油絵を勉強してます。二人でルームシェアして暮らしてるんです。姉さん、彼女は門倉真白さん。こちらがその従兄弟の門倉剣護君。上で寝てる彼、江藤怜君て言うそうやねんけど、彼の、友人やそうや」
スーパーの袋を置いた舞香は弟の説明に、初めて剣護を見た。
おや、他にもいたの?、という顔をした彼女は、剣護を吟味するような目でジロジロと眺めた。そうして悲しげな顔をして、おもむろにふう、と息を吐く。
「…残念。ちょっと好みと違うわ。ハンサムだってことは認めるけど。ごめんなさいね。私は、上で寝てる…怜?や、この子…真白、みたいな、ジャパーンって感じの、繊細なタイプの美形が好きなのよ」
「いえ、どういたしまして」
剣護が変な受け答えをする。
(―――――テンションの高いお姉様だな)
〝ジャパーンって感じ〟とは何ぞや、とも思う。
「ステンドグラス…。じゃあ、あの立てかけてある作品なんかも、舞香さんが作られたんですか?」
真白が、リビングの窓辺に置かれたステンドグラスを指差した。
舞香がに、と笑う。見ていて気持ちの良くなるような笑みだった。
「ええ、そうよ。興味ある?ちょっと来てごらんなさいな」
舞香の手招きに、真白が立ち上がる。
男性二人は、キッチンにポツンと置き去りにされた。
およそ一メートル程の高さの、長方形をしたそのステンドグラスは、光を受けてきらきらと輝いていた。
竹林の黄緑と若緑に、桜のピンクと白、ごく薄い紫。青く透き通った空を背景に、白い蝶が舞っている。
色彩の妙に、真白は魅了された。初めて市枝の家を訪れた際、玄関扉に嵌め込まれたステンドグラスの鮮やかな色使いに、見入ってしまった時のことを思い出す。
「これは、私が大学の卒業制作で作ったものよ。ステンドグラスなんだけど、全体に和を題材として取り入れてるわ。我ながら気に入ってるの」
「はい、とても綺麗……」
真白の素直な賛美に、舞香は嬉しそうな顔をした。
「こんなのもあるわよ。取り寄せたガラスの、サンプルなんだけど」
そう言って舞香が近くの棚から、四角い小振りな段ボール箱を、重そうな手つきで取り出した。その箱を受け取った真白の細い腕に、思いの外ズシリとした重みが加わる。
ナンバー1、と記載されたシールが貼ってあるその箱の中には、小さな正方形のガラス板がぎっしり詰まっていた。
「どうぞ、手に取って見て良いわよ。あ、でも、ちゃんと元の場所に戻してね。一応、並べる順番があるから」
真白は、中の一枚を手に取った。
その一枚は濃いミントグリーンで、表面が微かに波打っている。
もう一枚、と手に取る。
次の一枚は蜂蜜のような琥珀色で、表面はミントグリーンの一枚とは比較にならない程デコボコしている。
次の一枚、更にその次の一枚、と真白は取り出しては眺め、ガラスの多様な美しさに見惚れていた。
舞香はそんな真白を見て微笑みながら、口を開いた。
「――――私はウィリアム・モリスに傾倒していてね。知ってるかしら?アーツ・アンド・クラフツ運動」
「ええと、確かイギリスで起こった、美術工芸運動…」
イギリスで勤務する両親から、その名称は聞いたことがあった。
「そうそう、十九世紀にね。ウィリアム・モリスは、その中心にいた人。思想家であり、政治活動家であり、詩人であり、デザイナーであり…、とにかく多方面で活躍した人なんだけど、私が最も注目するのは、やっぱり芸術家としての彼だわ。特に彼の、モリス商会の仕事として、イギリスの各地に残っているステンドグラスの数々は、素晴らしい!私と要の母はイギリス人で、私たちも子供時代を向こうで過ごしたの。ウィリアム・モリス・ギャラリーや、美術館が所蔵する作品はもちろん、オール・セインツ教会の窓ガラスの作品なんかが、とりわけ私は好きだわ。彼の作品に感銘を受けて、今の学科を選んだと言っても過言ではないわね」
長々と語る舞香自身の目も、まるで子供のように輝いていて、真白は圧倒された。
