再会 一 後半部
電話の相手が告げた住所は、怜のアパートからすぐ近くだった。近所の人間には、「風見鶏の館」と呼ばれているからすぐに判るだろう、とのことだった。
真白と剣護は電車の駅を出ると、メモを片手に「風見鶏の館」を目指した。スマートホンに頼るまでもなく、剣護も真白も方向感覚は良かったので、思ったよりも早く辿り着いた。家を出る時、家人を誤魔化す必要があった為、二人共制服姿に学生鞄を持った出で立ちだ。学校のほうには、怜のことも含めて、数学教諭の山崎が適当に言い繕ってくれることになっている。山崎は生徒会執行部の顧問も務めており、陶聖学園の前期生徒会長だった剣護とは今でも親交がある。
「でも、どうして山崎先生が協力してくれるの?」
「ああまあ、教師と仲良くなっといて、損は無いって話だ」
真白の問いを、剣護は適当にはぐらかした。
二人は学校に行く時と同じ時間に家を出た。本当はすぐにでも相手の家に押しかけたかったのだが、迷惑になるだろう、という配慮が辛うじて彼らに歯止めをかけた。また、家族に怪しまれないようにする必要性もあった。真白も剣護も、普段の登校時と変わらない時刻になるまで、何気ない顔をして、しかし内心はじりじりしながら家で過ごすしかなかったのだ。
「……ホームルーム、終わったな」
腕時計を見て真白が言う。
「気になるか?クラス委員」
真白は固い顔で首を横に振った。
「ううん。今は、こっちが最優先」
「だな」
蝉の声が鳴り響く中、二人は「風見鶏の館」を見上げた。
それは白いペンキが塗られた木造の、臙脂色をした屋根を持つ洋館だった。
急な傾斜の屋根の上に、白い風見鶏がクルクル回っている。
――――――大学院生が一人住まうには、大き過ぎるように思える。
(でも、住所、間違ってねーよな。風見鶏もついてるし)
「風見鶏の館」を、変わったアパート名程度に考えていた剣護は、若干戸惑っていた。
表札に書かれた「柏木」という名字も、電話で聞いた通りだ。
剣護は、メモを見て住所を再確認する。
電話に出た相手の他にも、住人がいるのかもしれない。
「…剣護。この家、呼び鈴とか無いんだけど」
控えめに、真白が言う。
「………あー。これじゃね?」
剣護はそう言って、木製のドアの横上方にぶら下がった、先端にベルが幾つも結ばれているリボンの集合体を指す。リボンの生地はだいぶ傷んでいて、引っ張ることが躊躇われたが、結局、剣護がそれを掴んでかなり勢い良く揺さぶった。
カランカランカラン、と想像していたより大きな音が鳴ったので、思わず二人して後ずさる。
しばらく経って、ドアが開かれた。
「はい、どちら様ですか?」
関西訛りの、響きの柔らかい声だった。
剣護たちを迎えた相手は、穏やかな目で二人を捉えた。
彼の目は、日本人には無い色彩を有していた。
(淡い…黄緑色の…、目…?)
真白は、何となく緑の目をした従兄弟を振り返る。
剣護もまた、出迎えた相手を凝視していた。
彼らの前に立つのは、長身で色白、柔らかそうな栗色の髪に、黄緑色の瞳を持つ青年だった。剣護よりも少し高いように見える背は、180あるかもしれない。
「…………?」
(何だ、この人?)
剣護は、相手の容姿よりも、相手が真白しか見ていないことのほうが気になった。
彼の視線は剣護を素通りし、その後ろに立つ真白だけに注がれている。
「――――――連絡した、門倉剣護ですが。…こっちは、従兄妹の門倉真白です」
そう声をかけると、彼は今気付いたような顔で、剣護に淡い色の目を向けた。
「――――ああ、はい。僕が柏木・クラーク・要です。……大丈夫。無事ですよ、彼は。安心して」
内容もだが、声自体に人を落ち着かせるものがあった。
しかし剣護はまだ気を緩めなかった。
「すぐに、会いたいんですが」
「はい。どうぞ、入って。―――――足元に、気ぃつけてください」
玄関から一歩内側に入った時、真白は妙な匂いがすることに気付いた。
何だろうと思いながらリビングに足を踏み入れると、そこはまるで別世界だった。
リビングのそこかしこにイーゼルが立ち並び、そのどれもにデッサン途中の絵や油絵が置かれている。
石膏像も数体無造作に置かれ、更にはステンドグラスの作品まで窓辺や壁に立てかけるなどして飾られていた。朝の日の光が窓を通してステンドグラスに当たり、無数の鮮やかな色を床にまで映し出している。その様子は、さながら小さな教会のようだ。
油絵を見て、真白は異臭の正体を悟った。
(油絵に使われる、テレビン油やペトロールの匂いだ……)
学校の美術室に入る時も、同じ匂いがする。どこかで嗅いだことがある、と思ったのはそのせいだった。
リビングという建前はあるものの、ソファーやテーブルは美術書や教本で今にも埋もれそうな有り様で、完全にアトリエ化していた。
要が申し訳なさそうに言う。
「スリッパとか無いんで…、靴は脱いで、そのまま上がってもらえますか。…もし、靴下が汚れてしもたらすんません」
「あ…、はい」
真白と同じく、目の前の光景に気を取られていた剣護が応じる。
「彼は二階の部屋のベッドです。どうぞ」
要に先導されて、リビング脇の幅広の階段を昇る。
一歩上がるごとにミシ、という音がして、少なからず真白たちは冷や冷やした。
(抜け落ちたりしねーだろうな)
剣護が危惧するのも、無理は無かった。
どうやらこの家の主は、家の管理というものにあまり関心が無いらしい。
階段を上がってすぐの部屋のドアを青年が指し示す。
「ここです」
そこは、普段は使われていない部屋のようだった。蜘蛛の巣や積もった埃が目に入らないところを見ると、まずまず、掃除はされているのだろう。
その部屋の、向かって右手に置かれたベッドに、怜は横たわっていた。秀麗な顔の目が今は閉じられ、深い眠りに就いているようだ。想像したよりは顔色が良いが、伏せられた長い睫は、ピクリとも動かない。だが、彼の身体にかけられたタオルケットの胸のあたりは、微かに上下している。―――――呼吸をしている。
「――――――」
剣護はそれを確認すると、一気に力が抜けた。
同時に、ドンッと彼の背中から腰にかけて、勢い良くぶつかるものがあった。
「うおっ!?」
前のめりに倒れそうになるのを、何とか踏みとどまる。
見れば真白が、しがみついていた。
「お前ね、猪じゃないんだから…」
「………剣護、…良かった…。次郎兄、生きてた――――……。生きてた………」
「―――――……」
顔も剣護の背中に押し付けているので、真白の表情は解らないが、とにかく安堵していることは見て取れた。
「――――――ああ、良かった」
剣護もそう言って、子供のようにしがみつく真白の頭を、ポンポンと叩いた。
「…あの、私、しばらくこの部屋にいても良いですか…?」
出来れば怜が目覚めるまで、傍についていたかった。
真白の問いに、要は黄緑の目を優しく和ませて答えた。
「ええ、どうぞ。構いませんよ」
それから部屋の隅にあった丸椅子の座面を軽く手で払うと、怜の眠るベッド脇に置いた。
「ありがとうございます」
真白がペコリと頭を下げる。
「いえ。そんなら僕は、剣護君と下におりますんで、何かあったら呼んでください」
剣護と要は、真白を残して部屋を出て、パタンとドアを閉めた。
ストックがあるって素晴らしい…。