惑乱 二 後半部
怜の住まうアパートの部屋は1DKで、ダイニングキッチンは六畳、居間兼寝室も六畳の広さだった。そこそこ自炊の出来る怜にとって、広めのキッチンと使い勝手の良いコンロがついた物件は有り難かった。高校生の割にそつなく、また礼儀正しく振る舞うので、大家からの受けも良い。
しかしその大家も、今の怜の在り様を見れば目を剝くだろう。
完璧に整理整頓とまではいかないまでも、そこそこに片付いた部屋の中、怜は氷の浮かぶウイスキーが入ったグラスを一人傾けていた。折り畳みの出来る小振りなテーブルの上にはウイスキーのボトルの他に、肴につまむアーモンドが載ったガラス皿がある。
白い半袖のVネックシャツに、ストレッチ素材の効いた黒のジーンズを穿いた怜は、グラスを傾けつつ時折アーモンドに手を伸ばし、寛いでいた。
真白は知らないことだが、たまの晩酌は怜の楽しみの一つだった。押入れにはこっそり、ウイスキーのボトルと、日本酒の一升瓶が隠されている。一人暮らしの家具を揃える際、冷凍室付きの冷蔵庫を選んだのは、実はウイスキーを飲む時の氷を作る為、という理由が一番大きかった。そのあたりの動機からして、既に法律違反に踏み込んでいる。それでも一度に飲むのは、せいぜいウイスキーをロックでグラス一杯か、日本酒を盃に一、二杯程度ではある。
例えば真白が、怜に飲酒を止めろと懇願してくれば、すぐにでもそれに従うことは出来る。
だが今のところ、怜の密かな習慣は彼女にばれていないし、止めろとも言われていない。
(太郎兄がチクッたりしなければ、当分はこのままだな……)
そんな風に考えていた。
カラン、と氷を揺らし、グラスの中身をコク、と飲む。
喉の内を通り抜ける流動体の感覚は、冷たく、熱い。
怜はかなりのアルコールが入っても、顔に出ない。酔いも浅く、すぐに醒める。全く素面の時と変わらないのでつまらない、と以前市枝の家でワインを飲んだ時に、剣護から不満そうに言われた。
〝そんなところまで変わってないんだな、次郎〟
――――――どこかで太鼓の音が鳴っている。賑やかな音楽も流れて来る。子供のはしゃいだような声も、時々聴こえて来る。
そう言えば今日は近くの公民館で、昼間にバザーが開催されたあと、夜には夏祭りが行われるのだとアパートの大家が言っていた気がする。
(祭り、か……)
グラスを掲げて、昔のことを思い出す。
出雲大社に仕える神官家であった小野家は、祭事の折にはその下準備やら精進潔斎などで忙しかった。太郎清隆も次郎清晴も、まだ幼い時分からその手伝いに駆り出されたものだった。そして途中から若雪がそれに加わるようになり、三郎も加わった。
今では、遠い思い出だ―――――――。
だがどうしても怜は、小野次郎清晴として生きた記憶に、執着せずにいられなかった。
それはたった十五年で断ち切られた人生だったが―――――――――。
彼にとってはそれ程に大事な家族で、―――――兄妹だったのだ。
〝親不孝者!〟
前生の記憶を思い出した怜が、転校して一人暮らしをする、と言った時に母親から泣きながら言われた言葉は、今も耳に残っている。
それでも、怜は真白たちを選んだ。そして少しも後悔していない。
(実際、親不孝者ではあるんだろうな…)
冷静に、自分のことをそう分析する。
何の色も浮かばない瞳で、怜はグラスを傾けると琥珀色の液体を口に含んだ。
竜軌が支払いを済ませて、四人は焼肉店を出た。
支払いの時に、竜軌が手に持っていたゴールドカードがちらりと目に入り、真白は驚いた。真白にとっては都市伝説のような代物であるそれを、竜軌はさも無造作に扱っていた。
(本物のゴールドカード、初めて見た…)
市枝といい、竜軌といい、織田家の兄妹は随分と富裕な家に生まれたものだ、とこっそり思う。
今夜は曇っていて、月も星もよく見えない。どこからか虫の鳴く音だけが聴こえてくる。
湿度は高いらしく、肌にまとわりつくような湿気が、やや鬱陶しかった。
焼肉店の広い駐車場まで来たところで、荒太が言った。
「俺が真白さんを送って行きますんで、新庄先輩は市枝さんをお願いします」
「市枝も真白も、俺がまとめて送って行ってやる。タクシーを使えば問題無いだろう」
