目覚め 二 前半部
二
陶聖学園は名門兼進学校として名の知られた高校だが、どんな学校にもはみ出し者というものは存在する。
例えば、今廊下を歩いている新庄竜軌などがその典型だ。
既に二回の留年を経験している担任泣かせの彼は、特に何をする訳でもないのだが、ただそこにいるだけで独特の威圧感があった。また試験に臨む姿勢もまるで出鱈目で、前期試験や実力試験をすっぽかしたかと思うと、後期試験で学年一位の成績を叩き出したりした。秀才が居並ぶ同級生たちの頭を押さえ、常に成績のトップを走る門倉剣護が、模試の成績において負けたことのある唯一の人物でもあった。
やる気さえ出してくれれば、と言うのが、竜軌を評する時に決まって教師の口をついて出る言葉だった。
偶然、市枝は廊下で彼とすれ違った。
互いの視線が合う。瞬間、竜軌が唇の片端を軽く吊り上げる。
昼休み、市枝は珍しく真白のクラスに顔を出さなかった。
「――――それで、何の御用ですか、兄上?」
屋上に吹く風に長い髪を靡かせながら、腕組みした市枝が竜軌に尋ねた。
竜軌はにやにやしてそんな市枝を眺めていた。
「前も悪くなかったが、成る程そなたには金がよう似合うな、市」
市枝が溜め息を吐く。
「そのようなことを申される為に、妾を呼び出された訳ではありますまい。…昼休みは真白と存分にお喋りをするのが妾の楽しみの一つでございますのに」
「そうむくれるな。壁の崩壊にまつわる忠告ぞ」
市枝の顔つきが改まった。
「――――忠告とは」
竜軌が、剣呑な雰囲気のある笑みを浮かべた。
「近く、この国を魑魅魍魎共が跋扈する。これまでの比ではない数、力をもって。摂理の壁の崩壊による、悪しき副産物よ。理の姫と花守だけでは防ぎきれまい。――――――何が言いたいか解るか?」
市枝の顔色が変わる。
「真白はもう戦う為の人生は送りませぬ。若雪であった時、既に十分兄上に尽くした筈!」
市枝の叫びに、竜軌は目を細くして答えた。低い声音だった。
「勘違い致すな、市。これは儂の存念ではない。天の配剤だ。真白は人にありて人にあらず。人ならざる妖には人ならざる神つ力を持つ者で抗する他あるまい。力の相殺よ。真白の兄たちも、成瀬荒太も、そして市、そなたも同様に前生での縁と宿命ゆえ、真白と同じく妖に抗する力を持つ。であれば、戦線に立たぬ者は怯懦の誹りを受けようと詮無いことよな?」
黙ってそれを聞いていた市が、一言評した。
「―――――卑怯でございますな、兄上」
相手が信長であろうが、何ら怯むところが無い。
「何?」
「巫の力をお持ちの兄上が、我ら同様に力をお持ちでない筈がありませぬ。なにゆえ御自身のことは除いて話されます?」
竜軌が愉快そうに笑った。
「生まれ変わっても変わらぬな。さても得難き女子よ。――――――何も儂がこの戦に加わらぬとは申しておらぬ。ただ、露払いはそなたらの役目だ。儂は今しばらくは一切の手出しを控える」
「……日和見を決め込まれますか」
「―――――は、はははは!!」
竜軌が再び笑った。先程より甲高い笑い声だった。
「―――大将は大将同士、刃を交えるものであろうが。儂は透主以外を相手取る気は無い」
「透主?」
「妖らの親玉。誰にも真の姿を見せぬ。その為についた異名よ」
「………妾には、真白たちや兄上の力を測ることが出来ませぬ。されど一つ、申し上げておきまする、兄上」
「聴こう」
竜軌が顎をしゃくる。
「曲がりなりにも神の眷属である真白が、その透主とやらに敵わぬのだと致しますれば、巫とは言え兄上に、討ち果たせるものとは思えませぬ。兄上。……前生でもあなたはそうでございました。なぜ、そう生き急がれます。なぜ、己より大きなものしか見ようとなさいませぬ。……己の命を軽んじられるような兄上が、市は悲しゅうてなりませぬ」
いつも勝ち気な市枝の顔が、今は翳りを帯びていた。
竜軌は虚を突かれたように目を見張り、やがて呟くように言った。
「…――――――己より卑小なるものに目を向けて何の人生ぞ、つまらぬ」
緑深い季節の風が、屋上にも爽やかに吹き過ぎる午後のことだった。
「―――――市枝、聴いてる?」
真白の問いかけに市枝はハッとした。
放課後の一年A組の教室には、真白と市枝、そして怜の他には数人しか人が残っていなかった。その数人も、そろそろ帰る仕度を始めている。
三人が一年A組で遅れて来る剣護を待ち、それから一緒に帰るというリズムが、彼らの中には出来上がっていた。
「ああ、ごめん。何?」
「だからね、成瀬君が、二週間後には退院するんだって」
「あくまで予定だよ?門倉さん」
怜は身内で話す時以外は、真白のことを名前ではなく、名字で呼ぶよう配慮している。
「二週間?…ってことは、起きてから今までを入れても三週間?早くない?リハビリってそんなもん?」
疑問符を並べ首を傾げた市枝に、怜が答える。
「まあ、元々強靭な身体してた可能性はあるよね。それでも目覚めてからの一週間で相当努力してのことだろう。早く追い付きたかったんだろうな、門倉さんに」
その時、初夏の風がさっと教室内に吹き込んで、三人の髪を揺らした。この時ふと真白に視線を遣った怜は、彼女が、頬を染めて嬉しそうに笑うのを見た。
