再会 一 前半部
第四章 再会
結んで離れ
また結ぶ
からまる糸は
縁の糸
時果てる星の彼方まで
一
真白の家から戻ったのちの十時過ぎ頃、部屋で受験勉強に勤しんでいた剣護は、荒太からの電話を受けた。
「おう、荒太。どうしたよ?今、次郎の家か?」
椅子を斜めに傾け、片手でシャーペンをクルクル回しながら、気軽に応じる。
今晩、荒太が怜の家に泊まることは怜から聞いていた。打ち解け合っているのかどうか、いまいち微妙な二人なので、これを機会にもう少しお互い気を許せるようになれば良い、と剣護は持前の兄気質で考えていた。
しかし通話の相手は、剣護の言葉に沈黙を返した。
嫌な沈黙だ、と剣護は思う。まるで何か異変が起こって、それを言うべきかどうか考えあぐねるような。
『――――ってことは、江藤から何の連絡も入ってないんですね、剣護先輩』
「どういう意味だ?」
自然、低い声音になる。
『俺、今、江藤のアパートの前にいるんですけど。何回チャイムを鳴らしても、あいつ出て来ないんです。外から見たところ、部屋の電気も消えてるし、どこかに出かけてるとも考えられるんですけど―――――スマホにかけても、全然出なくて』
剣護の背筋を、嫌な予感がざわざわと這い登る。
『江藤は、約束をすっぽかして連絡を絶つような奴じゃない。これって、どう考えても変でしょう』
「―――――――それだけじゃないだろ、荒太。他に何があった」
スマートホンの向こうは、再び沈黙した。
『…………落ち着いて聴いてくださいよ、剣護先輩。………あいつのアパートの近くの横道に、血溜まりがありました』
剣護がガタンと椅子から立ち上がる。
「―――――――」
その様子が見えたかのように、間髪入れず荒太が言った。
『まだ、あいつのものだって決まった訳じゃありません。俺、もう少し近くを探してみます』
「待ってろ、荒太。俺もすぐそっちに行く」
『駄目ですよ。ここは俺に、任せてください』
「何でだ。あいつは俺の、弟だぞ」
剣護が声を荒げた。
『…―――落ち着いて――――――。剣護先輩が動けば、真白さんが気付くかもしれません。彼女はこういう時、勘が鋭い。もし今の状況を知れば、過剰に心配するに決まってます』
剣護は返す言葉が無かった。
荒太の言葉は、正しい―――――。
「…荒太。その血溜まり、消すことは出来るか?近所の人間が、不審がらない程度に」
『七忍にやらせてみます』
荒太は瞬時に剣護の言葉の意味を理解したようだった。近所の人間がもし警察に通報でもすれば、事態はややこしくなる―――――――――。もしもその血が怜のものでなければ、そこで何がしか自分たちとは関わりの無い、事件か事故が起こったと考えるのが妥当だ。しかし剣護も荒太も、その血溜まりの血が怜のものであると、半ば確信していた。
とにかく今は、最善の方針を選ぶ必要があった。
「――――もし、明日の朝になっても次郎の行方が知れない時は、俺も動く。お前はとりあえず普通に登校しろ。市枝ちゃんを迎えに行くのも忘れんな。学校には、俺と次郎は風邪で欠席、ということにする。真白には今日、俺も次郎の家に行って、次郎と二人して酔い潰れて二日酔いだって言っておけ。風邪って言うより、あいつにとっちゃ、そのほうがよっぽど信憑性があるだろ。それからお前にはご苦労だが、市枝ちゃんと一緒に、真白の登下校の付き添いもしてやってくれ。―――――――こんな事態だ。慎重にいけよ」
頭の中で即座に組み立てた指示を、剣護が下す。
真白の登下校には剣護が、市枝の登下校には専ら荒太が付き添うことになっていた。
『解りました』
荒太の返答は簡潔だった。
通話を終えた剣護は、深い息を吐いた。
(まさかだろ。次郎―――――)
こんな風に突然、怜を喪って良い訳がない。
スマートホンの画面に、怜のアドレスを出す。
「………………」
反応が返って来ないだろうことを承知で、ダメ元でかけてみるつもりだった。
だが。
『―――――はい』
数回のコール音のあと、落ち着いた、柔らかな男性の声が応じた。
そしていつも通りの朝がきた。