あっさり言う竜軌に、やはり経済観念が違う、と真白は思った。
竜軌の自宅がどこにあるのかは知らないが、市枝の家と真白の家の双方を回ったあとで帰宅するのだとしたら、タクシーのメーターは大変なことになるのではないか。
感覚の落差に呆れたのは、金銭の無駄遣いを嫌う荒太も同じだったらしい。
竜軌に対し、渋面になって諭すように言う。
「タクシーじゃキャッシュカードは使えませんよ」
「そのくらいの現金、持ち合わせている」
「公共の乗り物を使ってくださいよ。まだ、夜もそこまで遅くはないんだから」
「うるさい。俺の金の使い道にお前が口を出すな。相変わらずの吝嗇家め。……ほら見ろ、お前が細かいことでぐずぐず言うものだから、来てしまっただろうが」
その言葉に振り向き、真っ先に反応したのは真白だった。
「雪華!」
真白の手に吸い付くように、速やかに現れる美しい懐剣。
「――――飛空、ここだ」
一拍遅れて荒太の声が響く。
嵐が愛用していた腰刀の柄が、その手に握られる。感触を確かめるかのように、荒太が鞘を払った飛空をブンッと一振りする。それは実戦仕様の装飾皆無な刀で、剣護の扱う豪奢な臥龍とは対極的だ。
(飛空―――――――)
その腰刀を横目に見た真白の目に、感慨が浮かぶ。
飛空という銘は、嵐の頼みで若雪がつけたものだった。
市枝も百花を呼び出していた。
そんな彼らに対し、竜軌は何をするでもなく、ゆったりと腕を組んで見物する姿勢を示した。
真白が感慨に浸ったのは、一瞬のことだった。飛空に向け逸らされた目は、再び正面を見据え――――――――そして、大きく見開かれる。
虫の鳴く音は、いつしかピタリと止んでいた。
真白は今まで、魍魎、妖とは恐ろしいものだと考えていた。醜くおぞましい、人に害を成す生き物だと―――――――――――。
しかし今、目の前に立つのは。
「何、これ――――――?」
それは半透明の身体を持ち、いかにも無垢な雰囲気で佇んでいた。
整った面立ちに、小柄な身体。小首を傾げるような仕草は、害意を持っているのかどうかさえ疑わせる。しかも彼らの瞳には、邪気が見出せない。
そんな生き物が、二体立っていた。
(二体――――いえ、二人?)
澄んだ目をした彼らに、真白たちは混乱の面持ちだった。
これは何なのか。
魍魎と呼ぶにはあまりにも――――――――――。
「これを、斬れと言うの………?」
「何か問題があるかな?」
唖然として発した真白の言葉に、返って来た声があった。
低く、艶のある男の声。けれどどこか聴く者の耳にひやりと響く。
「誰!?」
市枝が厳しい声を上げる。
するり、と半透明の生き物の背後から出て来たのは、一目で高価と判るチャコールグレーのスーツを身に着けた男性だった。年のころは三十から四十程。銀に光る細いフレームの眼鏡の、奥にある目は笑みに細められている。スラッとした長身で、出来るビジネスマン、といった風情だ。
一見して怜悧な印象を強く受ける男だった。
(でも…、何だかいかにも、だ)
真白は男の風貌を凝視してそう思った。
この男はまるで、記号のように解りやすい容姿を、あえて形にした作り物のようだ。この外見を備えるまでに、男が歩んで来た筈の人生の、年輪のようなものが感じ取れない。
そんな印象を真白は受けた。
(けれど、生きている、という気配はする)
命を持つ存在の重量感が、目の前の男には確かにある。
「…あなたも、魍魎?この子たちも?」
信じられない思いで真白が尋ねる。
真白の当惑した表情を、ひどく楽しそうに男は眺めていた。
「その通りだよ、門倉真白。おや、随分と驚いた顔をしているね。何をそれ程、不思議と思うことがある?」
男は見た目の余裕そのままに、悠々と言い切った。
「だって、そんな―――――」
今まで見た妖と、あまりに違い過ぎる。
「今まで見た妖と、違い過ぎる?」
胸中を呼んだかのような男の言葉に、真白は驚いた。
「ふむ…。そもそも、魍魎がなぜ醜悪な姿形をしていたか、解っていないようだ。それはね、彼らが人に降りかかる自然災害の代行者として生まれたものだからだよ。しかしだな…門倉真白、人の世では実に安直に、一口に災害と言うが、ただ起きる自然現象を、人が災いと呼ぶのはなぜだと思う?」
なぜ――――――――?