肺活量もさることながら、何ともエネルギッシュな女性である。
(何と言うか――――すごく、情熱的。好きなんだなあ、本当に……。木臣と気が合いそう)
見ていて眩しいくらいのひたむきさだ。
舞香が視線を真白に戻した。
「良ければ今度、何か作ってみる?私で良いなら、時間のある時に教えるわよ」
「え…、私でも作れるんですか?」
「作れる、作れる。但し、私の絵のモデルになることが条件」
舞香がにかっと笑って言った。
「……ええと、はい。私でよろしければ。放課後や、休日なら。良いかな、剣護?」
そう言って、完璧に置き去りにされていた従兄弟を振り向いた。
要は、大体この展開を予想していた顔だった。
「それは、真白の自由だ。…まあ必然的に、俺も付き添うことになる訳だけど」
剣護の言葉に、舞香が首を傾げる。
「何、あなた、真白の恋人?」
「いえ」
「じゃあ、あの怜って子が真白の恋人?」
「いや、それも違います」
ふうん?と舞香が、不思議そうな顔になった。
「すごく仲良さそうなのに」
「ああー、それはですね、家族みたいなもんです」
面倒になった剣護がいい加減に答える。
「真白。放課後、市枝ちゃんを送ったあとで、荒太もこっちに来るって言ってる。良いか?」
荒太、と聞いて、真白がほんの少し頬を染めて頷いたのを見て、舞香が納得する。
「成る程。その子が真白の恋人か。やれやれ、今日は千客万来ね」
子供時代をイギリスで過ごしたと言う割には、舞香は日本語の語彙が豊富だ。
「いえ、恋人という訳では……」
「ありていに言えば元旦那です」
剣護が、場を著しく混乱させる爆弾を落とす。
「荒太」が、嵐の現在の名前と知らされている要は、紅茶を噴き出しそうになるのを堪えた。
(間違うてへんけど―――――――)
「剣護おっ!!」
真っ赤な顔をした真白が、声を荒げた。
「あら、そうなの?」
「違います、違います!剣護は若い身空で、最近ぼけてきてるんですっ!不憫な人なんですっ!!」
前生までカウントに入れれば、出産経験までありということになってしまう。
真白に殴られた頭をさすりながら、剣護が付け加えた。
「市枝ちゃんも来たがってたらしいんだが、期末試験まで門限が早めに設定されちゃって、来ることが出来ないって嘆いてたとさ」
「ああ………」
中間試験の結果が悲惨なものだった市枝は、両親に相当絞られたとこぼしていた。
真白はそのあとも二階に上がり、眠る怜の傍を離れようとはしなかった。
剣護が様子を見に行った時には、真白は丸椅子にも座らず、直接床に座り込み、怜の眠るベッドの端に顔を埋めて寝ていた。すうすうと、安らかな寝息が聴こえる。緊張の糸が切れたのだろう。目元は泣いたあとで腫れている。
「……………」
それを見た剣護は、要に頼んでタオルケットをもう一枚借り、妹の肩にかけてやった。
昼食はトマトとウィンナー、ローズマリーを使ったパスタだった。
舞香がパスタを茹で始めるころを見計らって、剣護は真白を起こしに行った。
二階の部屋のドアを軽くノックして開けると、真白はまだ眠り込んでいたが、怜の目は覚めていた。身体をベッドの上方にずらし、枕の上に頭を起こした状態で、優しい手つきで眠る真白の髪を撫でている。
「―――――太郎兄、目が怖いんだけど」
「うるせー、黙れ。真白、お前にずっとべったりじゃねーか。独占しやがって…。この、怪我の功名野郎め」
「男の嫉妬かあ……」
そう言う怜は、楽しそうだった。
それから剣護は、要との話の内容を手短かにまとめて伝えると、昼食をとらせるべく、真白を起こして一階に降りて行った。
舞香の作ったパスタは美味だった。
(美味しい…。これなら、次郎兄も食欲出るかも)
「舞香さん、このパスタ、とっても美味しいです。じろ…、江藤君にも食べてもらって良いですか?」
