再会 二 前半部
剣護と要が部屋から出て行ったあと、真白は改めて怜の寝顔を見つめた。
「…次郎兄」
呼んでも返答は無い。
彼の額にかかる前髪をそっと横に払い、手を置く。
熱い気がする。傷のせいで、熱が出ているのだろう。
心なし、怜の顔つきが先程までより和らいだようだ。真白の手の感覚が、心地好いのかもしれない。
「次郎兄。私は、人間に近い魍魎に遭って、それでも戦うって決めたの。でもね、戦っていけるって思ったのは、荒太君や市枝や剣護や、…次郎兄がいたからだよ。一人でも誰か欠けたら、私、きっともう無理。その先、戦っていける自信が無い。……駄目だね。こういうところ、私はすごく弱いみたい。………次郎兄は、知らないでしょう。次郎兄が生きてるって、ちゃんとこの目で確かめて、私がどれだけ安心したか。――――――…次郎兄は、知らないでしょう」
言いながら真白の頬を、涙が流れた。
その時、眠る怜の唇が動いた。
「―――――か、ないで」
「!―――――次郎兄!?」
「……泣か…い、で、真し、ろ……か、雪…」
それは怜の譫言だった。
―――――――泣かないで――――――。
ポタポタポタ、と真白の目から涙が加速してこぼれ落ちる。
「じゃあ、起きてよ。次郎兄。次郎兄が起きてくれたら、泣き止むように頑張るから。真白は泣き虫だね、って、前みたいに言ってよ……………」
怜の身体にかけられたタオルケットを握り締め、真白は身を屈めてむせび泣いた。
怜は夢を見ていた。
夢の中で彼はまだ幼く、暗闇の中を、妹の手を引いて歩いていた。
この暗闇に包まれていても怖いと思わないのは、握った妹の小さな手があるからだった。
不安に泣く妹を宥めながら、実際は怜のほうが小さな手の温かさに救われていたのだ。
〝泣かないで、真白――――。もうすぐ、明るいところにきっと出られるから〟
〝次郎兄、次郎兄〟
〝何だい?〟
〝どこにも行かないで。真白を置いて行かないで〟
莫迦だな、と笑う。
〝行かないよ。ずっと傍にいるよ〟
〝本当?〟
〝本当だよ〟
その時、不意に行く手を阻む者がいた。
半透明、清らな気配を持つ、中性的な容貌の―――――妖。
その手に持つ刀が、振り上げられる。
怜は咄嗟に真白の小さな身体を抱え込む。
肩に走る激痛。
〝―――――――…!!〟
〝次郎兄、次郎兄!いやだあっ〟
真白が、火がついたように激しく泣き出す。
――――――泣かないで。
俺は大丈夫だから。泣かないで、真白。
「……………」
瞼を押し開けると、明るい光が目を刺した。
「…………次郎兄?」
目を赤く泣き腫らした真白がいた。
ゆっくりと口を動かす。
「真白―――――、どうして泣いてるの」
「―――――次郎兄が、私を置いて行っちゃうと思ったから………!」
怜がふわりと微笑む。
「何で。行かないよ、どこにも」
怜は、自分が見知らぬ部屋のベッドに寝かされていることに気付いた。額には、濡れたタオルが折り畳んで置いてある。左肩には包帯が巻かれているようだ。
「…ここは………?」
「次郎兄を、助けてくれた人の家だよ」
身体を起こそうとすると、左肩に激痛を感じ、思わず呻いた。
(そうか…命拾いしたか……)
「まだ動いちゃ駄目だよ、次郎兄。喉とか、乾いてない?何か欲しいものある?して欲しいこととか。タオル、邪魔じゃない?熱があるみたいだったから、借りて使わせてもらったんだけど。剣護も一緒に来たんだよ。今、下の階にいるよ」
溢れ出すように、真白が言葉を並べ立てる。
「真白……」
怜は手を伸ばして、妹の頬に触れた。濡れた感触。
(…ああ……、俺が泣かせたのか)
その手に、真白が自らの手を重ね、目を閉じた。眉尻が下がり、顔が歪む。
「次郎兄、どこにも行かないで――――…」
「―――――」
夢の中と同じことを言って、新たな涙を光らせる真白を見ると、胸が痛んだ。
「行かないよ。真白が望む限り、ずっと俺は傍にいる。真白を置いて、どこにも行ったりはしないから。約束する」