真白には、考えたことも無い疑問だった。災いは―――災害は人に嘆きを呼ぶ。死を招く。――――――――だから、あってはならないものの筈だ。生じてはならないものの筈だ。そう考えるのは、人として当然ではないか。人として――――――――。
憐れむような微笑を浮かべて、男は続ける。
「それは、その自然現象が、人にとっての悪だからだ。人にとって、起きては都合の悪い現象だからだ。災いを災いたらしめるもの。それは、人の意識だよ」
男は両手を広げ、芝居じみた口調で得得として語り続ける。
「現象そのものは、善とも悪とも定まって生じるものではない。要は見る側が、己の眼をもって見る、何を善とし、何を悪と決めつけるかだ。それが、真実だ。――――――どうだ、門倉真白?そう考えてみると魍魎たちも、甚大なる霊力の顕現である吹雪が原因で生じた、被害者と言えなくも無いだろう?希望をもたらす光の吹雪とは、聞いて呆れる――――――――。立派に不幸を生んでいるではないか!」
真白は何も言えなかった。
今まで考えてもみなかった問題を突き付けられ、雪華の柄を握る手の力が、知らず弱まる。
それを敏感に見て取った男は、ますます愉悦に満ちた声で言い募った。
「この真実を踏まえても尚、我ら魍魎を滅し続けると言うのなら、それは既に善行ではない。単なる狩りだ。殺戮だ。そして我らは全力でそれに抗するだろう。つまりはただの、殺し合いが繰り広げられるだけの話だ。解るか?闇と光は、いつ入れ替わってもおかしくはないものなのだよ」
有効な反論が思い浮かばないまま、これだけは譲れない事実を真白は口にする。
「…………あなたの言うことが正しいとしても、私には、守りたい人たちがいる」
それは自分自身にも言い聞かせる言葉だった。
張り詰めた表情の真白に、男は尤もらしく頷いて見せた。
「そうだろうとも。だがその為に殺せるか。君の守りたい存在と同じく、脈打つ命を、響く鼓動を、自らの手で奪えるか?」
「―――――……」
自分が滅した魍魎の姿を、真白は思い出していた。今まで遭った魍魎は、異形だった。人とは程遠い、醜い姿だった。あまりに大きな自分たちとの差異ゆえに、生命が宿る相手と意識することなく雪華を振るうことが出来たのだ。
けれど、今目の前に立つ魍魎は。
真白たちが男の言葉に圧倒され押し黙っていると、その沈黙を破る威勢の良い声が響いた。
「またベラベラと、よく喋る魍魎だな。安っぽい現身を取りおって。真実がどうのと、お前はうつけか。襲い来る危難に向かい戦わんと欲するは、人でも獣でも変わらぬ性であろうが。つまらぬ理屈を並べ立てるその口、今ここで永遠に封じてやろうか」
腕を組んだまま、竜軌がジャリ、と半歩、男に向かって踏み出す。
スーツの男は片眉を歪めて竜軌を見ると、警戒するように間合いを取った。
「織田、信長…。ふん、成る程。粗暴な男だ。私は今日は、この子たちの紹介役として付き添っただけでね。残念ながら、君と刃を交えるのは又の機会にしよう。―――――ああ、そうだ。門倉真白。もうすぐ、懐かしい顔に出会えるよ。尤も彼は、君が憎くて仕方がないようだがね。君が彼と再会した時、どんな顔をするか、今から楽しみだ。君と彼の関係もまた、光と影に似たところがあるからね。では」
語り終えた男は、すうっと闇夜に消えた。