惑乱 四 後半部
坂江崎碧は、小さな手に青いゴムボールを持ち、リビングの端に座り込んでいた。
先程から右に、左に頭を傾けている。
彼には最近、非常に気になることがあった。
坂江崎家のリビングの窓からは、向かいに建つ二軒の門倉家が見える。両隣が同じ名前の表札を掲げている状態は、近所の人間を多少混乱させた。ただ、片方の門倉家の手作りめいた木の表札には、名字の他に、ピーター、千鶴、剣護、と家族のファーストネームが記されており、訪れる人間に隣家との区別をつけさせていた。
「あら、碧ちゃん。まだ眠ってなかったの?早く歯を磨いて寝なさい。明日も幼稚園のあと、空手のお稽古でしょう?」
じっとして動かない幼い息子に、リビングに乾いた洗濯物を運んで来た母親が声をかける。
「ねえ、ママ、真白お姉ちゃんの家にね、最近、剣護お兄ちゃんじゃないお兄ちゃんたちが来たりしてるんだよ。……新しい、お友達かなあ?」
「真白ちゃんちに?――――あら、もしかしたら真白ちゃん、彼氏が出来たのかしら?可愛いものねえ、あの子。剣護君とは仲良いけど、彼氏って感じじゃなかったし。良いわねえ、青春だわ」
碧の母が、洗濯物を畳みながら遠くを見るような目をする。
「ねえねえ、カレシってなあに?」
母親の服の袖をつんつんと引っ張り、碧が尋ねる。
「うーんとね、家族以外で、いつも一緒にいて、とっても仲が良い男の子のことかな」
洗濯物を畳む手を休めることなく、母親が考え考え、答えた。
「お友達とは違うの?」
「そうね。もっと、特別かも」
言いながら、母親はちらっと笑う。
「……真白お姉ちゃんは、僕よりカレシのことが好き?」
碧の眉尻が下がり、いかにも悲しげな顔になる。
「―――――そうねえ、どうかしら?…あら、このシャツ襟元のところが黄ばんできてるわ。あなた、ちゃんと毎回、着たあとに汚れ落としの洗剤液、塗ってる?」
ソファに座り、黙って新聞を読んでいた父親が目を上げ、肩を竦めた。
「あー…、最近、忘れてた。かも」
「もう、駄目よ。面倒でも小まめにしないと。一度黄ばみが染み付くと中々落ちないんだから。特に今からの季節は。これじゃ何の為にあの洗剤液買ったか、解らないでしょう?」
パパ怒られてる、と思いながら碧は母親の剣幕を見ていた。
パパは「会社で戦うヒーロー」なんだから、それを怒ることの出来るママは、きっとすごく強いのだ―――――――――――。
「ああ、うん。すまん、すまん。これからは気をつける。―――――しかし、あれだな。碧はまるで、真白ちゃんのお父さんだな。娘に悪い虫がつくのを警戒する、父親みたいだ」
父親は、妻の勘気を避けるべく、話題を移した。
それを聞いて碧は、「悪い虫」って何だろう、と首をひねった。
少なくとも真白の家に出入りする男子たちは、虫ではなく人間に見える。
(それとも、本当は虫なのに、人間に変身してるのかな…。テレビで見る、悪い奴みたいに)
「…カレシがいても、真白お姉ちゃん、僕と結婚してくれる?」
大真面目に訊いてくる幼い息子に、父親は思わず笑った。
「難しいなあ、それは。碧は、真白ちゃんと結婚したいのかい?」
年の差カップルだな、と思いながら尋ねる。
「うん!僕、真白お姉ちゃんのこと、大好きだもの」
碧の頭を撫でながら、父親は言った。
「じゃあ、空手でも何でも、一生懸命頑張って、真白ちゃんに振り向いてもらえるようにしないとな。剣護君や、そのお友達に負けないように」
「僕、頑張るもん」
「よーし、それでこそ男だ」
生真面目な顔で言い切った息子に、父親が破顔して頷いた。
前生で小野三郎と呼ばれた魂は、今はまだ幼く、優しい庇護下のもとで微睡んでいる。
「やれやれ。さすがは若雪どのだな――――」
再び新聞に目を落とした父親がこぼした呟きは小さく、碧の耳には届かなかった。
剣護との通話を終えた怜は、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
荒太は夕食を済ませているのだから、今日の食糧を考える必要は無いが、明日の朝食はこちらで食べるかもしれない。荒太とは浅い付き合いだが、自分以上に大喰らいだということは解っている。
大喰らいだしドケチだし細かいし、おまけに二面性もある。若雪も真白もあれのどこが良いのだろう。取り柄と言えば、顔と頭と運動神経と家事全般その他―――――…ぐらいではないか。
要するに器用貧乏だ。
(まあ、根性も甲斐性もあると言えばあるけど。……家のエンゲル係数高そう…)
あれを養うのは大変だろうな、と荒太の両親に同情する気持ちが湧いた。
加えて荒太は、自分に対してあまり遠慮が無い。
パンや牛乳くらいは、買い足して置いたほうが無難だろう。ついでに、他にも色々きれそうな食材を買って来よう、と思う。
(さすがのあいつも立場上、朝は和食じゃないと嫌だとか言ったりはしないよな)
これでもし、「俺、朝は和食党なんだけど」などと抜かすようなら、部屋からほっぽり出そう――――――――――。
財布とエコバッグを手に、ビーチサンダルを引っかけ外に出た。
夏祭りはまだ続いているようで、明るい音楽が聴こえて来る。
公民館を通り過ぎざまに覗くと、結構な人で賑わっていた。
(活気があるな。蒸し暑いのに…)
公民館前の広場には、焼き鳥や金魚すくいなどの出店も並んでいる。