「―――――…」
真白は二度、三度と大きく頷いた。
「太郎兄を、呼んで来るね―――――あと、タオル、また濡らして来る」
真白は顔をハンカチで拭うと、怜の額のタオルを手に取って部屋を出て行った。
「何をやってんだ、莫迦」
水の入ったコップを持って部屋にやって来た剣護は、開口一番、怜に向けてそう言った。
入れ違いに、真白は怜の額にタオルを載せると、階下に降りている。
「手厳しいな、太郎兄」
怜が苦笑する。
「そりゃ、手厳しくもなるさ。お前に何かあった、って知った時の真白の取り乱しようは、見られたもんじゃなかったぞ。―――――もう二度と、あいつにあんな思いをさせるな」
自分も心配した、とは言わない。言わなくても怜には通じている。
「…うん……。ごめん」
剣護は少し表情を緩めた。
「…なあ、次郎。今、ここには真白はいないぞ」
怜が顔を向ける。
「お前が今から何を言っても、どんな弱音を吐いても、聞くのは俺だけだ。………だから、何でも言って良いんだぞ。俺はお前の、兄貴なんだから」
「…………」
剣護は真顔だった。
外からは蝉の鳴き声が聴こえて来る。
「……太郎兄」
「おう」
「死ぬかと、思ったよ」
「うん」
「また、―――――十五歳で人生を終えるかと」
「うん」
怖かったよ、と窓の外に視線を遣りながら、怜が小さな声で言った。
「紅茶で良いですか?」
「あ、お構いなく。……あの、もしよろしければ、私が紅茶を淹れましょうか」
穏やかに訊いて来る要に、真白が言った。要は何も気づかない振りをしてくれているが、泣き腫らした目が、少し恥ずかしい。
リビング横にあるキッチンは、美術書や作品群による侵略を免れていた。
要が困ったように笑う。
「お客様を働かせるんはちょっと………」
「いいえ、そんな。柏木さんは、次郎兄…江藤君の恩人だもの。私、料理は出来ませんけど、紅茶やコーヒーを淹れるのは得意なほうなんです」
「お茶もですか?」
「え?あ…、はい。お茶も淹れられます」
思考の読めない瞳で、要が更に問う。
「点てるほうのお茶は?」
茶道のことだ。
「――――――ええ。それも、出来ます」
真白の返答に、なぜか要はふっと笑った。風が優しく吹き過ぎるような微笑だった。
「僕のことは要でええですよ。せやったら、お願いしようかな」
「はい」
(本当に、関西弁だ。剣護と同じ、ハーフかな…。でも、何だろう。この人、どこかで会った気がする………)
だが今生で彼と出会った記憶は無い。
だとすれば――――――――――――――。
水の入った薬缶を火にかける。
真白がティーポットに茶葉を入れるのを、要が立ってじっと見ていた。彼は背が高いので、そうして立っていると、キッチンが狭く感じられる。けれどそこに人を威圧するような空気は欠片も無い。
「――――最近だいぶ、暑うなってきましたね」
「あ、そうですね。もう夏も本番……」
世間話に、真白が応じる。
そこで妙な沈黙が降りた。
「あれは、春でしたね」
「え?」
真白が振り向く。
要の黄緑に光る目は、真っ直ぐに真白を見ていた。
「―――――――桜散る、明慶寺」
ガチャン、と音を立て、真白が、準備しようとしていたティーカップを置いた。
「池に浮かぶ花筏が綺麗やった」
真白は瞠目していた。
若雪が、初めて堺の禅寺・明慶寺を訪れた時。
散り急ぐ桜と、花筏がひどく印象的だった。
それを知る人物は、嵐―――荒太を除けば、あと一人しかいない。
堺で若雪に初めて出来た友人は、要のようにいつも穏やかだった。
花筏の浮かぶ池のほとりで泣いていた若雪に、彼は労わる表情で尋ねたのだ。
〝なんぞ悲しいことでもありましたか〟
「…………智真どの……?」
要が、感慨深い目で答えた。やはり、とその目は言っていた。
「彼が譫言であなたの名を言うてたんで、もしやと思うたんです。お久しぶりです、若雪どの」