早くから、陽射しが強くなりそうな気配がする日だった。
鳥の囀る声が聴こえ、真白の立つキッチンも、明るい陽の光で満ちている。
真白はその日も早朝には起き出し、制服を着てコーヒーを淹れていた。衣更えが過ぎ、制服の袖も、もう半袖に変わっている。
(夏服になると、ネクタイも鬱陶しくなるな…)
陶聖学園は、男女共にネクタイ着用が制服だ。うちの学校も早くクールビズを取り入れないものだろうか、と真白が考えていた時。
コン、とリビングのドアがノックされた。剣護だ。
もうだいぶ暑くなってきたのに、今日もジョギングして来たんだろうか、と思いながら振り返る。予想に反してそこには、制服姿の剣護が立っていた。
いつもより引き締まった顔つきを見て、ドキリとする。
「――――どうしたの、剣護…。何か、あったの?」
「……次郎が、妖との戦いで、少し怪我をした」
「……ひどいの……っ?」
思わず両腕を掴んで訊いて来た真白に、剣護がやや当惑したような表情を見せた。
「それが…、俺にもまだ良く解らないんだ。あいつのスマホに電話したら、怪我したあいつを保護してくれた人が出た。その人が言うには、とりあえず次郎の命に別状は無いらしい。自分は聖ヨハネ大学院の院生だと言っていた。次郎の容態が気になるようなら、今日家に来ても構わないと言ってくれて。俺は自主休校してその人の家を訪ねるつもりだけど、お前は……」
剣護は荒太が発見した血溜まりのことを、真白には告げなかった。
「――――――真白?」
真白は、何も言わず立っている。
「剣護…」
低い声が、響く。
「まだ何か、隠してるでしょう。…良くないこと」
真実を貫く瞳で、真白が静かに言った。
自分と通じる真白の勘の良さに、剣護は内心舌打ちする。
(…さすがに兄妹か)
「……そうであっても、お前に言うつもりは無いよ」
これでは言ったも同然だ。
自分の馬鹿正直さを、剣護は呪いたくなった。
最後まで言わない内に、真白が床にへたり、と座り込む。
「大丈夫か、しろ」
それを見た剣護が慌てて駆け寄った。
「――――――…」
(怪我。次郎兄が。―――――〝保護〟って言った。つまりは、そういう、状態だったってことだ―――――――。自分では、動くことが出来ない…)
剣護が不用意に使ってしまった言葉に、真白はひどく動揺していた。
―――――若雪には、生涯かけても忘れられなかった記憶がある。
忘れようとしても、忘れようとしても、どうしても忘れ去ることは出来ず、その記憶は時折、押し寄せる波のように彼女を襲った。胸を突く痛みと共に。
「……………」
その、記憶―――――。
血の海と化した小野家の有り様が、今の真白の頭には浮かんでいる。
〝あきまへん、若雪様!ご家族の皆様は、もう……〟
目の焦点は合っていない。
〝ご家族の皆様は、もう……〟
(言わないで)
ドクン、ドクン、ドクンと、自分の胸の鼓動が大きく聴こえる。
その先を、言わないで――――――――――。
(あんな思いは、―――――)
両耳を手で塞ぐ。
けれど、気付けば口が動いていた。
「剣護……、次郎兄、―――――死ぬの…?私、私、また亡くすの?」
血溜まりという言葉を思い出し、剣護は一瞬ヒヤリとする。
命に別状は無いという言葉が、自分以上に、真白の中で確かなものとして響いていない。
信じられていない。
「―――――莫迦。話が飛躍し過ぎだ、そりゃ」
そう言って真白の腕を取り、ソファに座らせた。
その間も真白は、「…堺に……」、「養父上と…、嵐どのが…」と呟いていた。
(フラッシュバックか)
今、真白の頭の中では、前生で、若雪が家族を亡くした前後の記憶が、再現されているのだ。
「おい、しろ」
「…………」
「真白」
「…………」
反応が無い真白に対し、最終手段、とばかりに剣護が横合いから被さるように、真白を抱き締めた。
「きゃあ!?」
我に返った真白は、はずみで剣護に肘鉄を食わせてしまった。
「……………!」
不意打ちに対する不意打ちをまともに受けた剣護が、うずくまる。
「あ…、ごめん、剣護。ごめん」
