惑乱 三 前半部
三
茫然としている暇は無かった。
男が消えた瞬間に、清い魍魎たちは攻撃を開始した。彼らの表情に変化は無い。無垢な顔のまま戦闘に臨む姿勢は、見ていて異様だった。
小刀のような鋭利な武器が、真白たちに向けて何本も放たれる。
雪華でそれらを叩き落とすと、キンッという金属音が数多鳴り響いた。
息も吐かない内に、半透明の刀が首筋近くに迫り、ヒヤリとする。
（速い―――――）
真白も相手の腕を雪華で払う。
整った魍魎の顔が、痛みに歪む。
まるで人間を相手にしているかのような錯覚に陥った真白は、雪華の柄を握る手を緩めた。相手の顔に、にい、と笑みが浮かぶ。
「―――――！」
次の一撃を、真白は辛うじて避け、間合いを取る。
暇を与えず、相手は更なる攻撃を仕掛ける。
真白はもう一体の行方を気にする暇も無く、再びその魍魎と斬り結ぶ。
双方の刃がぶつかり、力の押し合いになった。
雪華は、魍魎の手にする刀より刀身が短い。
すぐ近くに相手の息遣いが聴こえる――――――。そのことに、真白は驚愕した。
（息が、聴こえる。生きている…今までの魍魎とは何て違うんだろう。それとも、今まで倒した魍魎も、本当はこんな姿だったんだろうか。私は今、人と斬り結んでいるも同じ――――――――？人を、今生でもまた、殺さないといけないの？それは―――――――それは、）
―――――――それは嫌だ。
〝平気にならなくても、倒すよ〟
理の姫・光に言った言葉を思い出す。
その言葉に嘘は無かった。
（嘘は無かった）
だからこそ余計に、思わずにはいられない。
自分は、何て浅い考えで物を言っていたのだろうと――――――――。
躊躇いに隙が生じた。
雪華が弾き飛ばされる。キインと澄んだ音が響く。
「あ………っ」
迫る刃。
（斬られる）
真白はそう確信した。
その時、ザンッという鈍い音が響き、相手の魍魎は刀を振り上げたまま動きを止めた。
魍魎が、地に倒れる。その背には深い裂傷が走っていた。
地に倒れ行く時の魍魎の、苦悶に歪む表情は、ひどくゆっくりと真白の目に焼き付いた。
（――――やっぱり、この子は――――生きて…いたんだ――――――）
「…荒太君………」
真白の視線の先、返り血を浴びて立っていたのは、飛空を手にした荒太だった。その目は真白の安否を強く案じていた。
「―――――怪我は？」
「大丈夫…。――――市枝たちは！？」
「無事よ、真白」
見れば百花を手にした市枝の足元に、もう一体の魍魎が横たわっていた。荒太は市枝を援護したあとに、真白のもとへ駆けつけたのだ。
市枝が見下ろす魍魎の身体はゆっくりと溶けていく。荒太が倒した魍魎も同様だった。
そして消えゆく彼らの身体からは、汚濁は生じなかった。
（そんな…それでは、これからこの魍魎の気配をどうやって察知すれば……）
「変わらんな、真白」
竜軌の声に、顔を向ける。
彼は一人だけ戦闘に加わらずに、じっと目の前の出来事を検分していたようだった。
「敵を殺める行為を、未だに忌避しておるのか。荒太がおらねば、儂があの魍魎を斬っておったろう。お前は、結局は間接的にあれを殺したのだ。敵の在り様から目を背け、逃げてばかりおらずに、己の手を汚す覚悟を持て。良いか。先程の男がほざいたは戯言、ただ耳に注ぐ為の毒と心得よ。魍魎は、人を襲い、喰らう。我らを殺さんとする。お前や儂がそれを敵視し、倒すのは道理であろうが。惑わされるな」
竜軌の諭し、諌める口調に、真白は返す言葉が無かった。
結局、その後市枝は竜軌に、真白は荒太に伴われて帰途に就くことになった。
別れる時、市枝は真白を心配そうな目で見ていた。
歩き出そうとした荒太に、真白が声をかけた。
「待って、荒太君。……返り血を、拭いて行こう。私、あのお店でハンカチを濡らして来るから――――――」
「いや、それよりおしぼりを、何か理由をつけて貰って来てくれる？わざわざ真白さんのハンカチを汚すことないよ」
荒太の意見は冷静なものだった。
真白は彼の顔を見返す。
「―――――解った。待ってて」
いつまでも焼肉店の駐車場にいる訳にもいかず、二人は近くの公園に場所を移動した。
ブランコと滑り台、砂場の他、いくつかベンチが並び、その周りを木々がぐるりと囲んでいる。ポツンと灯った街灯には、多くの虫たちが群れ集っていた。
「荒太君、ちょっとそこに座って、目を閉じて」
言葉に従ってベンチに座り、大人しく目を閉じた荒太の顔の、血のついた箇所を真白は拭いた。それは彼の顔の面積の多くを占めていた。乾きつつあった赤い色が、拭われていく。代わりに、真白が手にしたおしぼりにその赤が移った。
夜風に揺らされた木の葉が、ザワザワと音を立てる。
湿気を多く含んだ風に涼やかさは無く、生温い。
「――――――」
真白はきつく唇を噛んでいた。
（この赤は、私の赤だ……）
荒太が浴びた返り血は、本来であれば自分が浴びるべきものだった。
〝怪我は？〟
そう聞いた時の荒太の目は、守るべき者を見る目だった。
竜軌の言った通り、自分は手を汚すことを恐れ、荒太にその行為を押し付けたのだ。
（卑怯者―――――）
「……ごめん、荒太君」
荒太は、案の定、という顔で軽く笑った。
「言うと思ったよ」
「え？」
「今、自分のこと責めてるでしょう、真白さん」
荒太の声は穏やかで、咎めるような響きは皆無だったが、真白は俯いた。
「…嫌われたくないから、今まで言わなかったんだけど。俺はね、真白さん。魍魎が、例え命ある人間と大差無い存在だろうが、滅することに、……いや、殺すことにあまり躊躇いを感じないんだ。―――――――多分これは、嵐だった時の記憶があることが大きいんだろう。嵐は、若雪どのとは比較にならない数の、人間を殺した。特に戦場での記憶は、今でも生々しいくらいだ」
皮肉な話だった。
嵐は、禊の時を荒太として、平和な現代の人間として生きたあと、戦国の世に戻ってもその感覚が抜けず、命の遣り取りを避けるようになった。
荒太は、嵐として生きた記憶、禊の時を生きた記憶の全てを持って目覚めて、生殺に関して乾いた目を得た。
グッと握った自分の拳を、荒太は見つめる。
蘇る、肉を斬る感触。骨を断つ感触。
「―――――…俺のこと、軽蔑する？」
最後に、荒太が窺うように訊いた声は、やや小さく響いた。
「…………」
俯いたまま、真白は首を強く横に振った。
「ありがとう」
荒太が安堵したように微笑む。
「だからね、真白さん。信長公の言った言葉は、気にしないで良い。もちろん、自衛するしかない場面では、真白さんにも戦ってもらうしかないけど、それ以外の時―――――少なくとも俺が傍にいる時は、真白さんは、何もしないで良いんだ」
〝真白さんは、何もしないで良いんだ〟
真白はその台詞に目を見張った。
荒太が語り終えた時、真白がぼそぼそ、と何か言った。
「え？何、真白さん？」
真白が顔を上げて、荒太に言った。
「間違ってる。そんなのは、間違ってるよ。荒太君」