「ふふ、ありがと。たくさん作ったから、良いわよう。梨と一緒に、持って行ってあげると良いわ。それにしても甲斐甲斐しいわねえ、真白。本当に恋人同士みたい」
「はははは。舞香さん、そういう事実は一切ありませんから。ええ、もう、欠片も」
乾いた声で笑う剣護を横目で見遣り、舞香は微妙な顔をした。
「…良く解らないわ、あなたたちって」
昼食後は、梨を剣護と真白のどちらが剝くかで揉めた。
「私が剝くから剣護は黙って見てて!」
キリリとした表情も勇ましく言う真白に対して、剣護の声はどこか悲鳴じみていた。
「無理だって!お前に任せたら、もれなく喰える実の部分が半減するっつー、不思議現象が起きるだろうが。梨さんが可哀そう!これが黙って見てられるかっ」
真白が皮を剝こうと試みた果実が、皮ばかりか実の部分まで、ごっそり削り取られた悲惨な有り様になるまでの過程を、剣護はこれまでに何度も目撃してきた。ここは兄としての踏ん張りどころと譲らず、真白の手から梨をもぎ取る。
真白は拗ねた。椅子の背もたれにしがみついて、私だってやれば出来るのに…、とぶつぶつ言いながら、剣護が手際良く梨を剝いて、六等分に切るのを横目で見ていた。
「拗ねた真白もかわいいいいっ」と叫ぶ舞香に、要はただ沈黙を守る。
「こら、真白、待て。一人でさっさと行くな。俺も行く」
六切れに切った梨と、パスタを盛った皿をトレイに載せ、真白はまだ少しふくれた顔で二階までの階段を上がり、剣護もそれに続いた。
梨のほうは横になったまま、六切れ全て軽く平らげた怜だったが、パスタの皿を前にしては、戸惑う表情を見せた。
「…気持ちは嬉しいけど、ちょっとまだ起き上がれないから、これを食べるのは無理だよ」
頭を起こすのがせいぜいである。
(それに、オリーブ油の匂いが、今はきつい――――――)
まだ熱がある怜がそう思っていた時、真白が決然と言った。
「じゃあ、私が次郎兄の口元まで、パスタを運ぶよ」
梨で活躍し損ねたぶんを、名誉挽回するのだという並々ならぬ思いが、そこにはあった。
真白の発言後、部屋がしん、と静まり返った。
静かになった室内に、蝉の鳴く声がやたら大きく響く。
何も言わない怜の顔が、少し赤くなっている。
「―――――いや…いや待て、早まるな、真白。それは俺がやる」
狼狽えた様子の剣護が早口で言う。
「え、どうして?……早まるな、ってどういうこと」
今度は怜の表情に、「男に食べさせてもらうなんて」という苦情がありありと浮かんだ。
「良いよ、私がやる。剣護は、下に戻ってて。次郎兄、食べられるだけで良いからね。無理はしないで。―――――はい」
そう言って差し出された、パスタのからまったフォークを、怜はパクリと口に入れた。
「………」
モグモグと口を動かし、嚥下するとしばし沈黙する。
「どうしたの、次郎兄。…きつい?」
「ううん。今、生きてることの幸せを噛み締めてる。…俺、可愛い妹がいて良かった」
微かに赤い顔で、怜が言った。
(成瀬が見たら憤死するかもな)
「――――次郎。お前、絶対今度、荒太と一緒にイジワルしてやるからな。覚えてろよ」
剣護の大人気ない宣言に、怜が呆れた目を向ける。
実際に、そういう構図が容易に思い浮かんでしまうところが、何とも言えない。
「……その組み合わせは面倒臭くて嫌だな」
「うるさい、ばーか。このばーか」
「剣護、もう。子供じゃないんだから。次郎兄を苛めちゃ駄目だよ。はい、次郎兄、もう一口」
パスタを怜の口に運ぶ真白は、至って真剣な顔だ。その目に、不意にじわっと滲むものを見て、怜も剣護も驚いた。
「…真白」
真白も、すぐに気付いて自分の目元を押さえる。
「あ…、何か、ホッとしちゃって。次郎兄、無事で本当に良かったなーって。今更、こんな…ごめん、ごめん」
そう言って笑いながら目尻を拭うと、またフォークにパスタをからめた。
剣護は、それ以上はもう何も言わずに、階下に降りて行った。