惑乱 三 後半部
「―――――」
強い瞳に、荒太は口を閉ざす。
「命を奪うことに躊躇いが無いから、だから荒太君が私の分まで背負うの?荒太君の後ろで私一人、安穏としていろと言うの?―――――――出来る筈が、無い!!」
叫んで、真白は荒太の胸を両の拳でドンッと打った。
ベンチに座ったまま、華奢な拳で打たれた荒太は揺らぎもしなかったが、口を半ば開いた表情は固まっていた。
「……今、私が直面している問題は、私が、対峙しなければならないものなの。……苦しくても、辛くても。その感情を持つこともまた、私の権利であり、誇りだよ。私からそれを、取り上げないで。荒太君の言うような理屈で、私ばかりが守られるのはおかしいよ」
強く言い切る真白の目に、涙が滲んでいるのを荒太は見た。
真白の誇り高さを、軽んじていた自分に気付く。
「―――――――ごめん。真白さん…………」
目に涙を溜めたまま、真白が気丈に微笑んだ。
「ううん。荒太君が、私の心を守ろうとしてくれたのは、解ってるの。その気持ちは、嬉しかったよ。でもね、それでも私は―――――――、例え血に塗れることになっても、選んだ道を行く。楯は、要らない」
「………………」
〝観音深く頼むべし 弘誓の海に船泛べ
――――――沈める衆生引き乗せて 菩提の岸まで漕ぎ渡る〟
罪穢れの重さに沈む衆生を、観音は引き上げて救いの船に乗せ、菩提の岸へ連れて行くと言う。それは嵐が前生で覚えた、梁塵秘抄にあった今様の一首だ。
真白はあえて、罪穢れの海に身を沈めようとしている。
そんな必要は無いのだ、と叫ぶ声を振り切って。
(―――――――どうしてそんなに要領が悪いんだ)
強くあろうとする真白が、荒太の目にはかえって痛々しく映った。
戦わなくて良いと言われたのなら、守ろうとする手があるのなら、疑問を持たずその手に委ね、甘えてしまえば良いものを。荒太には、真白に人として生きる道を選ばせた、自覚と負い目があった。神として存在する選択肢を、若雪は嵐と出会い続ける為に捨てた。
そうさせた責任を取る意味も含めて、真白を苦難の全てから守るつもりでいたのだ。
けれど彼女は、わざわざ自らの白い手を汚そうとする。
歯痒い、という思いが荒太の胸の底、強く沸き起こった。
(守らせて欲しいのに。…………イライラする)
荒太は衝動の赴くまま、真白の腕に手を伸ばして、彼女を抱き締めようとした。
けれど自分の着ているシャツについた返り血に気付き、思い留まる。
顔を顰めて、行き場の無い両手をパタパタさせた。
真白がそのシャツを見て言った。
「―――どこかで着替えなくちゃ―――――その服のままで帰ったら、お家の人、びっくりされるよ」
溜め息を一つ吐き、表情を平静に戻した荒太が相槌を打つ。
「ああ―――――今日はもう、兵庫のところに泊めてもらうよ。その前に真白さん、送ってく。シャツがこの状態だし、電車とかだと悪目立ちするから、勿体無いけどタクシーで動こう。……それでも運転手に通報されるかな。変に勘繰られるのも面倒だし裏返して着るか………。すごく嫌だけど」
荒太がぶつぶつと考えを口からこぼしていく。服装にこだわる荒太にとって、裏返したシャツを着てタクシーに乗ることは、強い抵抗があった。だが、背に腹は代えられない。
兵庫、という言葉に反応した真白が、すかさず荒太の横に座り、質問を始める。
「兵庫って…もう成人してるの?独身?」
結構、このネタに喰いつくよな、と思いつつ荒太が答える。