「―――――っあ―――。効いた。…戻って来たか?」
「――――うん」
けれど、その目はまだ頼りなく、不安に揺れている。
剣護はリビングのテーブルに真白の淹れたコーヒーを置くと、自分も隣に座った。
「とりあえず、それ飲んで落ち着け」
「……うん…」
真白が大人しく言葉に従い、のろのろとコーヒーカップに手を伸ばす。気を持ち直したからではなく、ただ言われるまま、惰性で動いている感じだった。
「剣護。剣護―――――」
焦点の合っていない目のままで、兄の名を呼ぶ。コーヒーカップを置く手は震えていた。カチャカチャ、とソーサーが音を立てる。
「何?真白」
恐らく無意識に、自分のシャツの袖を握る真白の左手を見ながら、出来るだけ穏やかな声を出すよう心がけて剣護が返事をする。羽を傷めた小鳥を、そっと掌で包むように。
「――――――前生でね、私、次郎兄が泣いたのを見たことあるの。…あの、次郎兄が」
「―――うん」
「父様に、剣術で妹にも勝てないのか、って叱られて」
「…………」
「私…、辛かった。大好きな次郎兄が、私のせいで泣いてたから」
辛かった、と繰り返す真白の目は、ここではない遠くを見ていた。
剣護は、そんな妹をしばらく見てから、口を開いた。
「…それはな、真白。お前のせいじゃないんだよ。父上の叱責であいつは泣いたんじゃないんだ――――――――…。自分が守りたい妹が、自分より強いってことが、自分では守れないってことが、あいつは悔しかったんだ。悔しくて、泣いたんだよ…」
目を見開いた真白が剣護を見る。
「嘘………」
「本当だ。俺は、本人から聞いた。……俺が喋ったって内緒だぞ」
真白の目に、涙が盛り上がった。
「守れないだなんて、そんなこと………!―――――莫迦だよ、次郎兄…」
〝自分を過剰に責めないで〟
魍魎と戦う道を選んだ真白の今後を、いちはやく心配してそう言ったのは怜だった。
〝俺も太郎兄も、好きな道を選んで生きてる。だから良いんだよ、真白〟
(――――良くない)
その為に怜が傷を負うなど、少しも良くはない。
(他にも、たくさん、たくさん、守ってもらってるのに)
刃から守るだけが、人を守ることとは限らない。
剣護が相槌を打つ。
「うん。あいつは賢いけど、ちょっと莫迦なとこがある。昔から変わらない。――――もうあの性分は治らないんじゃないかな、この先も。……俺は朝飯を食ったら、次郎を助けてくれた人の家に行く。真白、お前も一緒に来るか?」
〝この先も〟と言う単語を、剣護は強調した。
「行く」
目をごしごしとこすって、きっぱりと真白が答える。
剣護が息を吐きながらガリガリと頭を掻いた。
「……だよな。罠の可能性が無いでも無いから、出来れば俺一人で行きたかったんだけど。あとでお前にこのことがバレたら絶対、お前、怒るだろ?お前怒ったら怖いから、怒られたくねーし」
(泣かれるのは、もっと嫌だけど――――――)
頭の端でちらりと考える。
「怒るよ!当たり前だよ!」
まだ潤んだ目で、真白が気色ばむ。
「――――だからそういう目で俺を見んなって……」
言いながら乱暴に真白の前髪をかき回し、剣護が付け加えた。
「…それに、お前が行ったほうが向こうも都合が良いみたいでさ」
「え?」
「昨日、通話を終わらせる直前、その人が言ったんだ」
〝もし、そちらのお知り合いに若雪、ないし、ましろ、て呼ばれてる女性がいはったら、お会いしたいんですが〟
真白は目を瞬きさせた。
「…どういうこと?」
「どうもこうも」
そう応じて、剣護は肩を竦めた。彼にもまだ、事情の全ては呑み込めていない。
内容だけを鑑みれば警戒すべきところだが、耳に響く声の柔らかさが、剣護の疑念を解いた。
「ただ、ちょっと気になることが―――――――」
「何?」
「…関西弁、だったんだよ。その人」
真白は良く解らない、という顔をした。
「……大学の院生でしょう?関西出身の人がいても、おかしくはないよ」
「――――まあ、そうなんだけどな」
なぜか相手の話す関西弁を聞いた時、剣護の頭には荒太の顔が浮かんだのだ。
(…全然関係無いだろうが)