「ねえ、真白。今日、お宅にお邪魔して良いかな」
尋ねる市枝の表情は、いつもより固い。
「え?うん、良いけど」
市枝は怜にも顔を向けて言った。
「江藤と、剣護先輩も一緒に」
怜は少し考える素振りを見せたが、確固とした意思を宿す市枝の瞳を見て、頷いた。
遅れて来た剣護も市枝の誘いを了承した。
ふんふん、とヘッドホンから聴こえる音楽を口ずさみながら、彼は陶聖学園にほど近い住宅地を歩いていた。このあたりではあまり見かけない黒い学ランに、赤い髪をした彼の姿は犬の散歩中の主婦などにはぎょっとした目で見られたが、本人には一向に構う様子が無かった。
「雪の御方様はお元気かなあ」
赤い前髪の隙間から家並みを眺めのんびりと言って、しかしその後、今回の訪問における自分の役割を思い出し、彼は肩を落とした。はあ、と溜め息を吐く。
「……あんまり怒られないと良いけどなあ…」
真白の部屋は六畳間で、狭くも広くも無かったが、ベッドが置いてあることも手伝い、人が四人入るにはやや手狭だった。特に育ち盛りの男子二人が入ると、窮屈な印象はより強くなった。
真白の部屋で、市枝から一部始終を聴いた三人は沈黙した。学校帰りなので、皆まだ制服姿だ。剣護は勝手知ったる、という様子で早々に制服のネクタイを緩めている。怜は上着は脱いだものの、そこまでだらけはしなかった。
本来であれば広いリビングで話したかったところだが、今日に限り活動的で外出しがちな祖母が二人揃って家にいたので、それは断念した。
市枝の語る言葉に耳を傾ける真白たちは、無自覚だろうがそれぞれが、前生の表情に近いものになっているように市枝には見えた。但し、怜と剣護とは前生において面識が無い為、これはあくまで市枝の印象によるもので確かなこととは言えなかった。
市枝の話を聴き終えた際、怜と剣護はちらりと視線を交わした。
「しっかし、新庄が信長公だったとはねー、超有名人じゃん。俺を模試で抜くだけのことはあるって言うか。俺、あいつの担任に、何とかしてやってくれって、何度泣きつかれたことか」
剣護はまず、至って気楽な感想から入った。相手が先輩だろうと織田信長だろうと、態度が変わらないのが剣護だった。
「そういう問題かな…。私は新庄先輩って、どこか得体が知れないとは思ってたけど」
真白は微かに眉根を寄せて言った。まさか同じ学校に、織田信長が在籍しているとは夢にも思わない。正確にはその生まれ変わりだが。嘗てお市の方だった市枝が言うことでなければ、到底信じられなかったかもしれない。
「―――――今まで口止めされてたから言えなくて。ごめんね」
市枝は少し後ろめたそうにしている。
「ううん。相手が織田様じゃ、仕方無いよ。いくら市枝でも。…お兄さん、だものね」
〝織田様〟か――――――――。
市枝は胸中で繰り返した。それは、若雪が信長を呼ぶ呼び方だった。
グレーのクッションを抱き締めて座っていた真白が、恐る恐る言った。
「…そう言う妖怪?みたいなのが、これからどんどん出て来るってこと?」
真白を不安がらせるのは市枝の本意では無かったが、重い口を開いて答える。
「―――――まあ、兄上の話が確かならね」
そうして、実際確かな話なのだろう、と市枝は思っていた。信長は不要な嘘は吐かない。
逆に必要であればどんな嘘偽りも平然と言ってのけるが、市枝の見る限り、今回はそれには当たらないように思えた。
「透主って奴を倒すのが、一番手っ取り早いみたいだけど、なんせ誰もその正体を知らない訳でしょう。妖の間でさえ伝説化してるくらいらしいし。多分、魑魅魍魎の中でもごく一握りしか知らない、トップシークレットなんじゃないかな」
思案した風の、剣護が言った。
「……真白。お前、事態が収まるまで市枝ちゃんと出雲に行かないか?叔母さんの妹だかが、確かあっちのほうに住んでただろう。この際ダメ元でも、頼んでみてもらえ」
「市枝はともかく、私まで緊急避難しろと言うの?」
反発する声音で問う真白に、真剣な表情で頷く。
「そうだ。言っただろう、今度こそ守る、って。出雲大社周辺は神域だ。魍魎が嫌う場所だろう。あとは俺と次郎と、嵐に任せるんだ」
そこまで言うと、少しだけ考えるような間を置いて続けた。
「…それに、重い腰を上げるのがいつになるかはともかくとして、いざとなれば信長公もいる。そもそも、こちら側の主力は理の姫と花守な訳だからな。新たな壁の創造で、以前より自由に動ける神々がついているというのは、俺たちには心強い話だよ」
「―――まあね。頼られている、って言うのは悪い気はしないものだけどね」
皆の死角を突く部屋の隅から聞こえてきた声に、全員がぎょっとした。
学ランを着た、燃えるように赤い髪の端整な顔立ちの少年が、淡い紫色のクッションの上に座っていた。首にはヘッドホンがかかっている。彼は一同の顔をぐるりと見渡してから、頭を横にカクン、と倒した。
「うーん…。知った顔がいないっていうのは、どうにも勝手が悪いな。荒太はまだ回復してないのか。とりあえず、初めまして、雪の御方様。明臣と申します、以後お見知りおきを」
〝雪の御方様〟
自分をこう呼ぶのは、限られた存在だけだ。
「―――あなた、花守?」
にこっと明臣が笑う。無邪気な笑みだった。
「御名答」