「うん。まだ二十代だけど、俺はたまに嫌味で〝おっさん〟って呼んでる。あいつ、そう呼ばれるのすごく嫌がるんだ。まあ、あいつはあいつで〝何ですか、ガキ〟とか〝お子様〟って返してくるからお互い様なんだけど」
(…どっちもどっちだな。二人共、大人気ない。………でも)
相変わらずだ、と思い、真白は少し嬉しかった。
「今生でも、自由恋愛を楽しんでるみたいだよ」
荒太がにや、と笑う。
「自由恋愛?」
真白が、きょと、とした目をする。
「うん。あいつ、前生の時から、そーとーなプレイボーイだったよ。若雪どのには、知られないようにしてたみたいだけどね」
「どうして?」
荒太は不思議そうに尋ねた真白に、謎をかけるような口調で言った。
「さあ、どうしてでしょう」
荒太が見せる目の意味が、真白には理解出来ない。
「――――職業は?」
「うーん。…秘密」
「……兵庫は、車を持ってないの?」
荒太が、その手があったか、という顔をした。
「――――持ってる。そうか、あいつに足になってもらえば良いんだ」
俄然元気づいた荒太は、スマートホンを取り出した。
しかし兵庫との連絡はつかなかった。
街灯がジジ、と音を立て、真白がそちらに目を遣る。
「あいつ、肝心な時に―――――。連絡が取れない忍びなんてあるか?」
光明を見出した、と思っただけに、荒太の落胆は大きかった。
ぼやく荒太に、真白は尋ねた。
「…他の七忍は?」
荒太が無表情で真白の顔を見る。
「――――知りたい?他の奴らの、誰が転生してるか」
「―――うん」
「とっっても、知りたい?」
隣に座る真白の顔に、顔を近付けて訊く。
「うん。とっっても知りたい」
真白は、頷きながら真面目に答える。
その瞳は、教えて、と強く訴えていた。
「そっか。じゃあ―――――――秘密」
そう言うと、荒太はにこりと笑った。
今の荒太は、少しばかり真白に意地悪をしたい気分だった。
当然ながら、真白がムッとした顔になる。
「――――何なの、それ?ずるいよ、荒太君ばかり。……秘密、秘密って、何だか昔の嵐どのみたい。若雪だって、一応は七忍を指揮する立場にあったのに」
しかも、そう仕向けたのは嵐だ。
それを聞いて荒太が苦笑する。
好きな子苛めは、程々(ほどほど)にしないといけない。これで少しでも嫌われたら、あとでどっぷり後悔するのは自分のほうだ。
「そうだね…。まあ、おいおい教えるから、ちょっと待ってて。少なくとも、兵庫には近い内会わせるよ。訊きたいことがあれば、その時本人に直接訊くと良い」
そう言ってから荒太は、今日一日、気になっていたことを真白に尋ねた。
「………あのさ、真白さん。俺のあげたブレスレット、実はあんまり気に入らなかった?」
「え、どうして!ものすごく、気に入ってるよ!」
真白が驚いた顔で、素早く、力を籠めて断言した。
「今日あたり、つけてきてくれるかなーと思ったんだけど………」
荒太は横目で真白を窺いながら言う。
実は密かに期待していたのだが、迎えに行った彼女の細い手首には、腕時計しかつけられていなかった。
「だって、おいそれとはつけられないよ。ケーキバイキングにつけていって、汚したら嫌だし。それに何だか、――――つけたら減りそうな気がして」
「減らない減らない。減るもんじゃないから。おいそれとつけてよ。金属疲労とかは、やたら長いスパンの話だしね」
「でも、…た、宝物だから。冠婚葬祭ぐらいでないとつけられないよ」
真白が、夜目にも判るくらい顔を真っ赤にして、どもりながら言った。
「………………」
(宝物。………冠婚葬祭?)