中には、親に連れられた小さな子供の浴衣姿もあった。
若雪の子供時代を思いだし、怜は目を細める。
前生で、元服名も付く前、太郎はただ太郎、次郎はただ次郎とだけ呼ばれた幼い日々があった。
太郎は八歳、次郎は六歳、若雪は五歳、三郎は三歳。
ある日、太郎は父に連れられ、小野家と同じく大社神官の家への用事に付き添いで赴き、家を留守にしていた。
兄たちに懐いていた若雪は太郎の留守を寂しがり、残った次郎のあとをついて離れなかった。次郎は困った顔を表面上して見せたが、内心では若雪が自分一人にまとわりついて来ることが嬉しかった。
けれど次郎もまた、近くの知人の家への届け物を母に頼まれた。
〝次郎兄、待って!私も行く〟
家を出た次郎を、幼い若雪が追って来た。
まだ次郎より小さな手足を、懸命に動かして。
〝若雪、そんなに走ったら転ぶよ。歩いておいで〟
次郎が言った瞬間、若雪は見事に転んだ。
あ、と次郎は思った。
道に座り込んだ若雪は、しばらく呆然としていたかと思うと、大声を上げて泣き始めた。
〝わあああん、わあああん〟
次郎は急いで来た道を戻り、若雪の傍にしゃがみこんだ。着物の裾から覗いた膝小僧には、血が滲んでいた。
〝ああ…、すりむいて、血が出てるじゃないか〟
もっとゆっくり歩いてやれば良かった。
泣き続ける若雪を見て、次郎は強く後悔した。
〝若雪、泣かないで。…泣かないで…〟
結局、届け物を後回しにして、次郎は若雪を背負って家に戻ったのだ。
背負うと言っても、五歳と六歳の体格はそこまで変わらない。
届け物もあったので、結構、重くて苦労したのを覚えている。
「……………」
思い出す怜の口元には、笑みが浮かんでいた。
スーパーからの帰り道、公民館にもうすぐ差し掛かる、というところで、怜は異変に気付いた。雑多な人の賑わいの空気に混じって、彼のアンテナに引っかかるものがある。
「―――――――?」
それは、今までに感知したことの無い気配だった。
(何だ、これ。汚濁ではない…。もっと純粋な、清らかさを伴う、敵意)
暗く、人気の無い横道に入ると、それは立っていた。
半透明の身体に、清い空気、無邪気な笑みの―――――――魍魎。
一目瞭然だった。
「…お前が、真白たちを襲った奴の同類か?」
相手は微笑むと、次の瞬間加速して怜に迫った。
エコバッグを放り投げながら叫ぶ。
「虎封――――!」
折角買った卵が台無しだ、という嘆きが頭の隅をよぎった。
鋭い音を響かせて、一の太刀、二の太刀、と刃を交わしながら怜は思う。
(成る程…。やりにくいものだな)
明確な命の息遣いが感じ取れる相手、というものは。
今から自分は相手を殺すのだ、と嫌でも思い知らされる。
―――――殺す覚悟を、試される。
(その上、速い―――、強い)
真白たちは、これを二体相手にして無傷で済んだのか。
(こちらから先手を打たないと、不利になる)
続いて鋭利な小刀が飛来した。
虎封で打ち落とすが、仕損じた一本が腕をかすめた。
(大した傷じゃない、このまま攻める―――――)
次なる一撃を魍魎に加えようとした時。
「ママ………?」
怜の耳に、あどけない女の子の声が飛び込んできた。
振り向けば横道の入口に、浴衣姿の小さな女の子が立っている。
目は赤く充血し、頬には涙のあとがある。
(―――母親とはぐれたのか――――!?)
「逃げろ、早く!」
怜が叫ぶが、女の子は硬直したように動けない。
これまでに見たことも無い魍魎の姿に、茫然としているのだ。
魍魎は女の子の姿を見ると、惹かれたようにそちらに向かう。
最悪の状況が怜の頭に浮かぶ。
(駄目だ―――――!)
ダッ、と怜が地面を蹴った。頭の中では、間に合え、とそればかりを念じていた。
(間に合え。間に合え。間に合え―――――――――)
一秒でも、一瞬でも早く、足を動かさなくては――――――。
(間に合え………!)
魍魎が、女の子に向かって刃を振り上げる。
その動きも、自分の手足の動きも、全てがやけにゆっくりと感じられた。
――――――刀で受ける余裕は無かった。
瞬きの間に怜は選択した。
手を伸ばしてその子の腕を掴むとグイッと自分のほうに引き寄せ、小さな命の塊を抱え込む。
ほぼ同時に、妖の刃が怜の左肩を深々と刺し貫いた。
「―――――――!!」
形容しがたい痛みに、怜が目を見開く。
「あ………」
女の子が目を丸くする。
そのまま、怜の腕から抜け出て、泣き始めた。
ズルッ、と無造作に刃が引き抜かれ、再び走る激痛に怜は呻いた。
「…――――う、…ぐぅっ…」
「ママ―、ママ―、うわああああん」
その時既に、怜の意識は朦朧としていた。
(痛い。熱い。熱い。…寒い…?―――――泣いてる…誰……若雪…、真白?)
女の子はそのまま、泣きながら逃げ去った。
あとには、魍魎と怜が残った。
魍魎が、刀を振り上げる。
それを気配で感じても、避ける力が、怜には残されていなかった。
ただ、彼の耳には女の子の泣き声がいつまでも鳴り響いていた。
(――――……真白。泣かないで―…。真白が泣くのは、嫌なんだ。―――――――こんな俺でも、真白が泣くと、胸が痛くなるんだよ…――――――――)
それが怜の、最後の思考の欠片だった。
意識が遠ざかり、瞼が閉じられる。
横たわる地面には、赤いものがゆっくりと広がりつつあった。