荒太は予想だにしなかった大仰な単語と四文字熟語に、しばらく言葉が見つからなかった。結婚式はともかく、お葬式であのブレスはまずいだろう、という突っ込みはこの際置いておく。
じわじわと、口元に自然と笑みが浮かんできて、参ったなと思い、顔を片手で覆った。
「あーぁあ」
ベンチから地面にしゃがみ込んだ荒太に、真白が再び驚く。自分もしゃがみ込み、荒太の背中に手を置いて口早に尋ねる。
「どうしたの?どこか痛い?もしかして、本当は怪我してた?」
「ううん、そう言うのじゃない……。俺、真白さんには、やっぱり一生頭が上がらない気がする。ちょっとの意地悪がせいぜいだよ…。ちぇ、今生こそは亭主関白、って思ってたのに」
真白が言葉の意味を訊き返す間も無く、荒太が勢いをつけて立ち上がった。
どこかさっぱりした顔で言う。
「良いよ。真白さんは、選んだ道を行くと良い。俺は、どうあってもそれをフォローせずにはいられないようになってるんだから。その代わり、今度デートする時にはあのブレスレットをつけて来てね」
「うん。――――うん?」
相槌を打ちながら、荒太が差し伸べた手に手を重ね、真白も立ち上がる。そして、引っかかりを覚えた。
今、ちゃっかり何か、約束させられなかったか。有耶無耶な内に――――――――。
真白が深く考え込む前に、次の荒太の発言が、彼女の気を逸らせた。
「それで。目下の課題は、俺の今日の寝床確保なんだけど」
そうだった、と真白は思い、素直にその問題について考えを巡らせた。
「―――――――あ、次郎兄の家に泊めてもらうっていうのはどうかな?」
そう言えば、という表情で荒太が宙を見る。
「ああ、江藤は一人暮らしだったな」
あまり興味が無いので今まで忘れていた、というような口振りだった。
(――――荒太君と次郎兄の仲って、いまいちよく解らないな。険悪って感じじゃないけど、互いが互いに対してドライというか……)
引いた目線で、相手を見ている観がある。
「ちょっと待って、スマホで訊いてみる」
真白が電話をかける間、荒太は虫の鳴く音を聞きながら待っていた。
『もしもし次郎兄?』
「真白、どうかした?」
スマートホンを耳に当てた怜は、テーブルの上にあるウイスキーのボトルをちらりと見る。
そして、真白から今夜起こった出来事の一部始終を聞いた。
『――――――それで、荒太君の服が返り血で汚れちゃって。このままじゃ、家に帰れないの。次郎兄、今夜一晩、荒太君を泊めてあげてくれないかな』
そういうことか、と怜にも合点がいった。
「ああ、良いよ。こっちは気楽な一人暮らしだからね。でも、明日は学校があるだろう。制服や鞄なんかはどうするんだ?」
『明日、早い内に家に取りに戻るって』
怜はすぐに、自分に求められていることを呑み込んだ。
「じゃあ、あいつの服を洗濯する間、適当に俺の服を貸せば良いんだね。…成瀬に選り好みはするなって伝えといて」
『うん、ありがとう、次郎兄』
通話を切った怜は、少しの間思案したあと、剣護のスマートホンに電話をかけた。
『何だ、次郎。どうした?』
落ち着いた剣護の声が耳に入る。
「太郎兄。今日、真白と市枝さんと成瀬が、信長公に会ったのは知ってる?」
『ああ、焼肉だろ?昼過ぎに真白から連絡があった。夜は遅くなるだろうって。まあ、荒太もついてることだし、問題無いだろ。信長公のほうは、良く解らんが』
「―――――店を出たところで、魍魎に遭ったそうだ」
『―――――――――被害は?』
剣護の声が鋭くなる。
「無いよ。皆、無傷だ。二体、倒した。ただ――――――、」
『ただ?』
「その魍魎たちに汚濁は無かった、と真白は言ってる。半透明の身体に、整った面立ちをしていて、とても今までの魍魎とは似ても似つかなかったそうだ。その二体を置いて去った魍魎は、スーツを着てまるで人間そのもののようだった、って。…その男は、災害は単なる自然現象に、人が自分たちの都合で勝手に災いと名付けたものだ、と語ったそうだよ。……一応、理屈の筋は通ってる」
電話の向こうで剣護が唸った。
『こちらの攪乱が狙いか―――――?真白の様子は、どうだった』
怜はカーテンを開けたままの、ベランダに通じるガラス戸越しに夜空を見上げた。
「会話した限りでは、落ち着いていたけど……。動揺が無かったとは思えない。真白に揺さぶりをかけるには、上手いやり方だよ。」
それまでより低い声で怜は続けた。
「――――――それから、魍魎を連れて来た男は、去り際に言ったそうだ。近い内、真白に恨みを持つ男と再会するだろう、と」
剣護が次に声を発するまで、若干の間があった。
『―――――実はな、次郎。今まで黙っていたんだが――――――』